年経ても維新の息の今にあり
車中では勝小吉著の『夢酔独言』(『平子龍先生遺事』を収録。勝部真長=編、平凡社ライブラリー)を読んでいて、日を追うようにして自宅では勝 海舟著の『氷川清話』(江藤 淳・松浦 玲編、講談社学術文庫)を読んでいる。
『夢酔独言』は、勝海舟の父君・勝小吉の著述で、天衣無縫というか、幕府の旗本の末裔ながら、力を発揮する場もなく、幕府から碌も貰えず、憤懣やるかたない滾り立つエネルギーを無闇に発散させている。
→ 勝小吉著『夢酔独言』(『平子龍先生遺事』を収録。勝部真長=編、平凡社ライブラリー)
彼は学問が性に合わず、文など書けなかったが天保の改革の時、老中より蟄居を申し付けられ、その際、文筆を覚え、このような特異な、得がたい著述を著した。自分の情けない人生を反面教師にしろと。
ある意味、これもまた我が侭勝手な理屈ではあるのだが。
本書で改悛の情を示したというべきなのか。だから、息子の名前も海舟と名付けた! …なんてのは冗談として。
勝 海舟著の『氷川清話』は、云うまでもなく、幕末に手腕を発揮し、江戸城無血開城を果たし、幕末から明治維新の特に江戸の町の混乱を最小限に抑えた功労者の自伝である。
要するに勝海舟本人と父との親子鷹ならぬ親子本を読んでいるというわけである。
いずれも無類の持ち味を持つ稀有な本。女性は分からないが、男子だと結構、ワクワクしつつ読める本だろう。
但し、勝小吉は地元の顔役を果たすこともあったが、同時に喧嘩に明け暮れた暴れん坊だったし、家庭にあっては、今風に言えばDVを揮うとんでもない夫でもあったということは銘記されるべきだろうか。
奥方を殴らなかった日はないと自ら反省の弁として書いている。また惚れた女との取次ぎに女房が立ったり!
それが江戸時代なのだといえばそれまでだが、江戸時代は女性が元気な時代だったという論が時に立てられたりすると(少なくとも江戸の町は作られた当初は町作りのため男の人口が圧倒的に多かったから、女性は相対的に貴重だった! だから一部の女性は強気に出れたのかもしれない)、そんなことはないことが分かってくる。
男たちの<活躍>の陰で女性たちが忍んでいたり口にしえない労苦を重ねたりしていたことが十二分に想像されるのである。
そうしたことを認識しつつも、江戸の世の庶民の生活が旗本(崩れ)の目線を通して生き生きと描かれ、実に楽しい。
勝小吉にも、彼の無方向のエネルギーに方向付けるような時代の潮流が押し寄せたなら、彼の力も発揮できたのだろうか。
息子の勝海舟は幼少より学芸に励んだが、それは父の悔いと反省が反面教師になっていたようでもある。
勝小吉は、海舟に「平子龍先生」のことを遺訓としてよく話して聞かせたとか。
平子龍先生は、徳川家康に仕えた忍者の家柄を継ぐ人物で、乱のない世が長く続いて武は建前になってしまった中、日頃鍛錬を忘れず、常在戦場の覚悟を終生貫いた人物でもあった。
ところで、勝海舟も父親似の部分は大いにあって、例えばかなりの艶福家でもあった。「海舟に耐えた妻 唯一の反逆 旅行けば江戸気分 国内 旅ゅーん YOMIURI ONLINE(読売新聞)」によると、「妻民子以外の4人の女に子を生ませ、そのうち3人を晩年の27年間住んだ赤坂氷川町の屋敷に民子と一緒に住まわせた」りしたのだった。
だからなのだろう、「妻民子は海舟没後6年で他界したが「勝のそばに埋めてくださるな。わたしは小鹿(長男)のそばがいい」と遺言したので当初は青山墓地に埋葬された」のだった。後に敢え無く<合祀>と相成ったのだが。
← 勝 海舟著『氷川清話』(江藤 淳・松浦 玲編、講談社学術文庫)
さて、今日、今更ながらに勝(海舟)の話題を採り上げるのは、本書勝 海舟著の『氷川清話』を読んでいたら、小生の居住する地域に近い洗足(池)の話題が出てきたからである。
