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2007/04/11

トンビに油揚げをさらわれていた!

 先週末まで事情があって十日ほど帰省してきた。列車の旅となると友が欲しい。人間の友は都合よくは見つからないが、本なら見つかるかもと図書館へ。
 バッグの隅っこに、場合によってはジャケットのポケットに収まるような手ごろな本。且つ間違いなく読書を楽しめる本、ということで、物色した挙句、無難というか安全牌に頼ることに。
 それは、寺田寅彦著の本『ちくま日本文学全集35 寺田寅彦』(藤森照信解説、筑摩書房)である。

97844801023551

← 『ちくま日本文学全集35 寺田寅彦』(藤森照信解説、筑摩書房) ちなみに、画像にある似顔絵は寅彦本人の作だと推察される。本書に「自画像」というエッセイがある。

 高名な物理学者であり且つ俳人であり漱石山房の有数な人物であり、小生にとってはなんといっても無類の随筆家である寺田寅彦(の本)との付き合いは随分と長い。
 上掲書に所収のエッセイも、大概が一度か二度は他の寅彦集本で読んでいるはず。
 念のために所収となっている随筆の題名を示しておく:

団栗、竜舌蘭、糸車、蓄音機、映画時代、銀座アルプス、物売りの声、病院の夜明けの物音、自画像、芝刈、蓑虫と蜘蛛、鳶と油揚、電車の混雑について、日常身辺の物理的諸問題、物理学圏外の物理的現象、自然界の縞模様、西鶴と科学、怪異考、化物の進化、人魂の一つの場合、日本楽器の名称、比較言語学における統計的研究の可能性について、神話と地球物理学、俳句の精神、連句の独自性、映画と連句、地図を眺めて、天災と国防

 題名で内容、少なくともテーマが分かる。てらいも気取りもないのが寅彦らしい。

 この中のどれを採り上げてもいいのだが、以前(数年前)にも気になっていたが、そのままになっていた話題ということで、上掲中、「鳶と油揚」を俎上に載せる。
 この「鳶と油揚」はネットでも読める:
トンビと油揚げ

 このエッセイは、「トンビに油揚げをさらわれるということが実際にあるかどうか確証を知らないが、しかしこの鳥が高空から地上のネズミの死がいなどを発見して、まっしぐらに飛びおりるというのは事実らしい。」という一文で始まる。
 ついで、いかにも科学者らしく、寅彦は、「トンビの(はばたかないで飛ぶ)する高さは、通例どのくらいであるか知らないが、目測した視覚と、鳥のおおよその身長から判断して、百メートル、二百メートルの程度ではないかと思われる。そんな高さからでもこの鳥の眼は地上のネズミをネズミとして判別するのだという在来の説は、どうもはなはだうたがわしく思われる」として、「百五十メートルの距離から」のネズミの大きさを概算する。

 ネズミは、〇・五ミクロン程度で、上空からの識別に関し、「網膜の細胞構造の微細度いかんを問わずとも、はなはだ困難であることが推定される」とする。
 そして、あっさり、視覚によって地上の獲物を発見するという説を否定してしまう。このあっさりとしたところが彼の魅力でもある。恬淡(てんたん)としているのである。科学的探究は執拗だが、ダメと一旦判断すると、即座に次の道を探る。

 つまり、本稿では嗅覚での探知の可能性を探っているのである。彼は高空からの視覚での識別を否定した以上は、俗説(あるいは通説なのか)である、鳥の嗅覚は鋭くない、という説に真っ向から立ち向かうわけである。
 しかも、実験的に立ち向かうわけではなく、大気には目に見えない上昇気流・下降気流があるとし、地上の餌の匂いが上空のトンビに届くことがありえると論じるわけである。
 その論旨は、それはそれで興味深いが、科学に付いてもド素人の小生が見ても論理が強引に思える。
 気流を言うのなら、トンビだって飛びやすい気象条件(大気の具合)を体感的に選んでいるはずであって、上昇気流のあるところで舞い上がり、下降気味のところで舞い降りたほうが楽チンだということは言える可能性があるとすべきではないか。

