花冷えや山も今宵は凍えしか
昨日は、二十四節気の1つ清明(せいめい)だった。「中国で清明節は祖先の墓を参り、草むしりをして墓を掃除する日であり、「掃墓節」とも呼ばれた」という。
というわけでもないが、花冷えの昨日、祖先の墓ではなく近親の祭壇に対面してきた。
← 焼香の帰り、車中にて撮影。晴れていたし、はるか前方には立山連峰が見える、はずだったのだが。…黄砂のせい?
郷里に居て、何件もの法事や一回忌や三十三回忌、通夜、葬式などがあった。この数年、祝い事も重なっているが、こうしたことも妙に重なっている。無論、小生の遠からぬ親戚筋で。
小生は富山生まれだが、18歳で郷里を離れたもので、田舎の祭事にはほとんど不義理している。父母の兄弟・姉妹筋さえも欠礼している。不義理の限りを尽くしているのだ。
せめて、幼少の頃、お世話になったある里のおばさん(母の姉)の祭壇に線香を上げてきた。
自分が焼香を終えて、次は母となった。母は足が弱く、姉とともに体を支えていないと焼香できない。
普段、あまり感情を表に出さない母が、もう、お骨が箱に収まってしまっている祭壇の姉に向って、泣きじゃくるようなふうに声を掛けている。
そのほか、あれこれあって、なんだか寒いばかりの心境になっている。なんだか何も見えないような感覚。
いつだったか、真夜中過ぎにふと見上げた空に見入ってしまったことがある。
真夜中過ぎ、それこそ草木も眠る丑三つ時をも過ぎた時間だったろうか。東京の空に、いくら空が一番暗くなる時間帯であるとはいえ、驚くほどの数の星が見えたのだ。
その日は新月かその近辺で月影にその周辺の星が埋没してしまうということもなかった、そんな事情もあったようである。
なので、驚くほどといっても、そこは東京の空だから、山里などで見る降るほどの流れ星や星々たちを見たというわけではない。
その気になれば数えられるほどの星たちが顔を覗かせたに過ぎない。
それでもやはり東京の、それも都心の夜空を見慣れてきたものには、やはり星の一つ一つの輝きがなんだか凄まじいものに感じられたのである。
そのとき、星の数や星の煌きの強さにも感じるものがあったのだが、同時にいつの日かあの星を目指して人類が旅立っていくのだという、妙な感懐があった。
姿を見せていない月にしても、あそこに人類が立ったことに今更ながらに驚く。
地上数メートルをジャンプすることさえ出来ないはずの人間。
それが人類の英知の結集なのかもしれないが、誰かが企図し技術の粋を集め、あの月へ旅立って成功させた。しかも、戻ってきたのだ。さらにその先の惑星をさらには太陽系の外の星を目指そうという着想も現実味を帯びている。
でも、ここにいる自分はどうだろう。何が出来るのだろう。何をしてきたのだろう。この先、どんな夢を持てばいいのだろう。
その前に孤立してしまっている現実をどうしたらいいのだろうと思ってしまう。
偉大さの象徴であるかのような星たち。その一方では、ここに影の薄い自分が居る。
ふと、似たような感懐を抱いたことが数年前にもあったことを思い出した。
その日は真冬で月が出ていた。それも、ほとんど真上に。天頂に。
以下、6年前のその日の感傷めいた日記を原文そのままに転記する。
(「真冬の満月と霄壤の差と」より転記):
昨夜の月はほぼ天頂にあった。そして小生はまさに天底にある。首が痛くなるほどに見上げないと月を真正面に眺めることができない。それほどに高く月は照っていたのだ。天頂にあってこの自分を見上げさせている月は、小生に影さえも与えてくれない。
真冬の夜の満月は何か恐ろしいものを感じる。まして昨日は、日中、冷たい風が吹いていたし、冬ということもあって湿度も極端に低い。冴え冴えとした月を実感する条件が揃っていたのだ。
満月が煌煌と照っていたにもかかわらず、星々も東京の空とは思えないほどに煌いていた。
「霄壤(しょうじょう)の差」という言葉がある。広辞苑によると、「天と地ほどの大きなへだたり。雲泥の差」と説明されている。
昨日の夜の光景こそ、天と地との差を実感させるものだった。我々は既に人間があの月の世界に立ったことを知っている。なのに、それが夢の中の出来事のように思われてくる。本当にあの世界へ足を踏み入れたのだろうか。
