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2007/04/09

あのゴミも浜辺に寄せし夢の文

 小生は10歳の頃から嗅覚に障害を負ってしまった。
 だから、匂いに鈍感。
 でも、だから、匂いや感覚(五感)の話題にやや敏感。
 これまでも匂いに関連する記事はあれこれと書いてきた。末尾に幾つか順不同で挙げておく。

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→ 「棕櫚の樹や麦の話と二毛作」のトップ画像「棕櫚(シュロ)」を真逆から撮ったもの。思いっきり、逆光! 念のために断っておくが、背後の館は他人の家である!

 ここでは、「匂いを体験する」(2006/02/26)を取っ掛かりにする。

 この記事では、「目で見る芸術としての絵画、耳で聞く芸術としての音楽はあるが、鼻で嗅ぐ芸術というものはない」云々という某人の問題意識や香水のことを話題にしているが、実のところ、記事の後半がメインである。
「小生は以前、一部屋のアパートに住んでいたが、珍しくユニットバスが付いている」まで頁を下げてもらいたい。
 ユニットバスの給水タンクの薬剤(小林製薬のブルーレット?)が引き金となって小生に巻き起こした異常に鮮明な感覚の覚醒事件なるエピソードが語られている。

 まず「匂いを体験する」から一部だけ、転記する:

 ところが或る日、電気代をケチったわけでもないが、ワンルーム住まいで換気扇の音が煩かったこともあり、つい、オフにしてしまった。そして、そのまま就寝してしまった。
 その日の夢の凄かったこと。夢の内容も凄まじかったが、夢が小生が生まれてこの方経験したことのないほどの鮮明なカラーだったのである。薬剤の色も関係(影響)したのか、特に青色系統の色が濃く且つ鮮やかだったが、とにかく色が立体化したかのように世界が過剰に鮮明に映っている、息衝いているのだった。

 このエピソードのことを今更、持ち出すのは、文末で「嗅覚、そして広くは感覚、さらには身体について改めて自覚的たらざるをえなくなった体験だったのである」とし、「この項の続きは後日に」としながら、後日談も何も書いていないことに気付いたからでもある。
 若干のことは、書いた。この記事の頁末を参照願いたい。

 だが、ブルーレット事件(?「?」を付すのは真の原因なのか定かではないからである)を持ち出したのは、昨日の「棕櫚の樹や麦の話と二毛作」なる記事で、記事を書く切っ掛けを戴いた石清水ゲイリーさんより、さすが詩人らしいコメントを戴いたからである(「蜃気楼・陽炎・泡」のコメント欄を参照。なお、「棕櫚の樹や麦の話と二毛作」のコメント欄でも興味深いコメントが読める)。
 一部だけ、転記させてもらう:

「波打ち際に打ち寄せられる発泡スチロールの塊を見て、
ああ、これってあの白い何かから千切れて流れ着いたんだなと思っ」たという部分、
いいですね。
フェリーニの自伝的映画の一エピソードみたいで。
こんな宝石のような記憶には、
弥一氏のペンで新しい命を吹き込んでやってほしいものです。

 小生、僭越ながら生意気ながら、ふと、プルーストのマドレーヌ(効果)のことを連想したのだった。
 マドレーヌ(効果)とは、プルーストの『失われた時を求めて』なる小説の成り立ちそのモノに関係する。
 つまり、この「物語は、ふと口にした紅茶に浸したマドレーヌの味から、幼少期に家族そろって夏の休暇を過ごしたコンブレーの町全体が自らのうちに蘇ってくる、という記憶を契機に展開していき、その当時暮らした家が面していたY字路のスワン家の方とゲルマントの方という二つの道のたどり着くところに住んでいる二つの家族たちとの関わりの思い出の中から始まり、自らの生きてきた歴史を記憶の中で織り上げていくものである。」
 マドレーヌ(効果)が味から幼少期の思い出が蘇るという設定なのに、やや強引(?)にも匂いの話題に持っていったのは、例えば、「匂いが記憶を呼び覚ます - プルースト効果とは何か」を読んだからということも多少はあるに違いない。

 田舎に帰って我が家の庭などで鈍感な鼻を使って匂いを嗅ぐと、まず気付くのは土の匂い、草の匂いなどだが、頭の中での連想が働くのか、肥溜めの匂いなども<気付く>。家の庭の表の細い道に面する角に肥溜めがあったから、家の庭を見ると、匂い連鎖というより庭の光景連想で肥溜めが浮んでしまうらしいのだ(同時に、馬小屋や鶏小屋、庭にガキの頃埋めた宝物箱のことなど思い起こされてしまう)。

 小生の場合、嗅覚に不具合があるから、目にする光景に偏重しがちのはずである。
 けれど、だからなのかもしれないが、光景を目にしながら、つい匂いや音に思いを馳せてしまう。
 そう、ただこうなのだろうかと推測するに近い。想像まではいかない。想像力が働くには、小生の脳味噌は腰が思い。
「波打ち際に打ち寄せられる発泡スチロールの塊を見て、ああ、これってあの白い何かから千切れて流れ着いたんだなと思っ」てしまうと同時に、当時の自分の心情を思い浮かべる。
 この体験をした頃には、小生は嗅覚に不具合を生じていたのだろうか。

 もう一度、ブルーレット事件に戻る。
 けれど、話が長くなりそうなので、続きはまた後日。

参考:
「「匂い」のこと…原始への渇望」(2006/02/03
 カール・フォン・リンネによる今も基本となっているらしいニオイの分類や、哺乳類で嗅覚の鈍さで同等なのは人類とクジラだ、といった話。

「アブダルハミード著『』」(2005/04/30
 匂いに極端に敏感な青年が主人公の物語。彼は、よりによって女性のメンスの匂いに異常に敏感なのである。彼は、メンスで血の滲んでいたり、その処理をし終えたりする女性に離れた場所からでも気付いてしまう。
「パトリック・ジュースキント著の『香水―ある人殺しの物語』(池内 紀訳、文藝春秋)についても扱ったことがあったはずだが、どの記事か忘れた。ま、本書は昨今、話題になったから今更、紹介しなくてもいいだろう。

「犬が地べたを嗅ぎ回る」(2006/02/21
 ヘレン・ケラーが鼻の天才だったことなどなど。

「「さわり」について」(2004/12/13
 目障りという言葉はあっても、目触りという言葉はないとか、耳触り、目障りという言葉があるのに、耳触り、目触りという言葉がないのだろう、などなど。

「我がガス中毒死未遂事件」(2006/07/22
ガス中毒死未遂事件」や「石油ストーブ不完全燃焼事件」のこと。全ては嗅覚に鈍感なゆえに生じた。

「匂いを哲学する…序」(2006/02/28
 モーリス・メルロ=ポンティは嗅覚に付いては一切、語っていないという某人の指摘。モーリス・メルロ=ポンティもサルトルやラカンらと同様に、あるいは西欧の哲学者に通有する傾向として「まなざし」偏重の弊を免れていないということか? よく言われることではあるが、五感のうち、特に嗅覚は哲学に馴染まないのだろうか? そういえば、西洋で発達した絵画(遠近法も含め)に嗅覚は描きづらい、そのこととも無縁ではなさそう。

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