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2007/05/26

誰もいない森の中の倒木の音

 ハズラト・イナーヤト・ハーン著『音の神秘―生命は音楽を奏でる』(土取 利行訳、平河出版社)を読了した。
 といっても、本書のような神秘性・宗教性の高い本を読了したというのは、やや難を感じる。
 かといって、目を通したというのも、見下しているかのようで、やはりこそばゆい。
 いっそのこと通読したと、あっさり表現しておけばよかったのか。
 さすがにこの手の宗教書ではないが、「音楽は宗教そのもの」と言い切る強烈な宗教的信念を持つ方の本に、安直に感想文など綴れない。

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← 今年二月、夜の代々木公園で見かけた謎のドーム群。

 金曜日は所要があって予定を変更し、休みを取ったが、時間が取れたので、上掲書の「訳者あとがき」をパソコンに転記する作業に没頭した。
 筆者のイナーヤト・ハーンについての情報がネット上では(日本語では)あまり見つからなかったから、折を見て、転記した文の一部か全文をアップするつもりでいる。

 さて、上掲の本を読んで、音楽、もっと言うと、音への思いを改めて巡らせてみた。
 音、それも沈黙の音を巡っては、過去、若干のエッセイを綴ってみたことがある:
誰もいない森の音

 さすがに、イナーヤト・ハーンの域には遥かに及ばないのだけど、上掲書を読みつつ、「夜 の 詩 想」などと共に、ふと思い出されたエッセイのうちの一つなので、せっかくなので改めて日の目を見させてやりたいのである。
石橋睦美「朝の森」に寄せて」と併せて目を通してもらえればと思う。

誰もいない森の音

 小生が哲学に興味を持ち始めた頃、本格的な哲学書を読み齧ると同時に、哲学入門や案内的な本を片っ端から読み漁った。哲学にそして、哲学する上でマニュアルなどないのだが、それでも、哲学史の本を含めて、自分なりに哲学のイメージを膨らませるのに、無用だったとは思えない。
 マニュアルというのは、誰かが言うように梯子か階段のようなものだ。誰も、いつまでもそんな中途半端な場所に居続けようとは思わない。しかし、天才ならぬ凡人が何処かへ、あるいは一つ高い次元へ至るためには、いずれにしても通らなければならない階梯があるのである。
 そうしたある日、何かの入門書で、変わった問い掛けをされた。それは次のようなものだった。

(但し、記憶が朧なので、「誰もない森の中で木が倒れたら、音は聞こえるか…」という曖昧な文しか思い浮かばない。
 その入門書で、どのような展開がされたのか、小生は覚えていない。
 この問いというのは、結構、有名な問いのようである。恐らくはネットでも探せば幾つか、関連するサイトが見つかるはずだ。もっと確かな問いの文を俎上に載せたい。
 そう思って、小生は、「森 木 音 誰 倒」をキーワードにして検索してみた。が、ヒットしたのは一件だけ。それは、「ピアノの森」(一色まこと作、講談社刊)という、一部のファンには有名らしい漫画を批評したサイトだった。)

 はっきりしなかった問いとは、次の問いなのである。但し、記憶の彼方の問いと全く同じかどうかは、なんともいえない:
「誰もいない森の中で一本の木が倒れたとき、どんな音がするのか」

 そのサイトでは、この問いについて、「誰もいないのだから音を聞いたものはいないわけで音はしなかった、と答えるだろうか。それとも、音は響いたに違いないが、どんな音かは誰も耳にしていないのだから知る由もない、と答えるだろうか。」と続けている。

 小生が読んだ入門書が、このサイトと同じような展開をさせたか、前述したように小生は覚えていない。
 この問い掛けに対し、そもそも木が倒れたかどうか、それ自体が不明ではないかという疑問が成り立ちうる。誰もいない森の中で木が倒れたとしても、誰も気が付くはずがない、というのである。尤もな話だ。
 それゆえ、森の中で木が倒れたという気がするなら、森の中へ分け入って、その時間帯に木が倒れた形跡があるかどうかを実際に確かめてみればいいのだ。
 で、本当に倒れた木があったのなら、木が倒れる際に、まるで無音ということは考えられない。従って音がしたのだし、その音がどんな風だったかを確かめたいというのなら、同じような木を同じような条件のもとに倒してみればいい、するとほぼ完璧に似た音を聞くことができるはずだ…。

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→ 一昨年の秋、日比谷公園にて。謎の丘?!