(尤も、洗足池のことは、地元に近いこともあり、大凡のことは以前、調べてみたことがある。勝海舟にも無縁ではない地であり池であることも知らないではなかった。が、今日、本書で改めて関連する話題に遭遇したので、ここにメモするわけである。)
「洗足池 - Wikipedia」を覗くと、「洗足池(せんぞくいけ)は、東京都大田区南千束にある池」であり、「池の名は、身延山から常陸へ湯治に向かう途中の日蓮上人が、池のほとりで休息し足を洗ったという言い伝えに由来する」云々と書いてある。
(ついでに書いておくと、「日蓮聖人が池上に向かう途中にこの池に立ち寄り、袈裟を松にかけて手足を洗ったという伝説のある「袈裟掛けの松」も残されてい」るのだとか。日蓮縁(ゆかり)の池上本門寺も遠からぬ地にある。)
→ 歌川(安藤)広重「名所江戸百景 千束の池袈裟懸松」(「江戸東京博物館」より)
が、ここでは、「歴史」の項目に注意。
「かつては、池のほとりに勝海舟晩年の邸宅「千束軒」があったが戦災で焼失。現在は勝夫妻の墓が残り、大田区の文化財に指定されている」とか、「幕末、勝海舟は江戸総攻撃の中止と江戸無血開城を西郷隆盛に直談判するため、官軍の薩摩勢が駐屯していた池上本門寺へ向かう途中、洗足池のほとりで休息した。明治維新後、池の風光明媚を愛した勝が池のほとりへ移り住んだ。西郷もここを訪ねて勝と歓談したと言う」などとも書いてある。
「池のほとりに勝海舟晩年の邸宅「千束軒」があった…」という記述を本書の勝海舟の談で補足する:
洗足村の別荘は津田が勧めたから、二百五十両か幾らかで、安かったから言い値のまま買求めて、そのまま元の持主を住ませて留守番をさせてあるのだ。持主はそれで自分の顔も立つし、臨時の収入もあつたので、大層喜んで大切に手入れをしてくれるよ。おれはまだ一度も行っては見ないが、だんだん四方の土地を売り込まれて、今ではずいぶん大きい屋敷になって居る筈だ。(後略)
← 歌川広重『名所江戸百景 千束の池袈裟懸松』 (安政三年(1856) 「大田区史跡と歴史 デジカメ散策」より) 上掲の同名の絵と見比べると面白い。刷りの違いなのか、経年変化の故なのか、随分、印象が違う!
この転記した箇所について、本書に「注」が付されてある:
海舟は、東京府下荏原郡馬込村千束(現在、東京都大田区南千束)の土地を津田仙のすすめで買い入れ、そこに洗足軒という別荘を営んだ。津田仙は津田梅子の父で、明治キリスト教運動の草分け。
(「千束軒」と「洗足軒」のどちらの表記が正しいのか未確認。「勝海舟の墓を訪ねて 勝海舟先生別邸跡の標柱と案内板」などを覗くと、どうやら「洗足軒」が正しいようだ。)
勝夫妻の墓については、「大田区ホームページ:勝海舟夫妻の墓」を参照。
津田仙は、“キリスト教界の三傑”の一人であり、「足尾鉱毒事件では田中正造を助け、農民救済運動に奔走」した人物として有名。
小生はこうした幕末や明治維新に活躍した方の本を読む際は、動乱の世にあってどのように身を処したかという殊勝な理由や動機もあるが、同時に(実は?)自分のご先祖様の活躍として読む。
無論、小生のご先祖様が彼らのようであったわけではないが、まあ、どこでどう擦れ違ったか分からないし、いずれにしても、同じ時代の空気を吸っていたことに違いはない。
そう思って読むと、妙に懐かしかったり慕わしく思えたりするのだ。
中村草田男だったか、「降る雪や明治は遠くになりにけり」(昭和11年、第一句集「長子」)という句を残した。
今は、昭和さえ遠くになりつつある。
昭和の世が終わってからも、既に二十年となろうとしつつあるのだ。
歳月も(借金の催促も)早い!
しかし、書を通し、先人の息遣いを聴くことは難しくはないのである。
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