あの世の沙汰もカネ次第?
帰省している。自転車で富山市内を、あるいは車で市内から数十分圏内を走って回る機会が幾度かあった。
気付くことは、お年寄りの方が実に多いということ。昨日からは新しい学期が始まるようだが、それまでは春休みということもあり、それなりに子供たちの姿も見かけた。
お年寄りたちと子供たち、せいぜい高校生くらいまでの若い人は見かけるが、二十代、三十代の若い人を見かけることが実に少ない。
→ 富山・滑川の岸壁にて富山湾の海を遠望。
富山は、それとも地方は、学生よりも上の若い世代は何処に消えたのか。仕事中だから、車などで小生が出歩いた日中に見かけないのは当然?
そうかもしれない。
でも、出稼ぎなのかどうかは分からないが、仕事を求めて、刺激を欲して都会へと流れ去っていったのではないか、そんな推測をしてみたくなる。
帰郷していて、たまたま小生の身の回りだけの事情なのかどうか分からないのだが、実に葬式や法事、何回忌の法要、その他の祭事が多い。
それに絡んで思うことは(お寺さんの在り方も含め)いろいろあるのだが、まあ、詳しい実状をどれほどに知っているかというと、自分でもあやふやだと感じるので、あれこれ存念はなくはないのだが、今日は触れない。
今日は、ちょっとしおらしく死の在り方の、その周辺をちらっとだけ、思ってみる。
東京だと、いかにも都会で、見かけが華やかだったりするし、ショーウインドーなどの煌きの背後に葬式などの祭事は埋もれがちになってしまう(あくまで印象の上のことだが)。
でも、都会だと、周辺にお年寄りの方が多いこともあり、話題が自然、葬式のこと、御通夜、法事などなど、お寺さんなどに無縁でない類いに傾いていく。
日常の話題の中に自分が死んだらということがごく当たり前の話題として加わっているのである。
小生も年代的に特に数年前からそんなことを多少は我が身や近親などに照らして考えざるを得なくなっている。
例えば、数年前、葬送のあり方に関して「埋葬について、あるいは死の形」なる小文の中で、こんなことを書いている:
(前略)従来の埋葬法ではなく、風葬や鳥葬(これはさすがに日本では少ない)水葬、散骨葬などが人気を得ている。
何処かの土地に埋葬するのではなく、実際、故郷に拒否感を抱いていたり(あるいは拒否されていたり)して、あるいは従来の宗教的風習や土壌そのものに対して拒否感を抱いていたり、更には、自らの存在そのものへのニヒリスティックな感覚に忠実だったりして死後は、火葬にした後、焼け残った骨は何処ぞの空か海か森か谷にで吹き飛ばしてもらえればそれでいいという形もある。
日本という国は、いつからか非常に息苦しい世界になってしまった。それはつまりは、生き苦しい世界であることの裏腹なのだろう。
生きている以上は何かをするし、何かの役割を果たす。それは三つ子の魂の中に刷り込まれた倫理か論理か性癖か意地か分からないが、ともかく自殺には逃げられないし、かといって今更、精神的に豊かな生活など論外であることを重々自覚している中で、さて、わずかに自分の自由になることといえば、死んだ後に、灰を空中に撒き散らし、骨を粉々にして吹き飛ばしてしまえること、それくらいしか思い浮かばないのである。
死に至るまで、生きている生活の中の不可視の監視に縛られ、息が出来ず、結局は死さえもがままならない。従って、せめて死んだ後、灰と骨は中空に散布することを夢見ているのである。その日の来ることだけが楽しみなのだ。
自分らしく生きること、それは至難の業である。
それは、言葉を変えて言うと、自らを知る、というのに等しい。
更に突き詰めて言うと、悟りを開くにも似ている。
つまり、不可能だと言っているわけである。
(転記終わり)
← 海にもっと近づきたくて波打ち際へ。海水の透明度の高いこと!
