原子力発電って大丈夫なの?
原子力発電って大丈夫なのか? このままでいいのか?
テレビなどニュースで電力会社の事故隠しが頻繁に報道されてはいる。が、朝晩のワイドショーでこの話題が採り上げられることは、まずない。観たことがない。
あっても、触れる程度。今朝も、痴漢とか芸能人ネタとかが主。
ワイドショー的な番組に期待するのがお門違いなのかもしれない。
社会的影響の大きさを考えると、番組制作の姿勢、何を採り上げるかの価値観は、娯楽だからといった話では済まないものを感じる。
← 1999年刊とやや古いが、『孤立する日本のエネルギー政策』(日本弁護士連合会 編、七つ森書館)「本のエネルギー需要と供給を分析、米、独などのエネルギー先進国を現地調査した上で、「エネルギー政策基本法」を提言。日弁連公式レポート。」という。「書評 孤立する日本のエネルギー政策」参照。
小生は、電力会社の事故隠しは、マスコミが連日報道するに価するニュースだと思う。 場合によってはどこかのテレビ局がキャンペーンを張ってでも体当たりで報道すべきほどの意義を持つはず。
つい、先日も、臨界状態ギリギリの事故があったのに、隠されていたことが露見したばかり。ほとんど爆発寸前だった。
大体、事故の実態を電力会社の調査に任せるなんて論外ではないか。第三者の調査でも実質、仲間内、身内みたいなものだし。
「参議院 予算委員会議事録 2007年03月19日 石川県志賀原子力発電所の臨界事故隠蔽について」を読むと社民党の福島みずほさんと甘利明大臣との遣り取りが読めて面白い。
「常態化する電力会社の隠蔽体質が招く、安全安心とイノベーションブランドの危機 - ビジネススタイル - nikkei BPnet」での指摘を参照すると、「電力各社によるデータ改ざん、事故隠しが後を絶たない。ダムデータの改ざん、原発での緊急停止隠蔽に加え、週明けには特殊と思われていた制御棒が外れる事象がさらに発覚。報告義務がなかったから、臨界に達していないから、などとして、今回の事故発覚で改めて公表することにしている。電力会社の対応は何やら他人事のようだ。」ということになる。
さらに、「事故が起きてからでは遅い。それも、小さなミスではなく、重大ミス。事態を究明しようしたが、当時の資料が見つからない状態にある(意図的な廃棄があるとの調査報告となっている)。安全安心神話が地に落ちた状態で、信頼回復や再発防止の文言が白々しい。」というのは、多くの人が痛感していることではないのか。
「原子力発電って大丈夫なのか? [月刊チャージャー]」
一部だけ転記する:
「原子炉のメンテナンス、掃除はどうやるか知ってますか? 発電所の原子炉は1年に1回程度運転を停止して定期点検や補修をします。停止直後の炉内は放射能汚染がすごいから、重装備でも被曝する。だから、電力会社や発電機メーカーの人間が最初に入るんじゃなくて、日雇いのようなシステムで肉体労働者が中に入って、雑巾で放射能を拭き取ることから始まるんです。労働者の「ノルマ」は被曝量。つまり、被曝量が一定レベルに達すると解雇される。原発問題は、安全や電力需要という以前に、人間の尊厳に関わる問題なんですよ。」
この実態だけでも、テレビなどのマスコミは報道すべきではないのか。 一部の人には常識に過ぎない現実なのだとか。
先ごろ、「あるある大事典」のねつ造問題が世情を賑わした:
「日本民間放送連盟の会員活動停止について 関西テレビ放送株式会社 代表取締役社長 千草宗一郎」
この問題については今は贅言を避ける。
が、テレビ報道や番組の偏向ぶり、ねつ造を指摘するなら、そもそも、肝心な問題を当初から取り上げない姿勢をこそ世間は関心を持つべきではないかと思う。
常態化する電力会社の隠蔽体質が招く結果は悲惨の一言では済まないものがあるはずだろう。
● 念のため、公式見解が示されている、電気事業連合会の下記サイトを示しておくべきだろう:
「FEPC-日本の原子力」
中を覗くと、建前に終始した記述しか望めない。
「原子力への取り組み 放射性廃棄物の処理・処分」を覗いても、「原子力発電は、電気をつくるとともに放射性廃棄物を発生します。原子力を利用していくうえで、放射性廃棄物の管理および処理・処分は、たいへん重要です。とくに高レベル放射性廃棄物の最終処分は、今後の大きな課題です。」だって!