しかも、人間は月よりはるかに離れた天体にも足跡を印そうとしている。火星に人類の痕跡を残す日も遠くはないらしい。そしていつかは今の我々にははるかにはるかに遠い星の彼方にも向っていく…のだろうか。
けれど、それは人類がいつかは、ということであって、決してこのちっぽけな自分がということではない。この自分は地上世界を離れることはできない。地上世界どころか、東京の片隅で取り留めのない夢を抱えてうろついているだけなのだ。壮大な夢を抱く優れた知性の持ち主達とはまるで縁のない生活をしている。明日の生活さえ、覚束ない。
生活が貧しくとも、花や鳥や月や星を愛でる心があればと思うが、他の人はいざ知らず、小生には少々無理がある。花を美しいとは思う。素敵な音楽を耳にして感動もする。清流のせせらぎを目に耳に沁みるようにして受け止める。
でも、所詮は無粋な小生には、花鳥風月に生きられるわけもない。別に明日のパンが心配だからというだけではなく、パンのみにて生きるほどに愚かではないと思うものの、しかし、何かもっと実のあるものに縋らないと生きることの喜びを実感できないのだ。そんな平凡な人間に過ぎないのだ。
老いているわけではない。が、若くもない。課せられた責任がないわけではないが、静かにさりげなくその荷を下ろしても、別に何の波風も立つ懸念はない。心を分け持つ相手もいない。小生が掻き消えていっても寂しいと思う人間もいそうにない。自分でさえ惜しいとは思えない。そんな半端な状態に苛立つほど若いというわけでもないのだ。
若い頃は、自分なりに切迫するような、湧き立つような情念があるような気がしていた。時には生きる意味を追い求めたことさえもある。尤も、何かに夢中になり全てを忘れ去るということはなかった。家族や人間関係を壊してまで何かをするということはなかった。所詮は自分はこの程度の情熱しかなかったのだ。
初めに持っていたものが強烈でないなら、失った悲しみも薄い。失望感も淡く漂うだけなのだ。社会の底辺を彷徨うほど地獄を流離っているわけではない。一人の平凡な人間として、籠に担がれる人間でも、籠を作る人間でもなく、時折籠を担ぐ役割を許されているだけである。自分はこのために生きてきたわけではないはずなのだが、他に能がないのだ。
天頂の月は何かを小生に伝えようとしている…、そんな予感はある。
けれど、感性の窓が曇ってしまった小生は、もしかしたらドアを叩いているかもしれない誰かの問いにさえ応じることが出来ない。億劫なのだ。立ち上がるのも面倒臭いのである。魂という言葉に格別な感を覚えた昔が夢のようだ。
光は、地上世界を照らす。けれど、照らしているのは地上世界だけではない。光は四方八方を遍く照らし出している。なのに、若い頃は、己の魂を光が直撃しているかのような錯覚を覚えていた。我が魂のうちを眩しほどに浮かび上がらせて、誰の目にも己の無力さが露になっているかのように感じて恥じるばかりだった。天は我を見下ろしているのだと思った。
そして思いたかったのだ。
が、天は、光は遍くその輝きを恵んでいる。己をも彼をも海をも山をも、あの人をも。空を舞い飛ぶ鳥をも、地を這う虫けらをも、そしてやがては地の底に眠る命のタネたちをも。
照らし出されているのは自分だけではない。だから、自分は主役ではないのだ …と思えばいいのか。思ってもいいのか。
きっと、今こそ、今度は自分が輝く番になっているのだろう。今の今までたっぷり光を浴びてきたのだ。光は体の中にさえ有り余るほどに浸透している。60兆もの細胞の全てが光の恩寵を受けている。光が形を変えて血肉となっている。形を変えて脳となり、あるいは脳や腸を突き動かしている。命の源となっている。命の源から溢れ出す光の泉となっている。瀑布の飛沫さえ光を浴びて煌いている。
きっと、地上の全てが光の塊なのだ。魂とは光の塊のことなのではないか。だとしたら、今度は己が己の力で輝きだす時に至っているということではないのか。体と心の肉襞深くに集積した光の塊に、迸るための出口を指し示す時に至っているということではないか。