また、3年前の正月、「葬送のこと、祈りのこと」の中でこんなことを書いている:
(前略) 自分が死ぬ時、どんな形式が一番、望ましいか。折に触れて考えたことがあるような気がするが、今一つ、現実的に考えたことはなかったように思う。逆に切羽詰っていて、本当に死に直面した時は、埋葬の形どころではなくて、死に物狂いの苦しみに七転八倒するばかりだった。
結局のところ、埋葬の形は、必ずしも慌しくないしかるべき時に、つらつら思いをめぐらしておくのが、いいのかなと思う。で、正月など、年も改まったことだし、思いを新たにする意味でも、そんなことを考えるには最適ではないにしろ、そんなに見当違いでもないと思ったわけである。
埋葬の形としては、それこそ千差万別とまではいかないにしろ、大まかに分けても数種類のものがある。水葬に、風葬に、火葬に、空葬、土葬である。こう並べていくと、ちょうど、宇宙の根元が列挙されているようである。
つまりは、人間(に限る必要はないのだろうが)が還るべき場所は、土(地)、水、風(火、または空)、以外にはないということなのだろうか。尤も、近い将来は、宇宙葬なんてのも加わりそうだが、まあ、これは、大きな意味での風(火、または空)葬ということになるのかどうか。
さて、別に殊更に説明などする必要もないだろうが、土葬、水葬、風葬、火葬、空葬などについて、簡単に見ておくほうがいいだろうか。
今でこそ葬送の在り方としては日本においては火葬が当たり前になっている(土葬なども行われているが)。というか、都会の人、あるいは若い人にとっては、火葬以外の葬送の方法など目新しいか、不思議な光景に映るかもしれない。特に、土葬というと、何か不気味な印象さえ受けかねない。
小生にしても、火葬が葬送の方法としては当たり前だと思い込んできたので、土葬など、何か時代錯誤のものか、そうでなければ山間僻地か離島での消えつつある野蛮な風習くらいに思っていた。
死骸が土の中で段々に腐って、やがて蛆や細菌どもの餌食となり、ついには土に還るのだとしても、何処かやはり不気味なのだ。この不気味さという感覚は、胸のどこかに死骸など早くこの世から消えてなくなって欲しい、できればそもそも人間の死体など目にしたくないという嫌悪感さえなくはないように思える。悲しいが、正直な感覚なのだ。
けれど、この土葬は、一世代か二世代前までなら、当たり前の葬送だったことも事実である。そもそも火葬に付すなど、ちゃんとした火葬場が整い、かつ、その火葬場に葬送を依頼できる経済的余力も必要で、貧しい時代には、宗教的には既に常識の範疇に入り込んでいたとしても、大方の庶民には縁遠い方法だったのかもしれない。
しかし、その土葬にしても、ただ、死骸を穴を掘って放り込むわけじゃなく、ご遺体はちゃんと棺桶に収まっていて、何処の所定の場所に埋葬するにしろ、その棺桶がきちんと土の下に隠れるほどに掘る必要があり、なかなかの労力が必要だったはずなのである。
恐らくは、棺桶が一般化する前は、死骸が何かに巻かれたりして、そのまま葬られたのではないかと推測される。この辺りは、また別の機会に調べてみたい。 容易に想像が付くように、この棺桶のままに土葬するという方法は、狭い日本においては、用地確保の面からもなかなかに困難が伴っただろうと思われる。早晩、死骸が土に還るまで余り人は近づけないことを考えると、棺桶を収める土地だけではなく、衛生上の問題も含め、一定以上の近付き難い領域を確保しておく必要があるのだし、土葬は現実的な方法ではなくなる宿命にあったのだろう。
(中略)
そうはいっても、肉も血も髪も(遺髪を残せば別儀だが)爪も皮も内臓も全て灰燼に帰してしまい、残るのは遺骨だけという現実からしたら、そしてお墓も小さくなる一方なのだとしたら、僅かな遺骨を大事にするしかないということなのだろう。
遺族がいて、遺骨を多少なりとも大事にしてくれるなら、また、そうされることを望むなら、その慣習の流れに乗るのが心の平安に繋がることでもあるのだろう。