当事者でさえ、「高レベル放射性廃棄物の最終処分は、今後の大きな課題です」と認めているのだ。
以前にもある例を書いたことがある。
つまり、たとえば、ここに非常に貴重な品がある。例えば、この世に二つとない鉛筆。あまりに貴重なので周囲数メートル以内には人は近寄ってはいけない。万が一にも人が触れるのは勿論、他の何かに接触するのも不可。接触した事物に人が触れるのも不可。
その不可触物体である鉛筆を、一切、傷付けることなく、数万年(3万年!)、保存する必要がある。
さて、一体、費用は幾らを要するだろう。保存や管理の責任は誰が持つ。21世紀は、日本は頑張って存立できるとしても、22世紀はどうだろう。23世紀は?
それが、321世紀まではかの<鉛筆>を守り通さないといけない。
神様にも保証の限りにあらず、なのではないか。
原子力発電について、コストの面では割高なことは既に明らかになっている。
そもそも、「日本にある火力発電所は、「原発を稼働させるため」に、普段は能力の半分も稼働していないんです。原発での発電量をすべて火力に置き換えても、7割程度の稼働で事足りる計算になります」ということからして、実際面で必要不可欠でもない。
これらの事実は、原子力発電を推進する立場にある人も認めざるを得ない現状に至っている。
こういった実状は隠しようが(核使用と誤変換された)がなくなっているのである。
では、何ゆえ、危険を顧みず、原子力発電に依存するエネルギー政策を採る必要があるのか。
容易に想像が付くのは、中東(世界の火薬庫)に石油を依存する日本のエネルギー政策や現実の脆弱さを少しでも緩和したい、エネルギー(源)の多角化を図りたいという、切実な、ある意味国家の根幹に関わる事情があるのだろうということ。
● ここは、推進する立場の方に語ってもらうのがいいのだろう。今度は、民間ではなくお役所のサイトを:
「資源エネルギー庁 施策情報 原子力政策の現状について」
食料の自給率の低さも先進国の中で最低水準にある(このことへの危機感を国家としてどこまで持っているのか疑問。松岡大臣に聞いて見たいものだ)。
それ以上に自給率の低いのがエネルギーなのである。
食料とエネルギーの両方の自給率が低いというのは、小生には国家として致命的ではなかろうか。
さて、上掲の頁には、資源獲得競争が勃発していると書いてある。ロシア、中国、インド、ブラジルの台頭。食料
もエネルギー源も世界が血眼になって奪い合っている現実がある。
(今の政権の意向が働いているのか、中国の脅威ばかりが強調されすぎている。アメリカはどうなの、ブラジルなどの南米だって中米だって、モンゴルだって、ロシアだってインドだって、東南アジア各国だって必死ではないか。)
19世紀から20世紀前半の石油などの獲得競争が戦争に至ったこと、日本も南太平洋などの石油資源の確保のために戦線を拡大し、悲惨な結果になったのだった。
★ あの、大体、そもそも、ウランって日本はほとんどが輸入に頼っているんじゃなかったっけ。だったら、所詮、原子力発電は供給源の多様化には寄与していても、自給率にはウランは全く貢献していないことになるのでは?
「ウラン資源の将来 - 最新トピックス - 「原子力のすべて」」参照。
さらに、石油など天然資源を巡る獲得競争があるのに、オイルショックが生じないのは何故か。それは、原子力(や石炭、LNG、ほか)などの代替エネルギーのお陰だというわけである。
が、その石炭が脚光を浴びた結果、地球環境への悪影響が懸念され、やはり原子力がいいんだよ、と日本の原子力推進政策の優れていることを自賛しているわけである。
現在稼動している原子力発電のエネルギーを風力などの代替エネルギーへ転換させるのは時期早々であるとも主張している。この詭弁は、そもそも、火力発電で十分、エネルギーが補える能力があることで、論理として破綻しているのだが。
さらに、世界では、エネルギーの安定供給と地球温暖化対策などから、原子力への回帰が始まっていると主張している。
これは、右習いするのがいいんじゃないのという主張に他ならない。赤信号、みんなで渡れば、みんなで破滅、というわけである。
そのほか、小生が思い浮かぶような疑問については、「資源エネルギー庁 よくある質問とその回答」が答えてくれるはずである。
いずれにしても、国家が原子力の利用を政策として推進している以上、電力会社は安泰なのだろう。問題が露見した時点で(決して、事故が起きた時点ではなく!)、多少、一部の人に責任を負わせることがあっても、隠蔽体質自体を変える必要はないと高をくくっているようでもある。
自動車産業が日本の(世界の)基幹産業である限りは、問題が露見した事柄について、あるいはマスコミが採り上げ騒ぎが大きくなった事象について、対策を考えても、抜本的な対策には決して取り掛からない。M自動車など、存在すること自体が不可思議なはずなのに。
それと同じように、あるいはそれ以上に、電力会社についても、何があっても、事故があっても(露見を未然に防止さえできれば)基本的に存立は安泰なのだ。
