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2007/04/29

いいじゃないの今が幸せならば?!

 27日は営業の日だった。金曜日で月末で連休前ということもあり、営業の回数は予想通り、多かった。
 そんな中、ラジオで断片的ながら注目すべきニュースを聴くことができた。
 最高裁判所で、ある裁判について判決・判断が下されたのだ。

 翌日のテレビでこの問題がどのように採り上げられるのか見たかったが、会社の行事=明け集(明け集会:明け集とは何ぞやについては、拙稿「読書拾遺:装幀家・菊地信義氏」に若干の説明がある)があって、見ることが叶わなかった。
 保守的な論調、タカ派有利の風潮が高まっているから、娯楽番組全盛の昨今の事情を鑑みると、裁判結果が報じられるのみだったのかもしれない(それさえも、あったのかなかったのか分からない)。

 一つは、「中国人強制連行訴訟」問題で、「原告敗訴、中国国民の請求権認めず」というもの。
 数日もすると読めなくなる可能性があるので、下記から一部、転記させてもらう:
中国人強制連行訴訟:原告敗訴、中国国民の請求権認めず--最高裁が初判断-行政:MSN毎日インタラクティブ

 戦時中に強制連行されて広島県の建設現場で重労働を強いられたとして、中国人男性2人と3遺族が、施工業者の西松建設(東京都港区)に計2750万円の損害賠償を求めた訴訟で、最高裁第2小法廷(中川了滋裁判長)は27日、原告勝訴の2審判決を破棄し、請求を棄却した。判決は「72年の日中共同声明により、中国国民は裁判で賠償請求をできなくなった」との初判断を示した。日本と平和条約を結んだ国の国民が、戦時中の日本側の行為を理由に訴訟で賠償を求めることは、事実上不可能になった。

 この「72年の日中共同声明により、中国国民は裁判で賠償請求をできなくなった」との判断は、「日中共同声明」は、声明ではあるが法律(国際法規範)に準じるものであり、且つ、「サンフランシスコ平和条約の枠組み」に準じるものであるという判断が根拠にあるようだ。
中国人強制連行訴訟:原告敗訴 最高裁判決要旨」を読んでも要領を得ない。小生の鈍くさい頭では理解不能の理屈が仰々しく書かれているだけ。
「日中共同声明5項」で、「中華人民共和国政府は、中日両国国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する」とあるが、これは国家レベルにおける日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを意味するだけではなく、人民レベルでも請求を放棄することをも意味するというのだ。
 何故なら、「日中共同声明」は、「サンフランシスコ平和条約の枠組み」に準じるものだから、というのだが、ここのところの説明が理解不能:
 日中共同声明の交渉過程においては、中華民国政府が締結した日華平和条約を無効と主張する中華人民共和国政府と、日中戦争の終結、戦争賠償及び請求権の処理に関しては日華平和条約によって解決済みという前提に立った日本国政府の立場の違いを、双方十分認識しつつ、結果としていずれの立場からも矛盾なく日中戦争の戦後処理が行われることを意図して、その表現が模索されたものである。

 このような経過で発出された日中共同声明は、平和条約の実質を有するものにほかならない。そして、サンフランシスコ平和条約の枠組みは平和条約の目的を達成するために重要な意義を有していたのであり、この枠組みを外れて、あえて個人の請求権処理を未定のままにせざるを得なかったような事情はうかがわれず、サンフランシスコ平和条約の枠組みと異なる処理が行われたと解することはできない。


「日中共同声明の交渉過程においては、中華民国政府が締結した日華平和条約を無効と主張する中華人民共和国政府と、日中戦争の終結、戦争賠償及び請求権の処理に関しては日華平和条約によって解決済みという前提に立った日本国政府の立場の違いを、双方十分認識しつつ、結果としていずれの立場からも矛盾なく日中戦争の戦後処理が行われることを意図して、その表現が模索されたものである」とは、要するに、日中両方が都合の良い解釈の余地を残していた。

