バルザック誰もが主役の小説か
今日4月1日はエイプリルフールの日。「四月馬鹿」とか時に「万愚節」とも言う。
小生は、一昨年「万愚節(ばんぐせつ)」で大凡のことは書いたので、今日は、まさに人生がエイプリルフールそのもののような作家を俎上に載せる。
← バルザック『ウジェニー・グランデ』(山口年臣訳、「グーテンベルク21」)
つい、一昨日、「一杯のコーヒーが紡ぐもの」と題した記事を書いた。
別にコーヒー繋がりを意識したわけでもないし、やがてはこの話題を持ち出すつもりで上記の日記を書き連ねたわけではないのだが、昨日、土曜日、過日より読み進めていたオノレ・ド・バルザック著の『ウージェニー・グランデ』を読了した。
ただし、小生が読んだのは、『コレクターズ版 世界文学全集 23』(日本ブック・クラブ)で、この第23巻には、デュマ・フィスの「椿姫」(鈴木力衛訳)とバルザックの「純愛」(安川茂雄訳)が所収となっている。
このうち、バルザックの「純愛」とは、「ウージェニー・グランデ」のことなのである。
ととと。冒頭でコーヒー繋がりがどうした、などと書いているのに、肝心のことを書いていない。
実を言うと、バルザックファンなら知っているだろうが、バルザックは無類のコーヒー党なのである!
「オノレ・ド・バルザック - Wikipedia」を参照させてもらうと、「バルザックは、小説を書くとき、まずコーヒーを牛飲し、おもに夜間に長時間にわたって執筆した。何回も推敲を繰り返した。執筆が終わると、疲れをおしてすぐに社交界に顔を出した」などとある。
作家と酒が並べられることは多いが、作家とコーヒーとなると、バルザックをつい思い浮かべてしまう。
漏れ聞くところによると、コーヒーを食事代わりに飲んでいた(食べていた?!)という。
日に数杯ならともかく、牛飲したとなると、胃だけじゃなく、体にも、あるいはことによったら頭にだって悪影響があるのではなかったろうか。
専門家の所見を伺いたいところだ。
日本は、80年代の終わりごろ(つまりバブル経済が弾ける前)までは、コーヒーが無類に好きという人でなくとも、あそこなら落ち着ける、美味しいコーヒーが飲める、マスターがいい、など、それぞれに結構、お気に入りの喫茶店が各地にあった。
それがバブルが弾けて以降は、そうした時間を優雅に過ごすような(過ごさせてくれるような)店などドンドン死滅していった。コンビニやゲームセンターなどに変貌していった、という印象がある。
変わりに誕生したのが、あるいはオセロゲームである局面で一気に色が変わるように、海外資本のカフェが進出してきた。
(喫茶店については、詳しくは、「喫茶店 - Wikipedia」参照。)
→ バルザック『ゴリオ爺さん』(小西茂也訳、「グーテンベルク21」)
そう、とってもオシャレなカフェが、それも、チェーン店の、何処へ行っても(よく言えばサービスが均一の)金太郎飴のように変わり映えのしないカフェが増殖した。
カフェでありながら、煙草が似合わない店作りであり、オープンカフェスタイルの店が多く、着ていく服も小奇麗でないと敷居が高い。その分、女性や外国人、観光客そして若い人が似合うし、安心して入れる。
まあ、近年のカフェ文化(の域にまで達しているかどうかは別にして)は今は話題にしない。
カフェ文化は、いずれにしても、欧米が本家本元である。
というか、カフェはフランス語であり、英語だとコーヒーハウスなのだろうから、カフェ文化はヨーロッパ、その中でもフランス(パリ)が源流ということになるのか(断定は避けておく。後世への影響ということになると、パリのような気がするのだが)。
「フランスのカフェ文化 京都産業大学文化学部国際文化学部 渡邉祥子」がこのあたりに付いて詳しい。
今はカフェ文化や歴史のことには深入りしたくないので、関心のある方は、このサイトを覗いてみて欲しい(参考文献も載っているし)。
いずれにしても、フランス(のみではないが)の上流階級の人たちの交流の場であるサロンでカフェ文化が広まったと理解していいのだろう(その嚆矢がルイ14世!)。
そうした土壌の上にバルザックもいたわけである。
← バルザック『谷間のゆり』(菅野昭正訳、「グーテンベルク21」)
パリのカフェ文化のある意味での頂点(少なくともシンボル)と看做されるのが、「カフェ・プロコプ」だという:
「コーヒーの歴史と文化伝播の旅「倉敷珈琲物語」-カフェ・プロコプの真実-」
「ここプロコプに通った有名人には<文豪フォントネル><ディドロ><ダランベール><ヴォルテール><ジャン・ジャック・ルソー>らの姿があり、「百科全書」もここから生まれたといわれてます」という。
そう、ヴォルテールも晩年(80歳)に至るまで日に10杯のコーヒーを飲み続けたとか。
無論、コーヒーだけではなく紅茶のことも忘れてはいけない。
こうした飲み物を飲むためには、洋食器が必要!