が、宇宙から見たら、海だろうが空だろうが土だろうが、大した違いなどないということも事実に思える。それだったら、どうせ遺骸は火葬されるのだし、遺骨が空葬されようがどうしようが関係ないということでもあるのかもしれない。
それとも、遺骨などではなく、DNAを遺しておこうか。
一体、この世に何が残るのだろうか。そもそも何か残したいのだろうか。この掛け替えのない自分。確かに自分というのは一人しかいないし、段々自分のことを気遣うのは自分しかこの世にないのだと、しみじみと感じてきている。
だから、その意味で世間に迷惑を掛けないよう自分のことは自分で始末をつけたいとは思うけれど、さて、それも生きている間のことで、その後のことは、どう思えばいいのだろう。
(中略)
で、敢えて卑近にも自分のことを思うなら、ここ、この世の片隅に一個の平凡なる人間がいる、それは極小の小宇宙に過ぎない。そして、その取るに足りない人間のささやかな思いや願いや祈りや期待など、それこそ蝋燭の焔であって、気紛れな風の一吹きで掻き消されるような、存在自体があやうい、あれどもなきが如きものでもある。
けれど、そのちっぽけな存在者の小さな窓からは、その気になれば宇宙だって見えるし感じることもできる。窓の隙間からは、隙間風だって吹き込む。その風は、宇宙の隅々に吹き渡るものであり、無辺大の宇宙のどんな片隅をも吹き渡り撫で来り、その臭いを嗅ぎ、そして運ぶ。
ここにいる<わたし>が思うことは、つまり、決して消えることなどありえないのだ。一滴の血の雫が海に溶ければ、限りなく拡散し、海の青に染まり行くのだとしても、だからといって血の一滴が消え去ったわけでもなければ、まして無くなったわけでは決してないのだ。
形を変え、色を変え、結びつく相手を変えて、永遠に生きる。一旦、この世に生じたものは決して消えない。消すことは叶わないのだ。一旦、為した善事も悪事も無かったことに出来ないように。
だから、自分というちっぽけな人間が、世の片隅に生きて、平平凡凡と生きようと、その心と体の中に何事かを祈念する思いがあるなら、既に永遠の命が約束されたも同然なのだ。なぜなら、一旦、この世に生じたものは、なかったことにすることなど人間には不可能なのだから。
だからこそ、祈り、というのは、奇跡の営みなのであろう。祈りを知る人こそ、人間の究極の業(ごう)を知る人なのだろう。人間とは、つまるところ、祈りなのだと小生は思っている。
この世のどこかに何かが萌す。それは命の賛歌なのか、生への盲目的な意志なのか、その正体など誰にも分からない。
ただ、一旦、萌した命の芽吹きは踏みつけにされ命を断ち切られたとしても、この世からは消えることは無い。消えたように見えても、また、どこかに生まれる。踏み躙られた苦悩と恨みと望みとが、生まれいずることのなかった命への執念を以って、再びどこかに萌す。
そしていつかはどこかで大輪の花を咲かす。萌し、やがては芽吹き、花が咲くというのは、夢物語ではなく、宇宙の摂理なのだと小生は思っているのだ。
(転記終わり)
→ 波打ち際に立って遥か能登半島を望む。
ぶっちゃけたところ、死ぬにもおカネが掛かるのである。死んだら、極楽か天国かで、大輪の花を咲かせたいのだけれど、そうするにも、おカネがないと、うっかり死ねないのだ。死ぬと、やたらと<経費>が掛かるように社会が出来上がっているのである。地獄にさえ、簡単には落ちることが叶わない。
生きること自体が世間の柵(しがらみ)があって、窮屈さを忍びつつ、時に息を潜めて、というしんどさを堪えないといけない。
その上、死んだあとさえ、おカネそのほかで雁字搦めなのである。祈りの大切さを思うけれど、現実は現実として生きているものの論理で消え去った、立ち去った人の後始末を済ませるしかない、というわけである。
雁字搦(がんじがら)めの上に八方塞(ふさがり)。
これでは貧乏人は四面楚歌ではないか。
まあ、意味のない愚痴、ただの呟きに過ぎないと分かっているのだが、どうしても、憤懣の念を洩らさずには居られないのだ。
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コメント
又、今日は!
