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2007/03/05

国芳の多彩な画業猫ゆずり?

3月5日 今日は何の日~毎日が記念日~」を今日も覗く。
 あれこれ興味のある事項がある。
 ピエール=シモン・ラプラスなど、「ラプラスの悪魔」(「ラプラスの魔物あるいはラプラスの魔」などとも)なる有名な主張もあって、天文学や物理学ファンや、さらにはある種の哲学好きには瞑想に誘う人物である:

もしもある瞬間における全ての物質の力学的状態と力を知ることができ、かつもしもそれらのデータを解析できるだけの能力の知性が存在するとすれば、この知性にとっては、不確実なことは何もなくなり、その目には未来も(過去同様に)全て見えているであろう。(『確率の解析的理論』1812年)

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→ 今 市子「百鬼夜行抄」(「平成18年度(第10回)文化庁メディア芸術祭 優秀賞 百鬼夜行抄 文化庁メディア芸術プラザ」より)

「後に明らかにされた量子力学により、原子の位置と運動量の両方を正確に知ることは原理的に不可能であることが分かり(不確定性原理)、また、原子の運動は確率的な挙動をすることが示され、ラプラスの悪魔でさえも未来を完全に計算することはできないということになった」というが、必ずしも命脈が絶たれた主張というわけでもないようだ。

 ここには、さすがにキリスト教などの絶対神の存在への畏怖の念が読み取れるようでもある。
 物理学の観点からは魔物は、とりあえずは棺桶に眠らされたのかもしれないが、罪と自由という宗教的な疑問との絡みからは今も厳しい問い掛けに繋がっていると思われる。

 極めて素朴な問い、あるいは疑問として、神が全てを知っているのなら、誰かが罪を犯すことも知っていたということになる。神が万能だというのなら、何故、罪を犯す前に止めないのか、見過ごしていた? 罪を犯させておいて、後から罰するなんて、不条理ではないのか。

 そんな疑問を理屈っぽく語り合ったことのある人は、案外と多いのではなかろうか:
原罪 - Wikipedia
『創世記』にみる原罪」においても、「主なる神はアダムに園になるすべての木の実を食べることを許したが、中央にある善悪の知識の木だけは食べることを禁じた。しかし、蛇は言葉たくみにイブに近づき、木の実を食べさせることに成功した。アダムもイブにしたがって木の実を食べた」、つまり、誘惑というか唆しにイブ(そしてアダム)は乗ってしまったということになっている。
 
「二人が楽園を追放されたのは、木の実を食べたからではなく、主なる神の言葉に従わなかったからである。主なる神の言葉から考えると、もし二人が木の実を食べなければ永遠に生きることが出来たはずである」というけれど、エデンの園に邪悪なる蛇の存在を許したのは、神ではないのか。
 神は最初から、蛇が存在していることを知っていたのではなかったか。
 ということは、遅かれ早かれイブ(やアダム)が蛇の誘惑に負けてしまうことを知っていた、もっというとその日の来ることを(手薬煉引いて?)待っていたということになるのではないのか……。
 学生時代、知り合いにクリスチャンがいたこともあって、教会へ足を運んだことも一度ならずあるのだが、その疑問を払拭することはできなかった。
 アウグスティヌスなどの主張そしてペラギウス論争などを経て、多くの現今のキリスト教の宗派では原罪を肯定している。

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← 歌川国芳「猫飼好五十三疋」(「Cat-City Museum:猫と浮世絵」より)

 一方、「ペラギウス主義」にあっては、「神は人間を善なるものとして創造したのであり、原罪というものはない」のであり、「救いには神からの聖寵を必要とはせず、自分の自由意志によって功徳を積むことで救霊に至ることが可能であるとする」のである。
 自分の力や判断を恃みとするという意味、「人間の自由意志を強調する点で、ヒューマニズムの思想ともいえる」のだが……。
 最近、若者の間でなのか、それとも最近の日本の風潮なのか、夢は叶えるもの、努力したら夢は実現するものといった、自力を恃む発想が蔓延しているような気がする。
 勝ち組と負け組みの選別。
 一人の勝ち組が生れるためには千人以上の敗者が生れなければならない。
 最近、敗者復活が可能な社会でなければならないという言い方もされる。
 これもおかしい。敗者の中には頑張って復活する人も生れる可能性はある。そんな可能性を否定するつもりはない。でも、その敗者が復活して勝者になるに際しては、またもや千人以上の敗者が生まれ、一層深く水面下へ没していく結果になる。
  
 誰もが夢が叶うのであってほしい。諦めないことが大切……。

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→ 歌川国芳「みかけハこハゐがとんだいゝ人だ」(「歌川国芳 - Wikipedia」より。彼はアルチンボルドを知っていたのだろうか。)

 そうであったらいいとは思う。
 でも、現実はどうなのだろう。
 誰もがイチロウのようになれる? 病魔に蝕まれた人が治癒を切願していないだろうか。年を取ったら体が衰え、気力・体力が萎えていくのは自然ではないのか。
 医学の進歩を期待する?
 自力は大切だと思う。「天はみずから助(たす)くる者を助く」という発想は小生の発想でもある(できているかどうかは別にして!)
 それでもダメなら天か神か仏か女神様か分からないが、助けてくれるのなら、それはそれでいい。

 それでも、やはり、夢は破れるためにあるような気もする。ほとんどの人が叶わなかった夢を苦い思いで胸深くに秘めて、それでも今日を生きているような気がするのである。
 負け犬の発想なのだろうか。

