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2007/04/08

棕櫚の樹や麦の話と二毛作

 先月、あるブログの記事を読んでいて、添えてある画像に感じるものがあった。
 画像の中の棕櫚、というより正確には、付されている文章にちょっと刺激を受けたのだ。
 子供の頃、家の庭に棕櫚(シュロ)の樹が三本生えていたと書いてあった。

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← 郷里の家の庭にある棕櫚の樹二本。疑問はこの樹を巡って。

 でも、一番、そうだったのか! と思わせられたのは、「繊維状の樹皮で縄を綯ったこともあったなあ」というくだりだったのである。

 小生の郷里の家の庭には今も棕櫚の樹が二本、生えている。
 棕櫚なのか、蘇鉄(ソテツ)なのか、実のところ、小生には分からない(多分、唐棕櫚だろうと思うのだが、トーシローには決めかねる)。
 分からないどころか、小生は我が家の庭に植えられている樹はヤシの木なのかなと、少なくとも思っていたような気がする。
 下手すると、今も、うっかりするとヤシの木と呼びたくなってしまう。
 いつまで経っても、ヤシの実がならないし、あまり高く育ちそうな気配も漂ってこない。

 そうか、あれは棕櫚(あるいは蘇鉄)だったのだ。
 しかも、単に棕櫚(乃至は蘇鉄)が二本、庭に生えているというだけではなかったのだ。
 小生には、庭に梅や松やサツキや杉や、忍冬の花などの様々な花々が植えられ育てられている、その中の一種類程度の認識しかなかった。
 思い出す限り、どうしてこんな棕櫚なんかが植えられているのかと訊ねたこともなかったはずである。
 それに、一体、いつ頃から植えられていたのかも、小生の頼りない記憶では確然としない。
 聞けば分かるのだろうが。

 我が家は兼業ではあるが、一応は農家もしていた。田圃もあったし、畑もある。
 小生が物心付く前は、馬も一匹飼っていた。
 我が家に馬がいた、馬小屋もあったという(小生には衝撃的な)事実を知ったのも、ほんの偶然だった。
 何年か前、家族で旅行した際、何処かの食堂で夕食を取った時の雑談の中で出てきた話題であり<発覚した>事実だったのである。

 庭には木造の板塀だけの小屋があったのははっきり覚えている。
 が、その小屋には藁(ワラ)が一杯、収められていて、藁の収納場所なのかなという認識しかなかった。
 父(か母)に、あれが馬小屋だったんだと聞いて、小生はやや感激してしまった。
 そんなことが感激に価する新事実なのかと人に問われたら、返答のしようがない。
 ただの事実が分かったに過ぎない。
 でも、自分には何故か感激に価する新事実なのである。

 馬小屋があり、遠い昔、父母が結婚して間もない頃は、我が家のある富山から高岡まで片道約二十キロの道のりを馬に荷車を引かせて、父母と姉などが(あるいは祖母も?)、テクテクなのか、ポッカポッカなのか分からないが、田植えなど農作業の手伝いで往復したというのだ。
 そう、昔は、農作業をするとなると大事で、特に田植えなどの場合は人数を掻き集めて、それぞれの家の田圃で田植えしたのだった。
 でも、小生が物心付くころには、馬はいなかった。馬小屋だけが残っていて、藁などの貯蔵場所(仮置きの場所)になっているという事実が小生の脳裏に刻まれただけだった。
 それも、古びた板囲いの小屋に過ぎず、隙間風が吹きぬけ、今にも倒れそうなほどにボロい小屋に成り果てていた。
 あとで小屋の内部の構造を思い返してみたなら、なるほど馬が一頭、入っていて、脇に中二階風の板敷きの棚があって、餌となる藁を収めやすいようになっていた…などと理解もできたのだが。
 その小屋がいつなくなったのか、小生は覚えていない。中学の頃にはもうなくなっていたような気がする。

 さて、棕櫚の樹(以後、面倒なのでとりあえず棕櫚と決め付けておく!)は、その(馬)小屋のすぐ脇に植えられていたのである。

 そうえいば、衝撃の事実(大袈裟なのは分かっているし、衝撃の事実ってほどのことじゃないのは重々分かっている)は、つい、先日、他にも知ったのである。
 過日、事情があって、我が家のある富山市から高岡市のほうへ母らと車で往復した。
 高岡からの帰りの車で、母が(もう間もなく八十歳)車窓から見える草の原を見て、あれは麦(ムギ)け、と訊く。
 そう、目のほうが大分、弱っているので、草の原だということは勘で分かるが、麦かただの雑草の原っぱなのかまでは分からない。

