徳川恒孝…江戸の世や今こそ思うありがたさ
最近、何か扱い忘れているテーマがある…。
何だろうと思ったら、読書拾遺!
それもあるが、夕べ、ラジオで聴いた話シリーズを最近、全く、書いていない。
って、そんなシリーズがあったかどうかも定かではない。
あったことにして、久しぶりにメモってみる。
→ 徳川恒孝著『江戸の遺伝子―いまこそ見直されるべき日本人の知恵』(PHP研究所)
昨日は営業。冷たい雨の降る都内を車でウロウロ。
といっても、景気が悪いこともあり、都内というのは大袈裟で、ほとんど城南の域を出ない。
それも、渋谷や六本木を避けているから、海辺の城南限定。
オートマ限定の免許は聞いたことが誰しもあるだろうけど、城南限定のタクシードライバーってのも珍しい?!
家を出るのは朝の9時半過ぎ。営業は10時半過ぎの開始(朝礼から)で、途中必要以上の(異常なほどの)休憩を三度は断固取り、翌朝の6時過ぎまで車中で過ごす。
そう、営業のたび、車中泊している…じゃない、車で営業しているのだ!
雨が降ると営業の回数が増える。小生の場合、近場のお客さん専門に営業している(ロングのお客さんに恵まれないこともあるが)。
なので、売り上げが悪い割りに営業の回数は多い。乗せては走り、乗せては走りを日に少なくとも三十回。昨日のように雨が降ると四十回を越える。五十回を越えたことも幾度もある。
お客さんは一人の場合が多いが、二人、三人、四人のこともあるので、平均すると一回に1.3から1.4人。
従って、一日の営業日に乗せるお客さんの人数は最低で四十人、六十人を越えることもある、というわけである。
それだけの人を乗せている。
人数だけなら、バスや電車には敵わない。でも、タクシーは常に一対一(一組)の世界なのである。
介護だ福祉だという時代でありそうした精神が尊ばれる世相であることを鑑みると、タクシーはまさに人対人、マン・ツー・マン(ウーマン)の世界であって、道具は車だが極めて人間的な世界なのだと言えるだろう。
高級な店で少ないお客さんを相手にしての営業を謳い文句にしていても、店の中には複数のお客さんがいる。
その点、タクシーは常に一人(一組)のお客さんなのである。
そのお客さんを一人の人間としてのタクシードライバーが相手している。
無論、実際には車内においては、運転手はお客さんに背を向けて営業している。会話も(小生の場合はこちらからは、挨拶以外は、お客さんが話しかけない限りは)必要最低限に留めている。
でも、気持ちは安全・的確・迅速(できれば快適)であり、お客さんの乗り心地の良さを最重要関心事として運転している。つまり、常にお客さんに向っているのだ。
車を転がしているだけではないのである。
人間臭い世界。いろんなお客さんもいる。営業の世界。お客さんは言いたいことを言うが(人によってはであって、車内ではお客さんの人間性が露骨に出てくる)、運転手はお客さんを相手にしていると心得、お説ご尤もという姿勢や態度を決して崩さない。
まあ、具体的なことは機会を改めて書くこともあろう(実際、何度か書いたことがある)。
さて、そんな車中にあって、楽しみは休憩!
休憩の折に読む本!
走行中に聴く音楽!
信号待ちの際に歩道などを行き交う綺麗な女性!
都内の風景!
意外な場所で見る芸能人などの有名人!
お客さんの話!
たまーに乗ってくる素敵な女性!
じゃなくって、冒頭で書いたようにラジオで聴くことができるいろんな方の話ということで、昨日はNHK第一で德川 恆孝(徳川恒孝、とくがわ つねなり、1940年2月26日 - )氏の話を伺うことが出来た。
誕生日が小生と同じってことに、今、調べて気付いた(生年は違う)。
徳川宗家第十八代当主(1963年-)である。
こんな方のお声に接することができるとは。時代だなーなんて、ピントのずれた感懐を抱いたり。
徳川恒孝氏は日本郵船で日本郵船副社長などの要職を重ねてこられた経歴があるが、「日本郵船時代は、加賀前田家第18代の前田利祐(としやす)と先輩・後輩の間柄だったらしく、上司は「徳川と前田の当主を使うのは豊臣秀吉以来、おれが初めてだ」とご満悦だった」といった話も仄聞する(「宗家第一七代 徳川家正&宗家第一八代 徳川恒孝」より)。
← 青梗菜さんにいただいた画像です。お酒を飲める人が羨ましい。小生が飲めるのは涙だけ。グシュン。ショッパイ!!