 ととと。脱線が過ぎた。ラプラスの魔からどうして、こんな古臭い人生論に迷い込んだものか。

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← 歌川国芳「相馬の古内裏」(「歌川国芳 - Wikipedia」より)「掲画の詞書(ことばがき)に「相馬の古内裏に将門の姫君、瀧夜叉(たきやしゃ)、妖術を以て味方を集むる。大宅太郎光国(おおやたろうみつくに)、妖怪を試さんと爰(ここ)に来り、意に是を亡ぼす」」とあるという。

3月5日 今日は何の日~毎日が記念日~」を覗いて、今日は「歌川国芳」を採り上げるつもりでいたのだ:
歌川国芳 - Wikipedia
(今日が誕生日である、インスタントラーメンの発明者として知られる安藤百福氏については、今年1月早々、亡くなられたこともあり、採り上げたばかり!)


「歌川 国芳(うたがわ くによし、1798年1月1日(寛政9年11月15日) - 1861年4月14日(文久元年3月5日))は、江戸時代末期の浮世絵師」であり、「江戸時代末期を代表する浮世絵師の1人である」など、詳細はリンク先を覗いてもらおう。
 歌川国芳の師は、「南北に東西越える劇を見る」で画像を載せた豊国であり、また、歌川 国芳の弟子には河鍋暁斎や月岡芳年などがいる。
 河鍋暁斎も月岡芳年も、気軽には好きだとは口に出せないような傑物である。
 渡辺崋山とも交流があったという。

 さて、国芳は無類の猫好きとして知られている。
 なんたって、彼の隠号は「一妙開猫よし 三返亭猫好 五猫亭程よし 白猫斎由古野」ってんだから。
 猫好きが昂じて、「弟子には画業の第一歩として猫の写生をさせたとい」うから驚き。弟子には迷惑だったのか、それとも猫好きな人が弟子入りしたのかは、小生は知らない。
 ただ、「芳藤 、芳年、芳虎など、国芳の弟子には猫を好んで描く絵師が多い」とか。
Cat-City Museum:猫と浮世絵」参照。

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→ 歌川国芳「「ネズミよけの猫」(1836年)」(「Cat-City Museum:猫と浮世絵」より)

 歌川国芳にはもちろん、美人画もあるが(多くの美人画には猫が配されている)、「戯画/擬人画」に特色がある。
 とにかくユニークな絵を数々描いた人だった。
 けれど、歌川国芳の名が小生の脳裏に刻まれたのは、なんといっても妖怪画であり(「妖怪に容喙しての要悔悟」など参照)、中でも『相馬の古内裏』なる奇怪で不気味な絵だった。
 学生時代、何処かの古書店で見つけた、「百鬼夜行」か「幽霊」や「妖怪」の図版が豊富に載っている本の中で国芳の「相馬の古内裏」に遭遇してしまったのである。

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コメント

「それでもダメなら天か神か仏か女神様か分からないが」、「こんな古臭い人生論に迷い込んだものか。」-これは偶然では無いですね。決定論的な文化論が設定できるのかもしれません。

ラプラスのデーモンにせよ、シュレディンガーの猫にせよ、カオス理論にしても、当然の文化的推移であって、開かれた世界観の中での予想(約束)通りの進展のように見えてしまいますがどうでしょう。少なくとも学術的世界に偶然は存在しないように見える。

投稿: pfaelzerwein | 2007/03/05 17:12

pfaelzerwein さん、コメント、ありがとう。
昨今の日本(だけなのか欧米などの海外も含めてなのか分からないが)の、特に若者には、妙に浮かれているというか、夢実現信仰、夢は諦めずに見続けたら叶う信仰が蔓延しているような。
封建的な世の中から解放され、ヒューマニズム思想が広がったせいなのか、それとも資本主義特有の(コマーシャリズムの刺激の結果としての)煽り文化の結果なのか。
さすがに倫理や人間観に直接、ラプラスの魔の延長は無理だし時代錯誤なのだとしても、ラプラスの魔(つまりはニュートン力学の成功の余波)の影響としての旧弊な倫理観・道徳観からの解放が過ぎたのかなと思ったりします。
人間が自由なのかどうかは別にして、奔放な自由などあってはならない、好き勝手は環境にどんな負荷を与えるか想像を超えるものがあるという認識からは、自制の念が自ずから求められるような気もします。
が、その自己規制はあくまで自分によってという点は中世的な決定論とは遠い地平なのかもしれない。
しかも、自制のための立脚点を得るには、常に情報の摂取と自己研鑽が必須となっている。
相当に厳しい覚悟を持っていての自由の享受であってほしいもの。

偶然の余地、それは古臭い観点からすると、倫理からすると自由の余地の事柄でもあるような気がします。
上記したように現代にあっては、常に自然や環境への配慮、現代社会の動向への注視(双方向の! 社会からは一望監視され規制されている)と切り離しての自由などありえない。

偶然はありえないかどうか。カオスやフラクタクル理論が示すのは、偶然性と(漸近線を描く形で)識別不能な、展開の余地・予測不能性の認識が高まりつつあるような気がする。
それは偶然でもなければ自由でもないのだけれど、偶然や自由(奔放)の存在と誤解する可能性は極めて高そうな気がします。


投稿: やいっち | 2007/03/05 19:44

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