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2007/05/18

弦の音共鳴するは宇宙かも

 音楽と宗教との関係。
 日本や東洋はいざしらず、西欧においては、音楽と宗教とは切っても切れない関係を持っているようだ。
 実際、宗教音楽というと、西欧の宗教音楽をつい想定してしまう。
宗教音楽 - Wikipedia」を覗いても、冒頭に、「宗教音楽とは、宗教においてのミサ、礼拝、祭礼などに用いられる音楽である」として、以下、「具体的には、キリスト教における賛美歌や聖歌、ミサ曲、モテット、カンタータ、コラール、オラトリオ、レクイエムなどが挙げられ、それらはミサ典礼文や聖書に基づいたテキストによって構成されている」云々と続く。
「現在の西洋音楽はキリスト教音楽から発達したといえよう」というのは、異論がありえるのかどうか。

「仏教においての声明(しょうみょう)御詠歌や、神道においての神楽、儒教においての雅楽などがある」というが、西洋の宗教音楽に相当するものがあるかどうか、という問いに対して、こんな音楽があるということであって、西欧とはまるで違う。

 何が違うのか。大雑把に言うと、楽譜ということになるのか。記譜法の発達が西洋の宗教音楽を発達させたのかどうかは分からないが、今に豊かな情報というか遺産として残ることに資したとは言えそう。
 その点、東洋の多くの音楽は、まさに人づてに伝わってきたものが多い。
 ひたすら師とする人の下での修練が大切というわけである。

 さて、小生、音楽と宗教といっても、何も宗教音楽について調べてみようというのではない。
 むしろ、音楽の持つ、不可思議な世界を宗教という世界に喩えようとしているに過ぎない。
 世界は音楽。世界は数的な調和の世界。諧調を成す宇宙。
 まあ、そんな大袈裟なことなど言い募る必要などないのだが、聴く曲や演奏によっては、何処か異世界へ飛んで行ってしまうものもある。

 脈絡もなく、こんなことに思いをめぐらしてみたくなったのは、「波動・音・声・ことば―すべての生命は音調とリズムを表し、宇宙はハーモニーの法則によって動く。インド音楽の名手でもあった、スーフィズムの伝道者イナーヤト・ハーンが語る、音の神秘」といった謳い文句の、ハズラト・イナーヤト・ハーン著『音の神秘―生命は音楽を奏でる』(土取 利行訳、平河出版社)を読み始めた影響かもしれない。

 そもそも音楽とは何だろう。
音楽 - Wikipedia」によると、「川の流れなどで生じるランダムな音(これを音響学では雑音という)以外の、時間的に規則性がある・周波数に規則性があるなど、ランダムさが低い特性をもち、かつ人間が楽しむことのできる音のことをさす」とある。
 川の流れの音は、ランダムかもしれないが(本当にランダムだろうか)、雑音というのは、納得し難い見解かもしれない。
 ただ、通常は、人が関与して作られた音の世界なのだろうから、川のせせらぎが聴く人によっては(大抵の人はそうだろうが!)、耳に心に心地いいとしても、定義上、音楽ではないということなのだろう。
 
 が、音楽を人が作ったかどうかに関係なく、とにかく「人間が楽しむことのできる音」の連なりと理解するなら、風に木の葉の鳴る音も、川の瀬音も、衣擦れの音も、身近な愛しい人の息衝く音も、心臓の鼓動も、その全てが音楽であっていい。
 犬の鳴き声・吼え声は煩かったりするが、クンクンと甘えるような声に、音楽とは思わなくとも、楽しめる心和む音(声)でありえるのは、異論が少ないだろう。

 音楽の不思議。目を見開いても決して見えない。せいぜい、音源が見えるだけ。演奏する人の様子。歌う姿。川。ステップを踏んだりしてダンスする人の肉体や表情。
 目を閉じても、耳を心を塞がない限り、音は聞こえてくる。
 否、むしろ、目を閉じたほうが音は至純となって魂を揺さぶったりする。

 ビートルズアバ(ABBA)や、学生時代の一時期はワーグナーの音楽に圧倒されていた。
 ワーグナーの音楽を聴きながら、ショーペンハウエルの哲学書を読むのが日課だった時期もある。
 この世界、あるいは宇宙の一番深い世界は、数学でしか表現できないのかもしれない、などとショーペンハウエルの書を読みながら思ったものだった。
 無論、音楽こそが数学より魂を心底から震撼させてくれる。
 が、人間には耐え切れないほどの眩しさというものがある。眩しすぎる世界の前では平伏するしかない。目を閉じるしかない。美しすぎる音楽に圧倒され、耳を塞ぐ…ことはないとしても、人間の耳には最早、聞き取ることの永遠に叶わない音の世界がありえる。
 それは数学という強力な武器を使ってでないと、その片鱗以上には触れ得ないのではないかと思ったのだった。
 