この平凡とさえ思えない自分にも、月は、天の光は今も呆れることなく恩恵を与えている。
人は死ぬと塵と風になるだけなのだろうか。魂とか情念の類いも消え果るのだろうか。もしかしたら塵となって風に舞うだけ、というのもある種の信仰、ある種の思い込みに過ぎないのではないか。死んでも死に切れなかったら。最後の最後の時になって、その末期の時が永遠に続いたとしたら。時間とは、気の持ち方で長さがいかように変容する。死の苦しみの床では、死の時がもしかしたら永遠に続かないと、一体誰が保証できよう。アキレスとカメの話のように、死の一歩手前に至ったなら、残りの一歩の半分は這ってでも進めるとしても、その残りの半歩も、やはり進まないと死に至らない。で、また、半分の半分くらいは何とか進むとしても、結局は同じことの繰り返しとなる。
永遠とは、死に至る迷妄のことかもしれない。最後の届かない一歩のことかもしれない。だからこそ、天頂の月は自分には遥かに高く遠いのだろう。
(転記終わり)
3年ほど前の真冬にも似たような感覚に見舞われたことがある。
(以下、「真冬の月と物質的恍惚と」より一部転記):
真冬の月というのは、何か凄まじいものを感じさせる。空気が澄んでいるせいか、地上の全てが輪郭も鮮やかに浮き彫りにされてしまう。未明の頃に、人気もない公園の脇に車を止めて、月の影を求める。月の大きさなど、いつもそれほど変わらないはずなのに、目に痛いほどに輝いていて、大きさの感覚を微妙に狂わせてしまう。
真冬の、それも深更の月の影を愛でるようになったのは、東京に暮らし始めてからだと思う。郷里(富山)に居る時も陸奥(みちのく)に学生時代を過ごしていた時も、今ほどには冬の夜に月を眺め上げることはなかった。
が、別に自分が若い頃より風流な人間になったというわけではない。まずは、東京(太平洋側)に暮らしているので、ほぼ毎日のように快晴の夜空に恵まれるという条件がある。同時に、ほんの数年前は真冬だろうがいつだろうが、いつも忙しかったので、真夜中であってもゆっくり休憩時間を取ることなど考えられなかったのである。
東京に住んで働いているということ、そして不況が月への思い、あるいは月に刺激されてのあれこれの想いが募るというわけである。皮肉な現実。でも、せっかくだから、たっぷりじっくりゆっくり堪能させてもらうとしよう。
北欧などでは、日中の陽光など弱々しくて、むしろ逆に夜の月のほうがはるかに人に鮮烈だと聞いたことがある。日中は、そこそこに明るくても、それは当たり前のこと。それが夜のはずなのに、地上世界が余すところなく照らし出され輪郭も鮮やかに浮き彫りにされてしまう。まるで、自分の密やかな思いさえもが曝け出されているように想われて来る、のだろうか。はるか遠くの山並みの影さえ、透明な闇の空を背景に妥協を一切、許さないとでも言うかのように形を示している。形を夜空に向って刻み込んでいるようにさえ思えてくる。
漆黒の闇から、紺碧の青、そして月光の故の淡い青まで冬の空は夢幻に変幻してやまない。
(中略)
月の光が、胸の奥底をも照らし出す。体一杯に光のシャワーを浴びる。青く透明な光の洪水が地上世界を満たす。決して溺れることはない。光は溢れ返ることなどないのだ、瞳の奥の湖以外では。月の光は、世界の万物の姿形を露わにしたなら、あとは深く静かに時が流れるだけである。光と時との不思議な饗宴。
こんな時、物質的恍惚という言葉を思い出す。この世にあるのは、物質だけであり、そしてそれだけで十分過ぎるほど、豊かなのだという感覚。この世に人がいる。動物もいる。植物も、人間の目には見えない微生物も。その全てが生まれ育ち戦い繁茂し形を変えていく。地上世界には生命が溢れている。それこそ溢れかえっているのだ。
けれど、そうした生命の一切も、いつかしらはその物語の時の終焉を迎えるに違いない。何かの生物種が繁栄することはあっても、やがては他の何かの種に主役の座を譲る時が来る。その目まぐるしい変化。そうした変化に目を奪われてしまうけれど、そのドラマの全てを以ってしても、地上世界の全てには到底、なりえない。