ラジオで話を聴いた…といっても、小生のこと、話の大半は忘れてしまったし、あるいは曖昧な記憶の彼方へ飛んでいったし、第一、営業中なので、いくら未明のヒマな時間帯に話を伺っていたとはいえ、万が一にもお客さんが乗ってくるかもと、サイドミラー、バックミラーや周囲の様子に神経を尖らせていた(やや大袈裟?)。
大体、授業中で先生の話を聞いて、頭にお説が残ったという経験も乏しい。左の耳から右の耳へ(あるいはその逆方向へ)何の抵抗もなく、話がすんなり通り過ぎていく。
小生にとって、人の話がまるで高性能の爪楊枝のようだ。それとも、頭の中は空っぽで、小生の頭は抜け道になっているのだろうか。
今の小生が記憶できるのは、お客さんに乗っていただいた際に伺う目的地の地名(建物名)だけ。
それも、降りた瞬間、きれいさっぱり未練もなく忘れ去る。
あまりに見事なほどに綺麗に忘れるものだから、信号待ちの際に今、済ませた営業の詳細を日報に書こうと思っても、すぐには思い出せないことが間々(というには頻繁に)あるほどである。
(念のために書いておくと、日報には料金、お客さんの人数、乗車地、降車地(無線の客か予約の客か、障害者割引を使ったか、高速道路を使った際はそのルート)などなどを記録する。)
たった今、営業を済ませた方の情報まであっさり忘れる必要はないはずなのに、あれ、何処であのお客さんを乗せたっけと、結構、車中で悩むのである。
小生が車中で難しい顔をしていたら、何も、ああ、あの運転手は哲学的瞑想に耽っているのかな、なんて思う必要はない(思うような奇特な方もいないだろうが)。
難しい顔をしている場合は、まずは、トイレを探している、腹が減っている、割引を要求され頭にきている、割り込みしてきた同業他社(他車)に目の前のお客さんを奪われた、釣銭を間違えて多く返し、自分の愚かしさに怒髪天を抜いている、綺麗な後姿の女性を見かけたので、追い越す際に顔を見ようと思ったのに、見損なってしまった……、まあ、こんなような事情があるのだろうと察してもらって間違いない。
というわけで、たった今のお客さんを何処で乗せたかさえも、思い出すのに10分以上を要することがあったりする(言い訳が許されるなら、営業回数があまりに多く、回数を重ねるごとに印象もダブってきて、混同しがちになるのだ…。浜の真砂は尽きるとも、世に言い訳のタネは尽きまじ!)。
→ ヨッピさんにいただいた紛れもない辛夷(こぶし)。「こぶし咲き…白き花に目も眩(くら)む!」や「この木なんの木、気になる木、機、器」を読めば、悲しい(愚かしい)裏話を知ることが出来る?!
また、余談に走った。これも常に迂回路や脇道や裏道を探すプロドライバーの性(さが)であろうか。
迂回しすぎて何を書こうとしたのかも忘れてしまった。
まあ、何処へ向うのか営業中に忘れてしまうよりは、まだましである!