 まあ、長くはないエッセイ(まさにモンテーニュのエッセイの語義、試論を髣髴させるけれど)なので、是非、一読願いたい。

 さて、「トンビは本当に油揚げをさらうのか」は、少なからぬ人が関心を抱いた疑問のようである。
こころの目でみる トンビに油揚げ」など、ネットでもこの話題に触れたサイトを多数、見つけることが出来た。

トンビは本当に油揚げをさらうのか」を見ると、実際にトンビが油揚げをさらう様子を撮った映像があり、天下のNHKでも放映されたことがあるとか。
 ま、何かと権威に弱い小生なので、鵜呑みにする。小生、結構、素直なのである。

 念のためであり、老婆心からなのだが、まさか、油揚げを知らない人はいないとは思うが、しかし、万が一ということもありえるので、見たことも聞いたことも食べたことも匂いを嗅いだこともないという人は、下記を参照のこと:
油揚げ - Wikipedia
 小生など、帰省の折には三度の食事の準備(片付け)もやったので、味噌汁を作るのはお手の物である。
 具には、ワカメとネギは別格として(出汁は自家製の味噌、煮干など)、その日の気分で、あるいはオカズに合わせ、ジャガイモ、モヤシ、麩、菜っ葉などを入れる。油揚げも候補の上位に入っている。

 話を先に進める前に、何故に「トンビと油揚げ」なのか、という疑問を片付けておくべきだろうか。
 まさか、油揚げというのは、トンビの唯一の餌ってわけではなかろうし。トンビに聞いたわけではないのだが、トンビは肉食のはずである。きっと、肉類(ネズミなどの小動物)がかねてよりの餌だったはずである。
 でも、「トンビに油揚げ」という組み合わせは古来より(大袈裟!)あるようだ。
 あるいは、油揚げが登場した頃には油揚げが人間(庶民)にとってのかなり値打ちものの餌、じゃない、食べ物だったのだろう。その油揚げをトンビが浚っていく、美味しいところをサッと持っていってしまう、その例には油揚げが格好の題材だったのだろう。
 まあ、これはあくまで推測である。
 これには、「トンビに油揚げをさらわれる」という諺(ことわざ)がいつ頃、どういった経緯で、あるいはどんな地方で生まれ、そして広まって行ったかを探る必要があり、文献を漁り、地方の伝聞を探り、など、相当大掛かりな調査が必要になるかもしれない。

 他にも、油揚げというと、キツネの大好物とされる。油揚げは稲荷揚げという別称もあるほどだ。
 しかし、本当にキツネは油揚げが好物なのか。何ゆえ、お稲荷さんには油揚げをお供えするのか。
 もしかして、昔はお稲荷さんの社(やしろ)には、油揚げが大好物の知恵者が隠れ潜んでいたのであって、誰か賢い奴がキツネさんは油揚げが好きなんだよ、この社(やしろ)にお供えするとご利益があるよ、などと吹聴したのではなかったか。
 今となっては調べるすべもない。
 また、調べる気も、今はない。

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→ 一度は食べたい「栃尾あぶらげ」! 宣伝したんだから、一枚くらい、呉れないかな。