真冬の夜の底、地上世界のグランブルーの海に深く身を沈めて、あの木々も、あそこを走り抜けた猫も、高い木の上で安らぐカラスも、ポツポツと明かりを漏らす団地の中の人も、そして我が身も、目には見えない微細な生物達も、いつかは姿を消し去ってしまう。
残るのは、溜め息すら忘れ去った物質粒子の安らぐ光景。
そう、きっと物質を物質だと思っているのは人間の勝手な決め付けに過ぎないのかもしれない。命の輝きだって、物質の変幻の賜物なのであり、命が絶えるとは、刹那の目覚めから永遠の安らぎの時への帰郷なのかもしれない。
それとも、命とは、物質の輝きそのものなのか。
遠い昔、この世に何があるかを問うてみたことがある。何かを分かりたくてならなかったから。
今はそんなことはしない。あること自体が秘蹟と感じるから。この世が幻であっても、その幻が幻として変幻すること自体が不可思議だと感じる。感じるだけで十分。命とは物質の刹那の戯れなのかもしれない。物質は命よりも豊かな夢を見る可能性を孕んでいるに違いないと思う。
自分という掛け替えのない存在という発想を持ったこともないわけではない。せめて、世界の全ての人がオンリーワンであるという意味合いの程度には自分もそうであってほしいと願っても見たことがある。
けれど、それも傲慢なのだと感じている。己がオンリーワンなのだとしたら、同じ権利を以って、地上世界の物質粒子の一粒一粒の全てがオンリーワンのはずなのだ。虫けらも踏み躙られる雑草も、摘み取られる花も、路上の吸殻も、壁の悪戯書きも、公園に忘れ去られた三輪車も、ゴミ箱に捨てられた雑誌も、天頂の月も星も、その全てがこの世の星であり光なのであり、つまりは物質の変容なのだ。
自分が消え去った後には、きっと自分などには想像も付かない豊かな世界が生まれるのだろう。いや、もしかしたら既にこの世界があるということそのことの中に可能性の限りが胚胎している、ただ、自分の想像力では追いつけないだけのことなのだ。
そんな瞬間、虚構でもいいから世界の可能性のほんの一旦でもいいから我が手で実現させてみたいと思ってしまう。虚構とは物質的恍惚世界に至る一つの道なのだろうと感じるから。音のない音楽、色のない絵画、紙面のない詩文、肉体のないダンス、形のない彫刻、酒のない酒宴、ドラッグに依らない夢、その全てが虚構の世界では可能のはずなのだ。
そんな夢をさえ見させる真冬の月は、なんて罪な奴なのだろう。
(転記終わり)
焼香に行った家への往き帰りは車だったのだが、車中であれこれ喋った。
そのうち、姉の家の愛犬が話題になった。
というより、昨年から全く姿を見ていないワンちゃんのことが気になって、小生が近況を尋ねてみたのだ。
案の定だった。もう、体を動かすのも億劫な状態になっているという。思えば、随分と歳をとっている。雌の老犬なのである。
散歩はしてない。たまに車に乗せてドライブに行っても、前のように窓から顔を出して周囲に愛嬌を振りまくこともない。そもそも動いている車の中にあっては足を踏ん張ることができず、床に寝そべっているばかりなのだとか。
そのアイちゃんには随分と元気を貰っていた。
ああ、あの子とも近いうちに…。
殺伐とした、荒涼とした胸のうち。目の前が真っ暗というより、真っ白といったほうが感覚的に近い。
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コメント
ちょうど同じようなことを考えていたので心に沁みました。
投稿: magnoria | 2007/04/07 01:36
magnoria さん、何かしら感じるものがあれば、小生は嬉しいです。
投稿: やいっち | 2007/04/07 02:01
やいっち先生
僕は四十を過ぎたばかりですが、何故か歳より老いているように思われます。やいっち先生の若さ溢れる思考はいつも必ず何かを生んで行く原動力のように感じられ、羨ましいと思えてなりませぬ。
投稿: 硯水亭歳時記 | 2007/04/07 22:46
今日のこの文章が若さ溢れると言われると、どうにもレスのしようがないな。
ま、空元気って奴かな。誰にも頼れないしね。
心の自転車操業だ!
投稿: やいっち | 2007/04/07 23:00