私って~積極的ですか!?
やいっちさんは、物事を深く~より深く考えていらっしゃるのですねぇ.。o○ 感心してしまします。
正直なところ~このつんちゃんは、今日の日記を上から下まで全て読む根気もありませんでした。
でも、やいっちさんの言わんとしていることの凡そは、理解出来たかな?
私は、もっと単純に考えています。
「座右の銘」と言えば、格好良く聞こえるかもしれませんが~~~
「生きているだけで丸儲け.。o○」この一語に尽きます。
生きている目的は、「生き抜く」ことに意義を感じています。
自分のために生きるのではなく、家族や、私を愛してくださる人のために生きていたいと思います。
ですから~自分の死というものは、葬儀の形では無く、私を慈しんでくれた家族や、私を愛して下さった方に託したいと思っています。
自分が、健康な心身を持っている時に、静かな気持ちで、希望があれば、簡単、明良にメッセージとして、残すことは考えています。
~~とんでもないコメントに、どうぞ、ご立腹なさいませんように・・・
最後は、「めでたし~めでたし~」で、あの世に旅立てれば、この上ない喜びです。 これが私の最終章でしょうか(笑)
http://blog.livedoor.jp/iseko45/
投稿: つんちゃん | 2007/04/07 15:31
今日は!
私が、積極的ですって.。o○
そうかもしれない~だって、今、コメントを長々書いたのに、時間切れで消えてしましました。
先ほどとは、少し内容が変わりますが、、、
富山湾~綺麗ですね.。o○
望郷の念も理解できます♪
私の座右の銘は、単純で、「生きているだけで丸儲け」そして「めでたし~めでたし」これが最終章です。
私にとって人生の目的は「行き続ける」ことに尽きると思っています。
では、誰のために・・・
それは、親を含めて、子供~家族や、私を愛してくださる方の為です。
そして、「めでたし~めでたし~」で、あの世に旅経つのです.。o○
葬儀のことは、私を慈しんでくださった皆さんにお任せです。
でも、心身が健康状態にある時に、心静かに、「簡単・明良」に私の後始末をお願いするかもしれません.。o○
投稿: つんちゃん | 2007/04/07 15:41
つんちゃんさん、来訪、コメント、ありがとう。嬉しい!
このブログは、コメントもトラックバックも一旦、留保の上、管理人(つまり小生)が内容を確認の上、表示するようになっています。
あまりにスパム的なものが多いので、仕方なくこうした方策を採らせてもらっています。
最近、どうも、落ち込み気味。愚痴的な部分もあって、文章が長くなるのかな。
来訪される方は、拾い読みしてくれたら、それでもう、ありあまる感謝の念を覚えます。
富山の海。以前は相当に汚かった。でも、近年は、例えば、富山市は水の都を標榜しているように、環境のいい街作りを目ざしている。市街地もドンドン、整備されています。
松川という川、運河も見違えように変わっている。
なので、その一環なのか、海岸線も前よりは綺麗になっている。
というか、昨日、海を見て、その透明さに小生が驚いたのです。
もともと山からの流れ込む水流は豊富なので、綺麗になる要素はかなりあったのですね。
生き方については、小生、優柔不断なところがあるので、余計な回り道や迷いを生じてしまうのだろうと思っています。性分なのかもね。
潔くはなれないみたい。
投稿: やいっち | 2007/04/07 15:43