 例えば、色の世界。色を認識する能力において小生は平凡な程度には恵まれている。が、多くの昆虫には到底、叶わない。紫外線や赤外線など体に影響を受けることはあっても(誤って目に紫外線が飛び込んだら、目を損傷するかもしれないが)、赤や青や黄色を認識するようには、決して見ること、識別することはできない。
 光の世界のほんの狭い波長の中で、色を認識しているに過ぎない。
 そうであっても、その限られた波長の世界を豊かなものとして満足することはできなくはない、のだが。

 匂いに付いても、そう。犬の嗅覚は、数分子の匂い分子をも嗅ぎ分ける能力があるという。
 犬の嗅覚が探知し認識している世界というのは、人間には想像が決して及ばないのではなかろうか。
 数日前の誰かの歩いた痕を匂いで嗅ぎ分ける。
 犬には世界が少なくとも嗅覚の面では、人間には想像もつかないほどに豊穣な世界と見えている。
 
 尤も、匂いを探知できるからといっても、その匂いを意味づけできないと、やはり、退屈な世界には変わりないのかもしれない。
 世界一の化粧品の店に居ても、マスカラも口紅も頬紅も何も全く興味なかったら、あれどもなきが如しで退屈な空間にしか過ぎないし、その空間にいても、眠気を堪えるばかりなのだろう。
 
 色にしろ、音にしろ、匂いにしろ、味にしても、それぞれを識別し意味づけし、差異を設け、自分なりに楽しめないと、溢れるほどの感覚の素材の中で、溺れるどころか、眠りこけてしまうだけに終わる。

 では、一体、人は音に快感を覚えるという時、何かの意味づけをしているのだろうか。
 そんなことはないように思える。
 リズム感、体がワクワクする感じ、あるいは荘厳な気分に誘われ、自然と和んだり癒されたり励まされたり豊かに感じられたりする。
 意味とは無縁なところで、音の連なりの世界を文字通り、楽しむ。楽しめる。
 
 光溢れる世界。が、光は、あるいは紫外線のように目を閉じても体のある程度まで刺し貫くのかもしれないが、識別できる光については、ほとんどが遮断される。
 が、音は、目を閉じても、心の奥に届く。
 魂が揺さぶられる。
 あるいは、鈍感で平凡な自分でも、感動する心があったのだと気付かされたりする。
 そう、魂などという、人前では気恥ずかしくて平気では容易に口にしえない、何かを心底から感じてしまう。
 音の神秘。
 音は、何か特定の宗教・宗派に繋がるかどうかは別にして、宗教的世界へ直結する。
 少なくとも、宗教的世界という表現でしか示せない世界への扉を開けてくれる。
 音楽と宗教とは、常にではないにしろ、背中合わせの存在なのであろう。

 その音楽と宗教とが、西欧と東洋とでは、あり方が全く違ってきたというのは、何かしらを暗示しているような気もする。楽譜へと至った西欧と人づての伝承に近年まで(西欧に深く接するまで)固執してきた東洋との異同というのは、想像以上に意味深な何かがあるように思えてならない。
 が、現代においては、圧倒的に西欧の音楽が世界を席捲している。
 楽譜に記す音楽。
 無論、現代においては、録音技術が発達していて、世界各地の音楽が保存されつつある。
 けれど、記譜法という技術というのは、圧倒的なものがある。
 音楽が、どんな手段や方法にしろ、楽譜に一応は表現できるはずという西欧的発想は、音楽の世界を広げたり深めたりしている、のだろうか。

 目を閉じても、音源に背を向けていても、音が鳴っている。音楽が奏でられている。真っ暗闇の宇宙の中で音が鳴っている。音という素粒子があるのだろうか。
 音という波長があるのだろうか。波が波動となって我々の肉体と同調するのだろうか。
 音という言葉では示すことのできない、何かもっと根源的な何かが、たまたま人間には音という仮の形象で受けとめられているに過ぎなくて、実際には、宇宙の溜め息か囁きか呼びかけか、それこそ宇宙の鼓動のようなものが鳴動しているということなのだろうか。
 
 川の流れの音。水の音。山の音。
 最近、弦楽器に親しむ機会が多い。発端となったのは、ジャン・シャオチン(姜小青)さんの「悠 Breathing Spaces」(パシフィック・ムーン・レコード)である。勘違いして借り出してきたCDなのだが、ぞっこんである。
 今は、内田奈織さんの『HARP TO HEART~Love&Favorite Songs~』(TEICHIKU ENTERTAINMENT,INC)と代わる代わる聞いている。

 繰り返し、繰り返し。
 ハープ
 弦楽器の不思議。
 弦楽器は人が弦を操作しているのだろうが、その弦は何に共鳴しているのだろう。無論、何らかの共鳴体だといのが、直接の答えだが、本当の共鳴体というのは、宇宙そのモノなのではなかろうか。
 疲れた。今日は、これくらいでやめておく。あとは、曲に聞き入りつつ、寝入ればいいのだ。
 機会があったら、ハープの世界を少し、巡ってみようかな。

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