愛本のちまきから泉鏡花の高野聖へ
昨日のブログ記事「愛本のちまき…ラジオで聴いた話あれこれ」では、富山の民話である「愛本のちまき」にスポットを当てている。
その末尾近くで、小生は次のように書いている:
「「赤子を産むが絶対に見ないで」と言い残し納戸に入っていきました。が、つい中を覗いてしまった母の目に映ったのは湯につかる大蛇でした」といった民話(伝説)を一読すると、古事記の須佐之男命(スサノオノミコト)や八俣の大蛇(オロチ)伝説を連想する。
→『高野聖』(泉鏡花/原作 佐藤慶/朗読、新潮カセット&CD)
その上で、「こうした伝説・民話(神話)の背景には(その一つとして)古代の人を苦しめた暴れ川との戦いがあるものと思われる」と、まあ誰でもが想像の付くようなことを蛇足ながら書いている。
伝説(民話)などの詳細は当該の頁を読んでもらうとして、今日、下記のような追記を施した:
あとで思い出したのだが、昔は蛇がやたらと多かった。町とはいいながら実質農村だった地域に生まれ育った小生だが、小生がガキの頃など、庭だろうが、家の土間だろうが、ちょっと掘ったり、敷いてある板を捲ると蛇がウニョーと姿を現すのはしばしばだった。まあ、今は農道も舗装されているが、当時は土の道が当たり前だったし、まだそれほど農薬も使われていなかったから、なのだろう、か。いずれにしても、蛇に限らず、ほんの数十年前までは蛇やミミズやカエルやヒルやカタツムリ、ネズミ、天道虫……と、生き物が民家の近くでも随分と多かった。人間以外の動植物との、望ましい、あるいは必ずしも望まない共生が自明だったことも、物語を育んだ土壌として理解しておいていいのだろう。
文頭に、「あとで思い出した」と書いているが、実は、昨日の営業中にふと思い出したことがあったのだ。大蛇はさすがにいないとしても(大蛇となると、これは暴れ川を隠喩していると思うのが常識的なのだろう)、蛇は昔、小生の郷里でもしばしば目にしたな、結構、怖い思いもさせられたな、とガキの頃のことを思い浮かんできたのである。
何が切っ掛けでこんなことを思い出したものやら。
もしかしたらこれは何処かほかでも書いたかもしれないのだが(あるいはコメント欄での雑談の形だったかも)、小学校に上がるかどうかの頃(下手すると、あと数年もすると半世紀も昔のことになる!)の蛇に纏わる思い出を簡単に書いておく。
小生が小学生になったかどうかという頃というと、昭和の三十年代の前半である。
小生の郷里は富山市のど真ん中辺りに位置する。富山駅から歩いて二十分も掛からない。
が、当時は我が郷里の家は町とはいえ、農村と呼んでもおかしくはないような風景が広がっていた。一応、近くにはアスファルト(コンクリート)舗装された街道が通ってはいたが、散在する農家の周辺の道はせいぜい砂利道で、大方は土の農道だった。農業用の水も土盛りの細い水路からそれぞれの農家が水を汲み上げる。
尤も、物心付いたころには既に水道はあった。
が、生活用の水は水道水で賄うとしても、農業用の大量の水は小川を流れる水に頼っていた。
家の裏庭には井戸もあって、寂びた手動のポンプでせっせと水を汲み上げたことを覚えている。スイカを冷やしたりするのは無論である。夏は井戸の水がひんやりして気持ちいい!
家には農作業をする土間があり、土間へは表(裏庭側)からも出入りできるが、玄関からトイレへ通じる土盛りの通路からも出入りできる。
土の通路にはスノコの板が敷いてあった。
何故、スノコ風の板が渡してあったのかは分からない。
或る日、小生は、よせばいいのに、その板を不意に引っくり返してしまった。
板の下に何かの気配を感じたのだろうか、それとも誰かに唆されたのだろうか、ただの好奇心なのか、小生には分からない。
板を引っくり返した…ところまではいかなかったようにも思う。
そう、板の下の暗がりに蠢くものを見てしまったから。
それは蛇だった。一匹だったか二匹だったか、それさえも覚えていない。
ガキだった小生は慌てて板を元に戻した。
蛇が嫌い。蛇が怖い。
だから、慌ててその場を逃げ去った…。
あるいは、家に蛇がいると家の誰かに告げたかどうか(多分、内気な人間だから、ずっとあとになって話したかもしれない)。
実は、この蛇事件には前段がある。
そうでないと、いくら蛇が嫌いな小生とはいえ、異様な恐怖感を覚えたりはしない。
なんといっても農村と見紛うような、二階建ての家が珍しいような町なのだ。当時、既にサラリーマン家庭が増えていたし、我が家にしても兼業農家だったが、それでも、家々を連ねる道は土の道。田圃が延び広がっているし、畑も方々に目にする。
我が家にしても、家の前にも田圃があれば、歩いて十分ほどのところにあちこち散在する形で田圃があった。
畑があり庭があって、家は変則的な十字路の角地にあったが、交差する道はいずれも土か砂利の道。要するに家々は直に土の上にあったと思っていい。
蛇を見ることなど、しょっちゅうというほどではないが、珍しくはない。
まあ、手にとって捉まえたりはしないが目にすることは間々あった。
だから、家の中の蛇は守り神だという教えも碌でもないガキだった小生も右の耳から左の耳へ通り抜けていく際に、一瞬くらいは脳裏を掠めていた。
実は、である。
家のスノコの板の下の蛇を発見遭遇する前に蛇を虐めた(虐め殺した)ばかりだったのである。
何事も付和雷同、大勢順応の小生、この習性はガキの頃から沁み込んでいたようである。
或る日、近所のガキ連中と一緒になって、近所で見つけた蛇を玩び、石をぶつけ、棒で突っついたりして虐めていた。無論、小生も後ろから追随して恐々虐めていた。
そのうち、さすがに蛇は動きが鈍くなり、やがて動きが途絶えた。
が、死んだと断言はできなかった。
誰も蛇の死を確かめようとはしない。
蛇の命に止めを刺すほどの胆力のある奴もいない。
ガキっこどもの兄貴分の奴が蛇を棒の先に引っ掛け、何かの穴の中に突っ込もうとした。
あるいは、一番の手下である小生がその役を強いられたのだったか。
← 泉 鏡花 著『高野聖』(角川文庫)
穴…。朧な記憶では、水道の栓か何かが埋まっている穴だったような気もする。
鉄の蓋を開け、その穴の中に蛇の体を(死骸を?)放り込み、押し込み、その上からまた蓋をしてしまった。
蛇の肉体のギュッと押し潰されるような感触を今でも覚えているのだが、しかし、臆病者の小生がそんな蓋をしてその上から足で踏むような始末をするわけも、できるわけもない。
多分、その日の夢の中でそんな胸糞悪い後始末をしたのだろう。
それとも、秘められた願望を夢の中で果たしていた?