 ととと、油揚げ(あぶらげ)を紹介しておいて、トンビ(鳶=トビ)を紹介していない:
トビ - Wikipedia
 
 いずれにしても、「トンビがネズミをさらう」なんて、諺にも話題にもなりはしない。それは人間にはやや珍しいとしても日常の光景に留まる。犬が人間を噛んでもニュースにはならないが、人間が犬を噛んだら、びっくり仰天というのと同類だろう(か)。
 やはり、人間にとって大事なものを浚っていくからこそ、話題になるし、諺にも言葉(事物)が入ってくるわけであろう。
 推測ついでに憶測を逞しくすれば、立ち食いの蕎麦などを食べる。いつもなら、蕎麦だけのはずが、今日は実入りも良かったし、油揚げなど奮発しよう(多分、天麩羅蕎麦や海老天蕎麦、うな丼、牛丼、カツ丼などがメニューに加わる以前のことだろう)と、「亭主、今日は油揚げを載せろよ」「おや、旦那、今日はいいことでもあったんですかい」ってな、会話も弾んだのだろうか。
(小生など、海老天うどんもいいが、エビちゃん丼を食べたい!)
 そうして、普段は匂いくらいは嗅いでも自分が食べる丼に載せるのは夢だった油揚げが蕎麦の上に載っている、その感激をしみじみ味わっている。そして、いざ、食べようという瞬間、何か黒っぽい塊(かたまり)のようなものが突然迫ってくる気配を覚えた、と思った瞬間には、鳥が飛び去るのが見える。
 何だよ、食べようといういいところに邪魔が入った、さて、食べようかと丼を見たら、いつもの素の蕎麦しかない。
 油揚げは? オレの油揚げは何処へ消えた?
 慌てて飛び去るトンビを見ると、嘴に何か薄茶色のものを銜(くわ)えているではないか。

 ぎゃあー、あれは、オレの油揚げじゃねえか!

 ってな光景が江戸(明治かもしれないが)の世にでもあったのだろうか。

 まあ、これにしたって、油揚げが贅沢品のひとつであるという前提が崩れたらお話はオジャンである(ちなみに、「オジャン」という言葉も興味津々である)。
 油揚げは人によって大好物だったりするのだろうが(小生も好きだが)、登場した当初から高級食材だったのだろうか。この点も定かではない。

 が、これらの疑問は等閑視する。
 今は、寺田寅彦があっさり否定した鳥が視覚で遠く(はるか地上)のものを食べ物と識別するのか、それとも、寺だが検討したように嗅覚なのか、という問題に立ち戻る。

 さて、人間は(特に古代ギリシャ・ローマ文明に淵源し、その影響下にある人類は五感のうちの視覚に偏重したといわれる。さらにルネサンス以降はその視覚偏重(遠近法を典型とする)の度合いを加速させたという歴史は今更語る必要もないだろう。
 少なくとも近代以降の人間が視覚を五感のうちの筆頭に祭り上げていることは事実として認識する必要があろう。実生活においては、食べる贅沢を与えてくれる食感や味覚、嗅覚、Hする楽しみの一つである触感や聴覚を享受しつつも、それらを一段、下にあるモノとしてしまった。
 あくまで視覚(認識)を上位におくのである。
 
 しかし、視覚という能力については、人間は鳥類(だけじゃなく、多くの昆虫類などなど)にまるで敵わない。視覚とは光を見ること(光に頼ること)だから、光の波長のうちごく狭い領域しか見ていない人間は、実は鳥類からみると、色や光については、とっても貧しい世界を生きていることになる(つつましい素材をうまく調理していると言い張ることは可能だが)。
 そもそも、人間にとって色は三原色だが鳥類は近紫外線も含め、四原色なのだとか! 想像できるだろうか。ちょっと無理ではないか。

 色彩については、小生は未読なのだが、村田 純一 著の『色彩の哲学』(岩波書店)が面白そう!

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← 村田 純一著『色彩の哲学』(岩波書店)

 鳥類の視覚についても、この四半世紀、随分と研究が進んだようである。
 『鳥たちが見る色あざやかな世界』(T. H. ゴールドスミス、日経サイエンス2006年10月号)によると、「鳥類やトカゲ類,カメ類,多くの魚類が網膜に紫外線受容体を持つことがわかってきた。むしろ,紫外線を見ることのできない哺乳類が例外といえる」というのである。
 コウモリが超音波を使って闇の中でも障害物を避け、昆虫を発見することは知られている。聴覚の世界も人間には想像を絶する奥の深いものがあるに違いない。ただ、人間には実感は不可能だろうけれど。
 フクロウの暗視能力!
 嗅覚についても、犬(など)の鋭敏さは知られている。数個の匂い分子でも識別するというのだ。恐らく、我々人間は犬が感知している世界を永遠に理解できないのではなかろうか。
 