 中国側は国家レベルでは日本国政府に戦争賠償の請求を放棄する旨、認めたが、人民レベルでは善処を期待し、日本側は、中国側による日本国政府に戦争賠償の請求を放棄するという以上は、国家レベルのみならず人民レベルもなんでしょ、もう、なーんにもなし、チャラねって勝手に理解している。
 明らかに火種の余地があった。中国側の誤算なのか、あるいはいずれはこうなることを予期しつつも、声明を発表した時点では、日本側の首脳には中国側への配慮をする常識があると買いかぶっていたのかもしれない。
 
 ただ、「中国人強制連行訴訟:原告敗訴、中国国民の請求権認めず--最高裁が初判断-行政:MSN毎日インタラクティブ」に見られるように、あるいは裁判官たちの良心が咎めたのか、それとも日本の政治への苛立ちを婉曲に(あからさまに)表現したのか、下記のような注目すべき判断も示している:

 判決は一方で、強制連行の事実と、作業現場での同社の安全配慮義務違反を認めた広島高裁判決の認定を最高裁として初めて是認した。そのうえで「被害者が被った精神的、肉体的苦痛は極めて大きい一方、西松建設は中国人の強制労働で相応の利益を得たうえ、戦後になって国から補償金を受け取っている」と指摘。「西松建設を含む関係者が被害救済に向けた努力をすることを期待する」と自主的な解決を促す異例の付言をした。

 要は、「たとえ戦争状態を終結させるためとはいえ、国家が個人の権利を完全に奪うことには無理がある。判決は、請求権の放棄が、あくまで裁判で賠償請求する権利がなくなることだとする判断も同時に示している」というわけである。
 とにかく、あとは、「解説」にあるように、行政側そして企業側の誠意(企業側は国策に従っただけという発想で、良心の呵責は期待薄だろうし)に俟つしかないわけである:
 最高裁は2審判決のうち強制連行の事実や西松建設の賠償責任を認めた部分は是認した。中国人の連行が国策で行われたとする2審の認定も支持している。原告を敗訴させるだけなら不要とも思えるこの言及からは、自発的解決を促す司法の強いメッセージを読み取ることができる。

 同社を含む「関係者」に向けて異例の付言をしたのも、強制連行の被害実態と、その犠牲の上に立って戦後も発展を続けた日本企業や政府の責任を重く見たからにほかならない。企業側に誠実な対応が求められるのはもちろんだが、政府も「企業の問題」と決め付けず、積極的に問題解決を図るべきだろう。


中国人強制連行」については、下記が参考になる:
 1942年に中国人労働者の国内移入が閣議決定されたことを受け、43~45年に約4万人が日本に連行された。全国35企業135カ所の炭鉱や港湾施設などで労働を強いられ、劣悪な環境下で6830人が死亡したとされる。90年代以降、生存者や遺族が日本政府や企業の責任を追及する訴訟を各地で起こし、現在も十数件が係争中。日本では「花岡事件」で被告となった大手ゼネコン「鹿島」のように、単独で和解に応じた企業が数社ある程度だが、ドイツでは政府と企業が、ナチス時代の強制連行被害者に補償金を支払う基金を創設している。

 同じことは、「中国人強制連行訴訟:原告敗訴(その2止) 「請求権消滅」前面に 最後の「壁」厚く」というニュースでも言えそうだ。

中国人強制連行訴訟:原告敗訴(その2止) 「請求権消滅」前面に 最後の「壁」厚く-行政:MSN毎日インタラクティブ」によると、中国人強制連行訴訟で「請求権消滅」のゆえに原告が敗訴という結果、現在係争中の「従軍慰安婦問題」についても、原告敗訴の見込みが濃厚になったと思うしかないようだ。