 なんという科学的な態度だろう。全く、二の句も告げない。現代においては、何事も、こうでなくちゃいけない。 誰もいなかったとしても、誰も聞いていないとしても、木が本当に倒れたのなら音がしたのだろう、それがどんな音だって、どうだっていいじゃないか。別に科学的だろうが、ただの理屈だろうが、話はそれで終わりってことでいいじゃないか…。
 が、それでは話がまるでつまらない。問いの持つ何処か意味深な雰囲気が掻き消されてしまう。身も蓋もない気がしてしまう。この問いに対して、単にもっともらしい理屈を持ち出して済ませられる人もいるのだろう。そしてそのほうが常識のある態度なのだろう。
 しかし、この問いの形式には、何か胸に響くものを感じてならない。
 一体、この問いは、本来、何を問い掛けているのだろうか。 小生は、「石橋睦美「朝の森」に寄せて」という稿の中で、次のように書いた:

 森の奥の人跡未踏の地にも雨が降る。誰も見たことのない雨。流されなかった涙のような雨滴。誰の肩にも触れることのない雨の雫。雨滴の一粒一粒に宇宙が見える。誰も見ていなくても、透明な雫には宇宙が映っている。数千年の時を超えて生き延びてきた木々の森。その木の肌に、いつか耳を押し当ててみたい。 きっと、遠い昔に忘れ去った、それとも、生れ落ちた瞬間に迷子になり、誰一人、道を導いてくれる人のいない世界に迷い続けていた自分の心に、遠い懐かしい無音の響きを直接に与えてくれるに違いないと思う。
 その響きはちっぽけな心を揺るがす。心が震える。生きるのが怖いほどに震えて止まない。大地が揺れる。世界が揺れる。不安に押し潰される。世界が洪水となって一切を押し流す。
 その後には、何が残るのだろうか。それとも、残るものなど、ない?
 何も残らなくても構わないのかもしれない。
 きっと、森の中に音無き木霊が鳴り続けるように、自分が震えつづけて生きた、その名残が、何もないはずの世界に<何か>として揺れ響き震えつづけるに違いない。
 それだけで、きっと、十分に有り難きことなのだ。

 実は、「森の奥の人跡未踏の地にも雨が降る。」という着想の根は、「誰もいない森の中で一本の木が倒れたとき、どんな音がするのか」という若い頃から気になり続けてきた問いかけにあったのである。
 音からイメージの輪を広げることが難しかったことと、石橋睦美「朝の森」の美しい映像に魅せられたこと、さらに、石橋睦美氏自身の「朝の森」という小文にも詩的興趣を喚起させられたこともある。

 その中から、ほんの一節だけを引用させてもらうが、是非、全文を読んでもらいたい:

 湿気が充満する日の森ほど表情が美しい時はない。雨の降る森には静寂感が忍び寄っているし、霧が包む森には淡彩色の美が漂う。雪が降る日は森の神秘性が最も色濃く現れて、心が洗われるような思いになる。

