箸のこと端までつつき橋架けん
昨夜、NHKラジオ第一の「ラジオ深夜便」で、箸の話(インタビュー形式)があった。
どうやら、「箸作りから箸遣い」という題名で、インタビューを受けているのは、箸製造業の浦谷兵剛氏のようだった(聞き手は、須磨佳津江さんだったかどうか、心もとない)。
箸は、日本固有の文化ではなく、東アジアに広く共通する文化で、今や、日本食などの海外への普及もあって、欧米にも広まっている。
→ 今日のテーマは箸! 「はし」つながりというわけではない(こともない)が、橋の上からの光景。2月28日、港区の札の辻なる橋である。ここからの東京タワー方向の眺めも絶景?!
「箸 - Wikipedia」によると、「世界の約3割の人が、箸で食事をしているとの統計もある」とか。
箸が日本固有の文化ではないとしても、箸(や御飯茶碗)については、箸の形も含め日本特有の習慣めいたものはある。
一番、日本の特色となっているのは、「古来から日本の家庭の箸の使い方で特徴的なのは、属人器であり、各人の専用の箸(茶碗も)が家庭内で定められていることである」という点だろう。
小生は東京では一人暮らしなので、箸もスプーンも割り箸も何もかも、我輩のもの!
けれど、既に離れて数十年となる郷里の家には今もマイ箸がある!
「5000年前の中国で、煮えたぎった鍋から食べ物を取り出すのに二本の木の枝を使ったのが箸の始まりと言われている」……。
不思議だ。だったら、中国でなくたって、「二本の木の枝」などを使って(竹でも何でも構わないはず)「煮えたぎった鍋から食べ物を取り出」したはずではないか。
あるいは、東洋以外の地域では、最初から匙(さじ)やスプーン、それともナイフのように突き刺す形に切り出した道具を使っていたということなのか。
こういった話は小生は興味津々なのだが、生憎(不謹慎かな)仕事中でもあり、しかも、一番忙しい時間帯での放送だったこともあって、話はほとんど聴けなかった。
どんな話だったのだろう。
小生は、既に下記のような拙稿を数年前に公表している:
「御飯茶碗と箸と日本」(02/09/21-02/09/26)
この小文では、マイ御飯茶碗やマイ箸というのは、肉体的潔癖性と無縁ではない、個人主義ではないが、孤的主義とでも呼びたいような心性が日本人にはあるような気がする、などと書いている。
← 「兵左衛門」
冒頭で、インタビューを受けているのは箸製造業の浦谷兵剛氏のようだが、肝心の話を聴くことができなかったとしている。
幸い、同氏には、「兵左衛門」というホームページがある。
もう、「箸の歴史」から「箸の語源」、「マナー(タブー)」、「箸の正しい持ち方」、果ては「箸にちなんだことわざ辞典」(耳が痛くなることわざや熟語が多い!)に至るまで箸に関連する情報が網羅されている。
小生が興味深かったのは、小生の好きな語源話もさることながら、
「箸の語源」の中の、「箸は二本一組で「一膳」と数えます」という項目だった。
「月(にくづき)…体の器官(肺・腰など)を表すのに用いられます」として、「月(にくづき)をもつことから「膳」とは「道具」という無機質なものを呼ぶ単位ではなく、体の器官やそれに近い機能を果たすモノを数える単位であるといえます」という。
箸が日本人にとって「属人器」であるということ、つまり、「他人に自分の箸を使われるのを嫌うのは、箸が指先・手先以上の働きをする第二の器官としてとらえる民族性が今も受け継がれているからではないでしょうか」というのは、なるほどと思わせる指摘だった。
勿論、「箸が指先・手先以上の働きをする第二の器官としてとらえる民族性」が何ゆえに涵養されてきたのかが疑問なのだ、などと問い返すこともできなくはないが、ま、ここは野暮はやめておこう。
恐らくは日本の湿気のある風土、雑多な文化的背景を持った多用な民族が、吹き溜まりの列島であるで共存するためには、自己主張も自制して生きていく必要があった。でも、最後の最後のギリギリの<個>の主張がマイ箸やマイ御飯茶碗などに篭められているのでは、というのが小生の憶測だが、調べる余地は多大にありそうである。