ぬめったような蛇の捻じ曲げられた肉体。血みどろの鱗の体が二度と解(ほぐ)れることのないとぐろを巻いている。
そんな<事件>のあった翌日だったかに、小生は何故かスノコの板を手ずから引っくり返し、我が家の守り神である蛇と遭遇したわけである。
闇の中から蛇の眼が睨みつけているような気がした。
今でも分からないのは、どうして小生がスノコの板を引っくり返そうだなんて、気まぐれを起こしたのか、である。
散文的な説明を敢えて施すなら、蛇を虐める姿を近所の誰かが目撃し、守り神たるべき蛇を虐待するのはよくないということで、ガキ連中の親たちに告げ口され、親か誰かが、ガキの小生に板切れを引っくり返すように仕向けた、ということになるのだが、さて、いかがなものだろう。
蛇が特に農村では守り神なのは、大事な収穫物である穀物を食い荒らすネズミを退治してくれる番犬ならぬ大事な番蛇、つまり守り神なのである。
そんな事件があって間もないころ、といっても、数年も経ったかどうかの頃、農薬の散布が盛んに行なわれるうようになった。一方、農村と見紛う町だった我が町も道路はドンドン舗装されていった。家の裏の砂利道をたまに車が通ると我が家がその振動で揺れる、なんてこともなくなった。
水路は整備され、ネズミも殺鼠剤(我が家の愛犬も殺鼠剤を口にして死んでしまった!)で駆除され、蛇に限らず、蛭もカエルもミミズも蜘蛛も蝶も天道虫もカタツムリも(サナダムシもハエもカもガも)、要するに自然に棲息する生き物の大半が殺虫剤などのために姿を消すか、数を激減させた。
蛇の姿も、小生が中学か高校の頃には目にしたかどうかすら覚えていないほどになった。
そうそう、昨日の営業中、「愛本のちまき…ラジオで聴いた話あれこれ」の「愛本のちまき」に関連して、暴れ川のことを連想するのはいいとして、もっと何か肝心な点が抜けているようなもどかしさの感を抱いていた。
そのうち、蛇、土や水という連想が働いたようなのである。
そして、昔の田舎…というか、ほんの一部の都などを除けば、日本のほとんどの地がせいぜい農山村か漁村だったわけで、一歩、家の裏手を踏み込めば森が藪が広がっていた。
しかも、その森というのは、フィトンチッドを期待して散策を楽しむような刈り込まれた公園風な森ではなく、闇の森、藪の深み、命の横溢どころか、鬩ぎ合う世界なのである。
小生は、終いには、泉鏡花の『高野聖』という作品のある場面などを思い出していた。
→ 昨年夏に都内某所で撮った月影。月影だけは昔も今も変わらずに照っている…。人の手が及ばないうちは、これからも…?
小生には、「秋成の「雨と月」をめぐって」という読書感想文がある。
このブログ記事から関係する部分を転記する:
(前略)『高野聖』を読むと、山の道、森をそれこそ枝葉や下草を掻き分けて歩くしかない道は、真昼間であってさえ、時に鬱蒼と生い茂る不気味な深い緑の海、どんな怪物が潜むか知れない闇の海だったりするような森のあるかなきか知れない筋に過ぎないことを実感させられるのである。
それは泉鏡花の文学的想像力の生みなした虚構の空間なのかもしれないが、しかし、これが江戸の世となると、月の出ない夜の闇の深さはいかばかりだったろうと思う。漆黒の闇とか、墨を流したような闇とか、とにかく心の闇より深い、得体の知れない不気味な闇の世界に、胸までどころか、心の底までもドップリと浸かっている思いだったのだろうと想像するしかない。
ついでながら、小生には、泉鏡花の『高野聖』から、それこそ昔の森の不気味さを描く部分を抜き出して使わせてもらった掌編「冬 の 灯 火」がある。
その抜き出させてもらった部分とは、下記である:
此の恐しい山蛭は神代の古から此處に屯をして居て、人の來るのを待ちつけて、永い久しい間に何のくらい何斛かの血を吸ふと、其處でこの蟲の望が叶ふ。其の時はありつたけの蛭が不殘吸つただけの人間の血を吐出すと、其がために土がとけて山一ツ一面に血と泥との大沼にかはるであらう、其と同時に此處に日の光を遮つて晝もなほ暗い大木が切々に一ツ一ツ蛭になつて了ふのに相違ないと、いや、全くの事で。
気が向いたら、我が掌編「冬 の 灯 火」を一読願いたい。
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