 一方、「従軍慰安婦問題:安倍首相、同情とおわび表明 米議会指導部に自ら」といったニュースも車中で幾度となく聴いた。
 従軍慰安婦問題について安倍首相は、日本国内では、軍が関与した証拠は見つからない云々とし、得意の曖昧路線に終始し、批判を浴びると(主にアメリカ側の動向に神経を尖らせた結果に過ぎないが)、しぶしぶ、「従軍慰安婦問題に関する1993年の河野洋平官房長官談話の継承と同時に、元慰安婦へのおわびの気持ちを持ち続けると明言」するに至った。
 つまり、「河野談話の「強制性」の解釈については、国外で誤解を招かぬよう、あえて議論を避ける」路線である。

 念のため、「慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話 平成5年8月4日」を読み直しておくべきか。
 メモしておく必要を個人的にも感じるので、ここに一部、転記しておく:

 今次調査の結果、長期に、かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したことが認められた。慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。
 なお、戦地に移送された慰安婦の出身地については、日本を別とすれば、朝鮮半島が大きな比重を占めていたが、当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり、その募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた。
 いずれにしても、本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。政府は、この機会に、改めて、その出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる。また、そのような気持ちを我が国としてどのように表すかということについては、有識者のご意見なども徴しつつ、今後とも真剣に検討すべきものと考える。
 われわれはこのような歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい。われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する。
 なお、本問題については、本邦において訴訟が提起されており、また、国際的にも関心が寄せられており、政府としても、今後とも、民間の研究を含め、十分に関心を払って参りたい。

「中国人強制連行」問題については、日本もドイツのように「政府と企業が、ナチス時代の強制連行被害者に補償金を支払う基金を創設」するのが望ましいだろう。被害者たちの年齢を考慮すると早急な対応が望まれる。
 同時に、「従軍慰安婦問題」についても、「女性のためのアジア平和国民基金 - Wikipedia」、日本は実質、民間の善意に基づく形で「償い金」を総理の手紙と共に届けている形(受け取りの拒否も多いらしいが)に留まっている。
 こうした中途半端な賠償を続けている限り、日本国内はもとより、中国や韓国(北朝鮮)などのアジア各国にもアメリカなどの欧米諸国にも、ずっと文句を言われ続けるに違いない。禍根を断つには、何処かの時点で国家が基金を創設するなどの賠償制度を作り上げるしかないのではないか。
 そうでなければ、いつまで経っても、何処かの首相の言う、美しい日本など絵に描いた餅に終わるだろう。
 政治の貧困は国民意識の貧困さの反映という発想からすると、安倍首相の美しい国構想(夢想)も、画餅に終わるのも仕方がないのか。
 イラクの事態への無関心さ。日本だってアメリカ(現ブッシュ大統領)の仕掛けた戦争政策を支持し手伝いだってしたのではなかったか。が、いざ、戦争が終わり(終わったと言えるのかどうか微妙だが)思惑と相違してイラク国内が混乱したら、連日のように発生する「イラク:爆弾テロで30人死亡、50人負傷」といったニュースなど、まるで話題にも上らない。
 忘れるのが得意な日本人。これでいいのかね。

 まあ、「民主案に「賛成」:森、小泉氏、ダイエット論議に熱中し-国会:MSN毎日インタラクティブ」によると、「26日の衆院本会議で、自民党の森喜朗元首相と小泉純一郎前首相がダイエット論議に熱中のあまり、民主党提出法案に「賛成」してしまうハプニングがあった。民主党議員から「ありがとう」との声が飛ぶ一方、与党席には苦笑いが広がった」というのだから、無理もないか。
 日本は平和なんだね、一部の人たちには。
 
 つめたい国だと人は言うけれど、いいじゃないの幸せならば…そう、それも、今が自分たちだけが…ってことなのか。

 それにしても、「慰安婦 - Wikipedia」を覗くと(小生は初めて覗いた)、保守派・タカ派の論調が勝っていることを痛感させられる。いざ、政治的に微妙な問題になると、一部の狭隘な勢力に記述もあっさり変色(腐敗・偏向)してしまう、いい実例のようだ。

 なお、関連する拙稿として下記がある:
西野 瑠美子著『なぜ「従軍慰安婦」を記憶にきざむのか』
供養、贖罪の仕方…ある一文へのコメント

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