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← 同じ丘を違う角度から。

 この一文を読んで小生は痺れたのである。
 言うまでもなく、石橋睦美氏は、実際に各地へ現地へ赴かれて、森の表情の一番美しい時を待ち、時よ止まれとばかりに撮ったわけである。誰もいない森ではないのだし、誰もいない森の音を聞いたわけでも、誰もいない朝の森の美しさを撮ったわけでもない。氏の存在があってこその賜物なのである。
 しかし、「森の奥の人跡未踏の地にも雨が降る」とか、「誰もいない森の中の倒木の音」というのは、まったくの瞑想の産物なのだ。ここに自分がいて、想像しているのである。自分の存在さえ、そこにはない。あってはならない。ないほうがいい。
 人跡未踏の森など、この期に及んで現代にあって存在しているのかどうか、小生は知らない。
 が、誰の足音にも影響しなければ影響されることのないその沈黙せる音を、誰の足元をも、誰の頬をも濡らすことない雨の雫にこそ、映るに違いない宇宙の静寂を聴き取りたかったのだ。誰の肌にも触れたことのない古木の罅割れた木肌に耳を押し当ててみたかったのだ。
 その時、何が聞こえてくるのだろうか。何が見えてくるのだろうか。 誰もいない森の音という時、そんな至福の瞑想が誘われてならないのである。
                       (03/07/07 記)

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コメント

 森の中、って設定が要素なんですよね。
 っす、国見さん、こんばんは。
 僕なら、寝てる間の屁はプーか、スーか、なんて問い方をしてしまう(〃^∇^悲)。
 加えて、大きなプーもあれば小さなプーもあるわけで。さらに小さなプー、極小のプーもあるわけで。
 さらには、放屁の一瞬前に肛門が震えるときにも、かすかな音がするわけで、―― いや、もうこのへんでやめときますけど(〃^∇^〃)。
 もとい、極小の音がする、例えば、一本の木の一枚の葉っぱの朝露のひと雫が消え行くときにも、誰にも聞かれることのない、小さな音がするわけで、―― いいねえ、調子が出てきたねえ。

 話が変わりますけど。
 大きくなりすぎた星が自らの重さで潰れる音って、ば~ん、なんですかねえ。いや、音はしないのかな?
 音がしないのなら気持ちが悪いですねえ。ば~ん、といってくれないと収まりが悪い。声に出して言えなかったことばの行方に似ています。浮かばれない。
 誰もいない森の中で、ピアノに雷が落ちたとして。そのときピアノが奏でた旋律は?
 声に出してみたけれど、誰にも届かなかったことばに似ています。これは悲しい。誰かに聞いていて欲しかった。

 小理屈をいえば、誰もいない、と言った時点で、そこにはもう自分がいる訳で。
 前頭葉が痒くなるので端折りますが、誰もいない、なんてことさえないくらい、あるとかないとかということもないくらいの誰もいない加減で考えたとき、誰もいない森の意味深な雰囲気が醸されてくるのでしょう。

 地球が自転する音って、ぶ~ん、ですかねえ。
 なぜ聞こえないのでしょうね。
 極小が聞こえないように、極大も聞こえないのかな?
 そういえば、音の大きさについて、有限とか無限とか考えたことがなかったなあ。
 無限に小さい音があるのなら、無限に大きな音もあってよさそうです。

 てなわけで、限界っ。
 やっぱ、焼酎は芋ですなあ。芋ロック。安いっ。200円くらいで壺中天に行ける。
 いろいろ無邪気に考えて、組み立てて、しかしすぐに限界がきて、みごとに座屈します(〃^∇^酔)。

投稿: 青梗菜 | 2007/05/28 00:27

青梗菜さん、ちょっと酔ってる?
誰もいない森の音っていう設定とは違うけれど、そもそも人間の感覚の能力なんて限られている。色だって、極めて狭い波長の範囲で世界を見て、虹の七色だなんて格好付けちゃって。
匂いだって、ワンちゃんからしたら嗅覚がないのも同然だろうし。
せいぜい、認識というより想像力(妄想力?)で足らざるを補っているつもりだろうけど、でも、その想像力も、現に感覚し認識している世界を微細に詳細に分析しているだけ。その分析結果から一応は直接には認識できない世界を(虚数の世界を)類推風に想定しているだけ。
まあ、数学などの力を使ってなので、数学の力のない奴には想像もタカが知れているけれど。
ただ、それでも、ちんまりした世界の中で生きているからこそ、瑣末な違いにこだわってしまうんだね。
まあ、一言で言うと、諦めが悪いってことか。
なので、堂々巡りの営為を延々と続けるってわけです。
毎日、お酒を飲むように!

投稿: やいっち | 2007/05/28 01:03

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