 
 ただ、鳥に関して言うと、「嗅覚や味覚に関しては,哺乳類にまったく及ばない」というのが、近年の研究結果が告げる事実のようだ。
 例えば、カラスにゴミ箱の餌を漁られるという被害が一時続出した。で、いろんな対策が施されたが、ポリ容器に蓋をする、それが無理なら、ゴミの上にネットを被せるというのが一般的なようだ。
 が、カラスは視覚が鋭い。なので、ネットの下にゴミがあることは識別できる。が、カラスは嗅覚が鈍い。なので、青色などのビニールシートを被せると、その下に何があるのか、さっぱり分からない。匂いに敏感ならシートのしたには生ゴミがあると察知するのだろうが、そうはいかないわけである(という説明を何処かで読んだことがある。「鳥に関するよくある誤解と被害対策」参照)。

 これは推測だが、そもそも森や草原など広いところで、しかも、高い場所で暮らす種類の鳥には(このように限定するのは、鳥によっては視覚が人間と大差ない種類もあるから。なので、本稿での鳥というのは、トンビやタカ、ワシなどの猛禽類に限定すべきであろう)、餌を探すためには、嗅覚も味覚も取りあえずは無用である。まずは、視覚で遠くにあるモノを(敵かどうかを含め)識別するのが何より先決だったはずと考えてしかるべきではないか。

 高度な科学的知見を示す能は小生にはない。
 たとえば、「自然大好き!」の中の、「Vol. 15 匂い」という頁が小生には分かりやすい。
 人間の五感に関して言うと、五感のバランスが取れており、どれかに不具合があっても、他の機能で代用しようという知恵が働く、その機能・能力の融通性に人間は優れているのだと思う。五感を統合し再編し世界を認識し返す能力というべきか。
 もっと言うと、物語を作る能力と言い換えても構わない気がするが、これはまた別の話ということにする。


トンビ(とび)とカラスの話」は本題からやや離れるがとても面白い。
 

 ……ここまで書いてきて、……ネット検索していて……、こんなサイトを見つけた:
今朝、知った雑学的情報(鷹と鳶、そしてキジのこと)

 筆者は国見弥一……。小生じゃ!
 しかも、文中に、「今朝、テレビで鳶の特集をやっていた。まず、鳶が油揚げをさらうのは、ありえることらしい。実際、テレビで鳶が油揚げをさらうシーンを映していた」とある。つまり、四年前の今頃、ちゃんとテレビで鳶が油揚げをさらうシーンを見ていたってことになる。

 すっかり、忘れている。しかも、せっせとブログの記事を綴ってきたのに……。
 しかも、四年前の「今朝、知った雑学的情報(1) : 鷹と鳶」という記事のほうが簡潔で読んで面白い!

 なんだか、自分の過去の記事で自分の今の記事に対し、「トンビに油揚げをさらわれた」気分になった!
 とっくに足元が昔の自分によって掬われていたのだった!

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コメント

初めましてでございます。昔の記事に失礼します。
最近「キツネ・トンビ・油揚げ」についてとある推測をしまして。同じようなことを誰か語っていないかとググったところこちらに来た次第です。
もともと、「稲荷神社は稲作の神様であり、ゆえにコメにとっての害獣であるネズミを退治するキツネが神様であり、ゆえに古くはネズミの死骸をお供えしていたが仏教の殺生禁止ルールの影響で油揚げにコメを詰めてネズミに似せたものを供え、これが稲荷寿司となった」という説に信憑性を感じていました。それほどキツネの好物には思えませんが、菜食の日本では辛うじてキツネでも食べそうなものと言えなくもないかと。
先日屋外での食事中、知人と「なんでトンビが取っていくのは油揚げなんだろ」と話題になった時にこれを思い出し、「ひょっとしてここでも、肉食獣にとってのネズミの代用品として油揚げが代表格として使われたのでは」と膝を打ちました。稲荷の件でもともとネズミと油揚げが近しいものと認識されていたことも影響したに違いありません。ちなみに現代でトンビに取られる食物の代表例は「から揚げ」だそうで、さもありなんです。

投稿: | 2021/07/28 13:18

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