小生には、箸がテーマではないのだが、箸の文化に関係する記述の含まれる拙稿が他にもある:
「ロラン・バルト著『表徴の帝国』」
(他にも、「箸」に無縁ではない記事として、「明珍火箸」がある。が、これは火箸であり、時には焼けた芋くらいは挟んだかもしれないが、食べるに用いる箸というにはやや難があるので、ま、こんな拙稿があるというに留めておく。)
ここから箸に関連する部分を転記する。主に、ロラン・バルト著の『表徴の帝国』(宗 左近訳、ちくま学芸文庫)からのバルトの文である。本書は、表徴の帝国が小生には夢のように繰り広げられていて、不思議な本だった。冒頭の短詩は、榎本其角の俳句(瓜の皮水もくもでに流れけり)のバルトによるフランス語訳を宗 左近氏が日本語に訳したものである。その後に続く地の文は、無論、バルトの文(を宗 左近氏が訳したもの)である。
バルトの文章もこうした素材を扱った文章で読むと、結構、楽しい!:
→ ロラン・バルト著『表徴の帝国』(宗 左近訳、ちくま学芸文庫)
切断された胡瓜
その汁が流れている
蜘蛛の脚を描いて微小なものと食べうるものとの合一が、ここにはある。ものは、小さいからこそ食べられる。だがまた、食べられて人間を養うものだからこそ、ものはその本質、つまり小ささという本質をみたすことができる。東洋の食べものと箸との協和は、機能と、道具の面だけにとどまりえない。食べものは、箸でつまみとれるように分断される。だが同時に、食べものを小さな断片に分断するためにこそ箸は存在する。分断する運動と分断された形そのもの、これが分断する道具と分断された物質の性格を超える。
箸は、食べものを皿から口へ運ぶ以外に、おびただしい機能をもっていて(単に口へ運ぶだけなら、箸はいちばん不適合である。そのためなら、指とフォークが機能的である)、そのおびただしさこそが、箸本来の機能なのである。箸は、まずはじめに――その形そのものが明らかに語っているところなのだが――指示するという機能を持っている。箸は、食べものを指し、その断片を示し、人差指と同じ選択の動作をおこなう。しかし、そうすることによって、同じ一つの皿のなかの食べものだけを、機械的に何度も反覆して嚥み下して喉を通すことをさけて、箸はおのれの選択したものを示しながら(つまり、瞬間のうちにこれを選択し、あれを選択しないとう動作を見せながら)、食事という日常性のなかに、秩序ではなく、いわば気まぐれと怠惰とをもちこむのである。こうしたすぐれた知恵の働きのため、食事はもうきまりきったものではなくなる。二本の箸のもう一つの機能、それは食べものの断片をつまむことである(もはや西洋のフォークのおこなうような、しっかりと掴まえる動作ではない)。《つまむ》という言葉は、しかし、強すぎて挑発的でありすぎる(《つまむ》とは、性悪な娘が男をひっかける、外科医が患部をつまむ、ドレスメーカーのつまみ縫い、いかがわしい人間のつまみ食い、などをあらわす言葉である)。それというのも、食べものを持ちあげたり、運んだりするのにちょうど必要以上の圧迫が、箸によって与えられることはないからである。箸をあやるつ動作のなかには、木や漆という箸の材質の柔らかさも手伝って、人が赤ん坊の身体を動かすときのような、配慮のゆきわたった抑制、母性的ななにものか、圧迫ではなくて、力(動作を起こすものという意味での力)、これが存在する。(以下、略)
榎本其角とは、のちの宝井其角のこと。
「宝井其角 - Wikipedia」によると、「赤穂浪士討ち入り前夜、四十七士の一人・大高源五と会い、また討ち入りも見物したともされている」だって!
切られたるゆめはまことかのみのあと 其角
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