 さて、小生の恥を晒すが、富山で今頃、麦が育ちつつあることなど、小生はまるで知らない。
 なので、麦かと問われても、丈の揃った草の原だなとまでは分かっても、麦の畑(田圃)だとは言い切ることができない。
 そもそも、今頃、麦があれほどに育っているものなの? 麦って、ゴッホの絵じゃないけど、黄色っぽいんじゃないの。
 大体、麦って我が富山で収穫できるものなの。
 要するに、小生は、なーにも分かっていないのである。
 
 たまたま信号で車が交差点で止まった。
 それで、母が改めて目を凝らして見詰め、やっぱり麦だろうね、なんて言っている。
 小生は、知ったかぶりしたわけじゃないけれど、あれだけ丈が綺麗に揃っているところ、しかも、どう見ても、田圃らしいところに植えられ青々と育ってるところから推察して、あれが麦なんだろうと見当を付け、麦みたいだね、なんて、返事にもならない生返事で応えてみる。
 そのうち、母は、昔は我が家でも田圃で麦を植えていたがんぜ、などと言い出す。

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→ フィンセント・ファン・ゴッホ『カラスのいる麦畑』(「アート at ドリアン 西洋絵画史」より)

 ええ? 我が家の田圃でも麦!
 小生には衝撃の事実だった。

 小生の記憶をどう辿ってみても、麦が春先に植えられ田圃を緑の海に変えていたという記憶が蘇ってこない。小生は、家の手伝いをまるでしないガキだった。
 だけど、外で(家の中では漫画)遊びまわるのが好きなガキだった。
 当然、未だ田植えのされていない、田植えの下準備さえもされていない田圃で、畦(あぜ)を崩さないようには気を付けるものの、走り回ったものだった。
 その田圃は、春先というと、蓮華の原だった。
 遊び仲間には女の子もいたので、蓮華草で首飾りを作ったりするのは定番の遊びだろう。
 田植えのシーズン前は田圃というと遊び場だったのだ。春が到来するまでは、今と違って昔は積雪が多かったから、田圃も雪に埋まっているし、そうでなくとも溶け残っているのだった。
 なので、田圃で遊べるのは(真冬はスキー板を履いて雪原となった田圃を走り回ったが)、雪が溶け、泥水っぽかった田圃の土が、走っても、のめり込まない、蓮華草の咲き誇る、ほんの一時期だけなのである。
 麦など、まるでなかったはずなのである。

 念のために断っておくと、田植えのシーズン前に田圃が蓮華草の原となるのは、いよいよ田植えという時期が迫ると、蓮華草を刈り、田圃の肥料にするためである。
 小生が物心付き、小学校も低学年の頃には、化学肥料を購入し使用するようになったので、蓮華草もあまり見ないようになった…気がする。

 でも、母は春先は、田圃は一面、麦の原だった。麦の収穫を終えてから、田植えの作業に入ったものだと言い張る。
 二毛作だちゃね、と母。
 田植えをやめた数年前までは、五月の連休ごろに田植えをしたものだが、昔は、麦の収穫を終えた五月の終わりごろに田植え作業に取り掛かったのだという。

 いずれにしても、高岡からの車から見たのは、麦の原であるのは間違いないようである。但し、決して麦畑ではない。もう間もなく、麦を収穫し、そのあとはいよいよ田圃本来の役割を果たす、田植えのシーズンが始まるのだから。


 ああ、母と小生とどっちの記憶が正しいのか。
 小生、記憶力には皆目、自信がない。でも、ガキの頃、遊びまわったという記憶は確かにある。
 一方、母にしても、麦の収穫のための一連の作業は、霜の降りることが懸念される時期の麦踏みを含め、かなりな重労働とかで(父も霜を警戒しての麦踏み、土を踏む作業が一番辛かったと、その日の夕食の際の雑談で語っていた)、昔は麦と稲との二毛作だったという事実に間違いがあろうとは思えない。

