« あれこれと耳学問の日々過ごす | トップページ | 文が解くベートーヴェンの不滅の恋 »

2007/05/10

文人は命からがら辛いもの

 小生は、過日より、ドナルド・キーン著『渡辺崋山』(角地 幸男訳、新潮社)を読んでいる。最相葉月著『星新一 一〇〇一話をつくった人』(新潮社)も秀逸の伝記だったが、本書も単に渡辺崋山だからというのではなく、読み応えのある評伝である。

C0282

← 高士観瀑図(こうしかんばくず) (「渡辺崋山 田原市博物館」収蔵品より)

 これまで、本書から枝葉的な雑文として「君の貞節堅固は、松や柏と同じである」や「歌舞妓人探しあぐねて木阿弥さ」を書いてきたが、本稿も同じく、本書の記述から本書のテーマに直接は関係のない話題をピックアップしてメモしておく。

 先に進む前に、渡辺崋山を紹介するサイト(博物館)を掲げておく:
渡辺崋山 田原市博物館
 崋山の画には、多用な画風が見られる。「華山の代表作 田原市博物館」なる頁参照。小生などは、「一掃百態図」や「四州真景図」など市井の風景などを旅の道すがら、サッと描いた画が好きだ。
(残念ながら、「四州真景図」の画像が見つけられなかった。)

 本書や「渡辺崋山 - Wikipedia」によると、崋山は儒学者でありながら、蘭学に深く傾倒し、同時に国政(国防)に憂いを抱いた。
 画への思いは熱く、決して蘭学者ではなかったが、蘭学の頭目的存在になっていった。
 しかし、「しかし幕府の保守派、特に幕府目付鳥居耀蔵はこれらの動きを嫌ってい」て、「1839年(天保10)5月、鳥居はついにでっちあげの罪を設けて江川や崋山を罪に落とそうとした」のだった。
 そしてついに、「崋山は家宅捜索の際に幕府の保守的海防方針を批判し、そのために発表を控えていた『慎機論』が発見されてしまい、幕政批判で有罪となり、国元田原で蟄居することとなった。翌々年、生活のために絵を売っていたことが幕府で問題視されたとの風聞が立ち、藩に迷惑が及ぶことを恐れた崋山は「不忠不孝渡辺登」の絶筆の書を遺し自らの人生の幕を下ろした」のだった。
 いわゆる、「蛮社の獄」である(ちなみみ、取調べの際の様子を示す画を崋山は描いている。「渡辺崋山 田原市博物館」の中にも載っている)。

 国防への関心を封印し、蘭学とも縁を切ることになった崋山は、蟄居の生活の最中、画を描いては切り売りする生活に終始せざるをえなかった。
 心ならずも、思いがけない形で崋山の本来望んでいた画業三昧の生活に埋没できたというわけである。
 そんな晩年の崋山は若き日にも増して体の不調に苦しみつつも文人画などの画業に打ち込んだ。

 その文人画のお手本はやはり若き日と同様、中国の文人画だった。
 文人画は室町時代に伝わっていたが、盛んになったのは、江戸中期の頃のことで、代表的な文人画家というと、池大雅、与謝蕪村、谷文晁らと並び渡辺崋山ということになる。

 特に江戸中期、文人画が盛んになったのは、黄檗宗の影響があるという。
 以下は、ドナルド・キーン著『渡辺崋山』(角地 幸男訳、新潮社)からの一節:

 日本の文人の伝統が始まったのはせいぜい徳川時代中期で、儒教や漢文が流行し始めた時期と一致していた。寛文三年(一六六三)、禅宗の一派である黄檗宗に属する明の僧隠元(一五九二-一六七三)が宇治に万福寺を建立したことで、同時代の中国芸術に対する関心を目覚めさせることになった。徳川四代将軍家綱(一六四一-八〇)は万福寺を自分の庇護下に置き、援助を惜しまなかった。僧たちは学識ある中国人で、いずれも黄檗宗の教えを日本に伝えるために特に選ばれた人々だった。万福寺を訪れた日本人は、まず建物に目を奪われた。それは、日本の伝統的な寺院建築と著しく異なった様式で建てられていた。日本人は、祈祷や経を唱える際に使われる中国語の響きにも心惹かれた。また、黄檗宗の僧たちが考案した手の込んだ精進料理にも舌鼓を打った。それはまるで中国を旅しているかのようで、鎖国時代に経験できる唯一の中国体験だった。黄檗宗は絵画や書を非常に重視し、日本の画家たちには新鮮な刺激となった。
 文人画の育成には、享保十六年(一七三一)から十八年まで約二年間長崎に滞在した清の画家、沈南蘋(しんなんぴん)の人気も大きく寄与している。西洋に関心を抱き始める遥か以前、崋山は自分が中国絵画の新しい様式と考えるものを勉強するために、長崎に行く思いに駆られたことがあった。それは明・清王朝(大づかみに言って十四世紀から十八世紀の王朝)の絵画が初めて日本に入ってきた時期で、それまでの中国美術以前のものに限られていた。

Bakufu1

→ 瀑布双鳩図/蠣崎波響(「千葉市美術館 江戸の異国趣味 -南蘋風大流行-」より)

 さらに、ドナルド・キーン著『渡辺崋山』(角地 幸男訳、新潮社)からの一節:

 現存している崋山の画のほとんどは、文人画の様式で描かれている。文人という言葉が日本で使われ始めたのは十八世紀中期からで、すべての面にわたって中国文化に心酔していた教養ある人々の呼称として用いられた。幕府の鎖国政策のため、文人たちは中国に行くことが出来なかった。しかし彼らは、努めて自分の身辺を中国風の雰囲気で包むように心掛けた。お互いを雅号で呼び合い(あるいは、自ら雅号を名乗り)、その雅号はたいてい中国の詩の一節や、中国の山や川の名前から取ったものだった。文人たちは自分が中国人に見えるような衣服を着て、看護表現をちりばめた日本語で語り合った。気晴らしとしては、友人たちと煎茶を飲むことを楽しんだ。煎茶は茶の湯で喫される茶とはまったく種類が異なり、大ぶりな陶器の茶碗でなく小ぶりで上品な磁器の茶碗で飲むのだった。文人たちは畳に正座するのではなく、好んで椅子に座って煎茶を嗜んだ。こうした文人たちのコスモポリタン的な振舞は、幕府の鎖国政策はもちろんのこと徳川時代の社会を支配していた多くの制約から逃れる反体制の一つの形として解釈されている。

 文人画を描くのは、それだけで気骨の現れであり、覚悟の居る営為だったわけだ。文人気取りという時にイメージするものとは随分と違うようだ。
 それも、家綱が万福寺を庇護下に置いたからであり、その黄檗宗は、中国絵画や書を重視していたからこその流行だったのである。

 そんな中国の影響を受けて南蘋風が流行したことを示す展覧会があった:
千葉市美術館 江戸の異国趣味 -南蘋風大流行-

|

« あれこれと耳学問の日々過ごす | トップページ | 文が解くベートーヴェンの不滅の恋 »

文化・芸術」カテゴリの記事

近代・現代史」カテゴリの記事

美術エッセイ」カテゴリの記事

コメント

渡辺崋山、私はまったく詳しくないけれど、
個性的な人物ですね。
滝沢馬琴の息子を描いた折のエピソードを読むと、
人体解剖までしたレオナルドみたいで興味深い。

ところで、
万福寺は一度行ったことがあります(「黄檗」という駅で下車!)。
いいお寺でしたね、
雰囲気も建物の意匠も。
巨大な木魚――ほんとに魚の形――も廊下にぶら下がっていたし。。

投稿: ゲイリー | 2007/05/10 23:10

ゲイリーさん、コメント、ありがとう。
渡辺崋山は、実にユニークな人物です。この評伝は秀逸でした。彼は画も素晴らしいし、画に専心したいと思いつつ、有能で且つ真面目だっただけに藩政改革などの行政に深く関わるしかなかった。
本人は、一生、画にのみ生きたかったのです。

万福寺は全国にあるようですが、小生は本山も含め、行ったことがない。
是非、行ってみたいと思っています。

投稿: やいっち | 2007/05/11 08:13

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 文人は命からがら辛いもの:

« あれこれと耳学問の日々過ごす | トップページ | 文が解くベートーヴェンの不滅の恋 »