つまり、小生の記憶でメモすると出鱈目になりそうなので、ネットで情報を補って書きますと言いたかったのである(これだけのことを言うのにこれだけまだるっこしいのだから、やになるねって、お前に言われたくないって声が聞こえてきそう)。
夕べ(といっても、今朝未明)の話の一つは(順不同でメモしていく)、「現在の徳川宗家の当主である徳川恒孝が作った財団」である徳川記念財団についてだった。
「設立の目的は、徳川将軍家に伝わる江戸時代から明治以降近代における古文書、絵画、調度品などについて、保護・管理するとともに、一般に公開し学術研究・教育に供することである」という。
こういった貴重な品々は一箇所にまとまってあることで初めて意義を持つ、という話が印象的だった。
江戸時代など日本についての研究(出版)への助成(奨励金)を検討しているとも。
徳川記念財団については、2003年と4年前の記事だが、下記の頁が参考になる:
「NIKKEI NET ウイークエンド版 「徳川宗家の遺産」が表舞台へ――第18代当主徳川恒孝氏が財団設立構想」
2003年…。なるほど、江戸開府400年の年だったわけだ。
この頁では、「数千点に上る徳川宗家の遺品は未だ世に出たものは少なく歴史的価値の高いものばかり。これらを管理し散逸を防ぐためにも財団設立が必要と恒孝氏は意欲を見せる」という前置きで、徳川恒孝氏の話を伺うことが出来る。
「一番古いものでは源義経の書」もあるとか。
ここでは、最後の「財団設立後の運営方針は?」に注目する。
「1つはもちろん遺品を対象に研究を行っていくこと。2つ目はこれらを広く世の中の人に見ていただくための展覧会などを開催すること。3つ目は近世史研究への貢献を考えています」とある。
最後について、「15年ほど前までは「江戸時代は封建的な武家が圧制を敷いていた時代」と思われていました。それが見直され、「生き生きとした世界でも稀にみる高度な成熟した文化をもっていた時代」という認識が広がりつつあります。皮肉にもこれらの認識は海外の学者が唱え始めたようですが、もっと我々は近世史を研究する必要があります。そこで財団では近世史の研究テーマを国内に限らず中国や東南アジア諸国からも募集します。その中から「徳川賞」を選び、奨励金を贈りたいと思っています。研究成果を出版して世に出すことも考えています」と話されている。
夕べの話も時間的には、「15年ほど前までは「江戸時代は封建的な武家が圧制を敷いていた時代」と思われていました。それが見直され、「生き生きとした世界でも稀にみる高度な成熟した文化をもっていた時代」という認識が広がりつつあります」という点について多くを占めていたようだった。
江戸時代を見直し再評価する動きは小生にも、近年、顕著に思える。
この詳細については、徳川恒孝氏ご自身の著であり、刊行されて間もない『江戸の遺伝子―いまこそ見直されるべき日本人の知恵』(PHP研究所)が参考になる。
あるいは、本書の刊行を契機にNHKでも話を伺う機会を持ったということなのだろうか。
← 青梗菜さんにいただいた画像です。酒の上の失敗が小生にないわけじゃない。この話題も、近い将来、書くことがあるだろう。
日本が日本らしくなったのは室町時代だったとも言われる(拙稿「歌舞伎の日阿国の踊りベリーに見ん」参照)。
そうはいっても、日本が日本らしくなり、馴染み深い文化、特に庶民にも親しめる文化が生まれ、あるいは熟成されたのは江戸時代だったという点に異論は少ないだろう。
上掲書には、下記に付いて書いてあるようである:
▼250年間もひとつの政権が継続して平和を維持し、また大きな革命なく次の時代へ移行した。このような素晴らしい歴史は日本唯一のものであり、世界から見ると全く不思議で驚嘆すべきことであった。江戸時代とはまさに日本が誇るべき時代なのである。▼江戸時代を生んだものとは何か? 徳川家康公の真の姿とは? 江戸時代に形作られた制度、環境、文化、教育とは? 日本人だけが理解できる「心」とは? 現在に息づく伝統とは? いまこそ見直されるべきものがそこには存在する。
夕べ聞いた話で印象に残った話のうち、一つだけメモしておく。それは参勤交代に関わるものだった。
この制度は、「参勤交代は軍役であるから、大名は保有兵力である配下の武士を随員として大量に引き連れて江戸に出仕し、領地に引き上げねばならないため、移動の際に大名行列という大掛かりな行進を行う必要があった。このために費用がかさみ、参勤交代は大名の財政を圧迫させることとなった」などの憾みもある。
が、意図したことなのかどうかは別にして、結果として、「参勤交代のために、街道や宿場が整備され、大名行列が消費する膨大な費用によって繁栄した。また、大量の大名の随員が地方と江戸を往来したために、彼らを媒介して江戸の文化が全国に広まる効果を果たした」のも事実だろう。
やや贔屓の引き倒し気味の感もなしとしない話だったが、こうした制度を通じて、各地の大名のみならず、庶民レベルまでが江戸で交流したことが、日本の多様性をかき混ぜ、文化の交流を促進し、さらには、これが重要だし、若干、疑問符を付したいという誘惑の念も湧かないことはないのだが、幕末から明治維新で大規模な内乱ではなく、徳川から維新政府への政権の委譲が成ったのも、それまでの二百数十年の人の交流があったからこそ、一定の信頼関係もあり、可能になったというのである。
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