でも、これも敢えて目を塞いでおく。
バルザックというと、ここ:
「サッシェ城とバルザック記念館 Château de Saché」
「サッシェ城とバルザック」については、上掲のサイトの表紙に、「バルザックは、1829年から1837年 にかけて、当時の城の所有者であるマルゴンヌ氏に招かれて、毎年このサッシェの城館に滞在しました。 バルザックは、「ゴリオ爺さん(Le Pere Goriot)」や「谷間の百合(Le Lys dans la Vallee)」などの作品をサッシェ滞在中に執筆して います」といった事情などが書いてある。
「サッシェ城の歴史」なる頁を覗く。
→ ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』(北垣信行訳、「グーテンベルク21」)
債権者(借金取り)に追い立てられつつ懸命に創作に励んだというと、ドストエフスキーが筆頭に挙げられるだろうが、バルザックもまさしく借金を背負っての執筆活動だった。
というより、「(前略)ジャーナリストと小説家を志す。また実業家でもあり、多種に渡るビジネスの構想があり複数の出版社の創立に参加したり自分自身でも印刷業を創業したりした。しかし1828年には倒産し、その後は多大な借金を返すために小説や記事などを大量に書き始めるようにな」ったのだった。
「LA COMEDIE HUMAINE(人間喜劇)」の誕生である。
バルザックの小説「純愛(ウージェニー・グランデ)」で特徴的なことの一つは、小説の導入部でのグランデ家の詳細に渡る説明である。同時にカネの貸し借りや財産など実際的な方面を事細かに書く。
こうしたある意味での形而下的な、実際面を徹底して描くことで虚構の空間にもう一つのパリを現出させようとしたのではないかと思えてしまう。
ドストエフスキーの特に「カラマーゾフの兄弟」でも、導入部の叙述の単調さに、親しみの薄い人には辟易させられてしまったりもするが、こうした社会の実際面を縷々描くことで物語に奥行きが出ているように思える。
バルザックの小説で、特徴的なことというと、「1833年からそれまで書き溜めていた小説などもまとめてLA COMEDIE HUMAINE(人間喜劇)という多種多様な人間模様を描いた膨大なシリーズを書き始めて、かなりの数に登る登場人物の描写の仕方やある小説では端役であった人物が他の小説では主人公になるなどの独特な書き方をして、人気を博した」点にも現れている。
どんな小説にも主人公がいる。少なくとも焦点が決まっている。話の展開の目(核)となる人物が居る。
その場合、当然ながら副主人公があり、さらに背景となっている人物群が生じる。
物語というと、ドラマ性が必要だから、誰かしらに焦点を合わせるのは余儀ないことだろうが、本当に神の視点から人間を見たなら、そもそも主人公が居るってこと自体、変なことだという考え方も成り立ちうる。
誰もが平等という思想を大事にすべきというわけではなくて、書き手が、作家が本気になって描こうと思ったなら、どんな人物だって焦点の中心になりうるはずなのではないかということだ。
バルザックの意図が何処にあったのか、小生は必ずしも理解していない。
ただ、バルザックの諸作品においては、ある一つの物語(作品)では背景の人、通りすがりの人、採り上げるに値しない退屈な人であっても、よくよくその人と付き合ったら、そこにはそれなりのドラマ(乃至は、違う小宇宙)が広がってくることが(少なくとも結果的には)示されていると思われる。
← バルザック『従妹ベット』(佐藤朔訳、「グーテンベルク21」)
三人称(彼、彼女…)の形式では、そもそも他人を描くわけだから、誰彼の心の中や誰も見ていないときの行動など、描けるはずがないはずなのだ(いくら、フィクションであり創作だからと言って)。
だからこそ、三人称の形式ではない一人称(オレ、ボク、ワタシ)の小説でこそ、思いっきりどこまでもモノローグすることができるのだろうが。
また、仮に神の視点に立って三人称の形式の虚構を描くというのなら、誰彼を主役に立てる必然性などほとんどゼロになってしまうのではないかと思う。どんな人も、一個の生命であり、心があり、生活があり、そう、一個の小宇宙でありうるはずなのだから。
さらに、もっと徹底して神の視点で三人称の形式を選ぶなら、そもそも人間が主役となること自体がおかしい。何も神は人間を特別扱いはしないのではないか(人間が人間を特別視するのは、それなりの必然性があるのだろうが)。
地上世界の動植物の一切がそれぞれに主役であっていいはずなのである。
この点をさらに徹底すると、そもそも動植物などの生命体を主役にする必然性自体すらも問われるはずなのだが、まあ、話が飛躍しすぎるし、小生の妄想が逞しくなるばかりなので、今日はこれまでにする。
ただ、ここでは、「ある小説では端役であった人物が他の小説では主人公になる」というバルザックの小説手法や小説世界は、極論したら、庭の犬や、道端に止められた馬車、並木道の木々、街灯……のそれぞれが主役になりえるという、文学のとてつもない可能性を示唆してくれているように思うだけである。
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コメント
今日は♪
無精庵さんの日記が、とても高度なので、私がコメントを書く事態に無理があるようで、とても心苦しく思います。
ですが~折角ご縁があって、このように訪問をさせて戴いているので、一口コメントとして置いて帰ります。
今日が、「エイプリル フール」だったことを、今、思い出しています。
「万愚説」というのは、俳句の季語で知っていました。意味深な季語ですね!
この女性画はどれも素敵です。
難しいことは分かりませんが、私は、1番上の優しさの中にも気品と女性の意思を感じるこの作品に1票を投じます。(あらあら~勝手に!)
http://blog.livedoor.jp/iseko45/
投稿: つんちゃん | 2007/04/01 17:19
つんちゃんさん、来訪、カキコ、ありがとう。
内容が高度なんて、とんでもない。
日々、話題が飛びまくっています。
そう、お邪魔したら、カキコしたほうがいいよね。相手もきっと喜ぶし。小生も嬉しい。
「エイプリル フール」や「四月馬鹿」より、「万愚説」のほうがいいね。みんなして他愛のない冗談を言い合って楽しむって雰囲気がある。
女性票。小生は好みが幅広いので、全部に入れました!
投稿: やいっち | 2007/04/01 21:25