 あとで(上記したように)夕食の際、麦の話題が出た。すると、確かに昔は我が家の田圃でも麦を収穫していたという。
 ただ、それは五十年以上も前に止めたというのだ。つまり、小生が物心付く以前か、あるいは小生が生まれる前に麦からは手が離れてしまったというのである。
 
 要するに、母も正しければ、小生も今回は麦を我が家の田圃でも土間でも庭でも見たことはないという記憶に間違いはなかったわけである。
 目出度し目出度しである。

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← 棕櫚の樹の奥にある松。結構、格好がいい。この松の脇には肥溜めがあったっけ。

 とにかく、我が家のことなのに、小生は知らないことがあまりに多い。単に昔のことを知らないだけなら罪も軽いが、雑草の始末の仕方や祭事など、具体的なことで知らないことがあまりに多すぎる。要するに世間知らずということなのだが、18歳で富山を離れて、折々、帰省するだけでは、何も身に付かないのは当然なのかもしれない。
 とうとう、数年前、田圃も人の手に渡ったのも、長男である小生が頼りないからに他ならないのである。

 なお、ついでながら付記しておくと、我が家は早々と麦の生産から手を引いたが、富山県としては大麦などの生産が盛んであり、全国的にも生産量が多いほうだという。
 大麦は栄養価も高く、「健康食」と評価されているという。下記、参照:
富山の大麦|富山県


 棕櫚の樹の話から、とんだ脱線をしてしまった。
 でも、南国の植物というイメージの強い棕櫚の樹が我が家の庭にあることの不思議をまるで感じない(実は不思議だなとは感じていた、でも、底から先の探求はまるでしなかった、しようと思い立つことがなかったのだ)自分を情けなく思う。
 
 さて、疑問は、棕櫚の樹である。
 冒頭に記したように、我が家でも「繊維状の樹皮で縄を綯ったこともあった」のだろうか。
 単に観賞用だったのだろうか。
 綯ったら、麻縄のように丈夫な縄が出来上がったのだろうか。
 でも、棕櫚は育ちが遅いというから、縄を綯うほどに育つには、悠長すぎるような気もする。

 その疑問、解いてみようか。
 父母に尋ねたら、すぐに分かることである。
 でも、疑問は疑問のまま、残しておきたいような気もしないではない。

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コメント

しばしの故郷滞在、いいですね。
幼少期や少年期のいろんな想い出も自然に蘇ってくるのでは。
それらを元に掌編の一篇もお願いしたいところです。

それにしても写真で観るご実家の庭の広いこと!
羨ましい限り。

そろそろそちらは蜃気楼の季節ですね。
一度四月の終わりに魚津に行ったことがあるけれど(15年前の話)、
その時は全然現れてくれなかった。。

投稿: 石清水ゲイリー | 2007/04/08 09:49

石清水ゲイリーさん、来訪、コメント、ありがとう。
そして、記事を書く切っ掛けをいただき、感謝しています。
プルーストのマドレーヌ菓子のエピソードを持ち出すと大袈裟になるけど、ブログの記事内容や棕櫚の写っている画像で一気にいろんなことを思い出したり連想したりしました。
でも、郷里に帰って、今もあるのか、あるなら画像を得てから記事を書こうと思っていて、ようやく思いの一端を果たしたような気持ちです。

庭、写真で撮ると大きく見えてしまうのかも。四畳半の部屋だってアングルによっては広さが分からないこともあるわけだし。

魚津の蜃気楼は運がよくないと見えない。いろいろ気象条件がマッチする必要もあるし。
その点、小生はラッキーで、小学校の時の遠足で魚津へ行き、魚津の埋没林などを見て、魚津の海に立った時、運よく蜃気楼を見たのでした。
でも、小生、浜辺に打ち上げられている白っぽい欠けらを見て、おお、蜃気楼の欠けらがすぐ目の前にって驚きもし、感激もしたのでした。
言うまでもなく、その白いものとは、発泡スチロール! 当時は海の水が汚れて濁っており、ゴミも一杯浮んでいたのでした。
ま、小生は、そんなガキでした。

(追伸)富山の海、今は小生がガキの頃に比べると格段に綺麗になっています。

「蜃気楼・陽炎・泡」
http://atky.cocolog-nifty.com/bushou/2005/03/post_7.html

投稿: やいっち | 2007/04/08 10:14

投稿: やいっち | 2007/04/09 03:41

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