ハインリッヒの法則がある。
「ハインリッヒの法則は、労働災害における経験則の一つである。1つの重大事故の背後には29の軽微な事故があり、その背景には300の異常が存在するというもの」である。
このことから類推すると、日本では原子力に関し、燃料の制御棒の落下事故など、既に軽微とは言えない事故が数十回あったのだろうから、そろそろ、一つの重大事故が生じる可能性が大ということになる。
九州電力のプルサーマル計画も白紙撤回したほうが無難なのではないか。国にしても、その予算で代替エネルギーへの移行を推進したほうがいいのではないのか。
東海村JCO臨界事故の記憶は薄れつつあるのだろうか。
「東海村JCO臨界事故は、1999年9月30日、茨城県那珂郡東海村でJCO(株式会社ジェー・シー・オー)(住友金属鉱山の子会社)の核燃料加工施設が起こした原子力事故。初めて被曝による死者2名を出した日本最悪の原子力事故である」というもの。
この事故は、十年を経ないで発生した大事故の予兆に過ぎなかったと言われることのないよう、祈るような思いで日本の原子力政策の行く末を見詰めるばかりである。
今後、どのようなエネルギー政策が望まれるのだろうか。
その前に、「世界と日本のエネルギー事情」を覗いておくのも参考になるだろう。
原発頼りでは、コスト面の高さ、危険性から考えても、自縄自縛に陥る危険性が大きい。早急に方針の転換を検討すべき段階に来ているのではなかろうか。
まずは、電力自由化である。あるいは電力小売り自由化など(既に進められつつあるが)。
巨大な装置産業である現状を転換するところから始めるべきだろう。電力事業の独占政策を廃し(これある限り、事故の隠蔽は決してなくならない。競合する会社がないのに危機感が生じるはずもないのだ)、どこかに巨大な発電所を作り、長い送電線を作り、発電した電力の相当量をロスしてしまうという現状はあまりに滑稽であろう。
アメリカなどで問題があったとしても、電力の規制緩和を図るのが賢明なのではなかろうか。
(発電と送電のそれぞれについて個別に検討すべき問題もある。燃料電池)
つまり、エネルギー供給源の多様化よりも、電力を作り販売する新規の会社の参入を許すべきなのである。既にトヨタなどが検討していると仄聞する。金融も自前なら、電力も自前で供給(販売も)するというわけである。
発電についても、地域ごとに一社に独占させるのでは、安全保障的にも問題があろう。一定の条件下で競合する数社があったほうがルートの複線化につながり安心の確保に繋がるのではないか。
昨今の電力会社の事故隠しの事件は、電力の地域ごとの独占政策の限界を示していると理解すべきだろう。送電のルートの確保や保守の問題を理解しつつ、電力小売りの自由化を一層、促進すべき時期が来ていると考えられるのである。
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コメント
今日は。
1999年秋の東海村の原子力事故
丁度茨城県に勤務していたのでとても緊張しました。
事故後2週間、事故があった場所から500m
ぐらいにある、常磐自動車道を走行しました。
車の中からあそこと見ていました。
道路の表示に、”窓を閉めて、息を止めて、速やかに通過せよ”とありました。
何か、笑ってしまいました。こんな危険な施設が
高速道路のすぐ近くにある、もちろん、民家もありました。
中で働く人はご指摘のように、原子力施設を流れ歩く、日雇いの労働者。お金がよいので、被爆許容ギリギリで、色が変わるパッチをつけて働いているのだそうです。
色が変わっていてもごまかしたり、雇用者も見てみぬ振りをしているとか。
亡くなられた2人は素手で、バケツを使い作業していたとか。
何も知らされていないのです。
もっと、これこそ、詳しく報道されなければ。
そして、被爆による死に様がいかなる状態かも、知らせるべきです。
クリーンな、CO2を出さないエネルギーと謳っていますが、いかに恐ろしいリスクと背中合わせにいることを自覚しなければ。
投稿: さと | 2007/04/17 18:30
さとさん、コメント、ありがとう。
東海村原子力事故は、風化させてはいけないですね。最近の事故情報隠しという関係機関の体質を見ると、つくづく危機感は一般市民自身が持つべきだろうと思ったものです。電力会社も行政当局も原発政策を推進する立場から建前しか話さないし、実態には目を遠ざける傾向がある。
念のため、下記サイトを:
「「均一化は必要なかった」(吉田守審査官)NHK特集 事故原因の核心に迫る」
http://www.jcan.net/tanpoposya/tsuchida/jco0311mtzk.htm
危険は常に現場にある。皺寄せは情報鎖国の憂き目に遭っている市民にある。繰り返しになりますが、危機感は我々自身が持ち続けるしかないようです。原発に付いては、安全神話を喧伝する国や地域での電力事業を独占する企業は当てにならないのです。
投稿: やいっち | 2007/04/17 22:30