サンバとは命の紡(つむ)ぐメッセージ
「サンバの例が示しているのは、「音楽を音符に書きしるすことはできない」ということだ。リズムをスィングさせるためには様々に異なるリズム的要素の的確なバランスが必要であり、従がってスイングするある一点に対するスイングしないサンバの数は無限にあるということになる。スイングを保証するに足るだけの情報を音譜のなかに盛り込むことは不可能だ。サンバを事前に知っていなかったら、作曲家がその使用に供されるべくいかに多くの記譜上の猿知恵を盛り込もうと、私たちはこれぽっちもサンバの真の感覚を伝える演奏をすることはできいだろう。」
(引用は、既に削除された(?)「http://members.aol.com/R5656m/VillaLobos.htm」なるアドレスサイト内における、ピーター・バスティアン著『音楽の霊性―ニューエイジ・ミュージックの彼方へ』(沢西 康史訳、工作舎)より)
→ 画像は、Charlieさんの「A.E.S.A Carnaval 2007 Yokohama」(「Charlie K's Photo & Text」参照)より。
大地…鼓動
サンバの音楽もダンスも奥行きが深いのは無論だろうし、奥の院には洗練された世界もあるのだろう。
でも、小生がすきなのは、いい意味での野性の感覚。原始性。
言うまでもなく、技術においての素朴さという意味ではなく、感性においての生な世界がたっぷり濃厚に反映されていること。
大地の感覚。サンバにおいて打楽器が多いのは、大地の鼓動であると同時に、それ以上に心臓の鼓動、そう、ビートが肝心だということだろう。
サンバ…楽器
アゴゴ、ヘビニキ、スルド、タンボリン、カイシャ、クイーカ、ガンザ、ショカーリョ、ヘコヘコ、パンデイロ。カバキーニョにタンタン…。
(楽器については、「A ARTE BRASILEIRA -楽器の紹介-」参照)
ダンス…サーフィン
ダンスが好き、音楽が好き、人間が好き、生きていることが好き、なのだろうが、観客やバテリアの前で踊る時のダンサーは、パレードコースという大波に乗るサーファー、という感じを受けることがある。
観客の乗り、バテリアの熱気溢れる演奏、踊ることで火照る体、迸る汗、サーファーは波次第、大きな波、乗りやすい波が来たら、その波に乗って、心行くまで走っていく。駈けて行く。飛んでいく。
波に乗り損ねると、それこそヒールの底がコースのギャップを拾ってずっこけてしまう恐れがあって、見る人を白けさせかねない。
あるいは羽根などの衣装や化粧、髪などが激しい踊りで崩れてきて本人が焦ってしまったり、時には体調が悪かったり、そんなスリル一杯の波に乗り、パレードコースというコンクリート上の大波を乗り切って滑り飛んでいくのだ…。
(削除した旧稿より)
ダンス…交歓
踊るってのは、どういうことなのだろう。肉体そのもの命の歓喜の表現?
大地というより、この世界、この宇宙そのものをイメージしているのかもしれない。それとも、大地から宇宙へ至るエネルギーの通路としての自らの体を意識しているのであって、踊るとは、そのエネルギーの充溢と発散のことなのかもしれない。つまりは、自在に動く体への喜びなのかもしれないし、自らの肉体と大地や世界や宇宙との交歓そのものを実現させているのかもしれない。
ダンス…肉体…重力
地上世界にあって、この世の何物も、モノであろうと生き物であろうと、重力に制約されている。
人間が他のモノや動植物と違うのは、重力に縛られていることの自覚の有無だろう。
踊るというのは、そういった制約のある意味での克服であり支配なのではないか。
無重力の世界へ飛んで、浮遊する感覚を味わっているわけではないだろう。
練習に練習を重ねて、様式とステップを習得して、重力を活かしきり、自らの肉体の自在な動きを通じて開放感を感じる、表現している。
肉体が、それあるだけで歓喜を、生きる喜びを得られるなら、それはそれでいい。
が、では、寝たきりの生活を強いられて、それで歓びを感じられるか。
肉体的苦痛があるなら別だが、痛みがないのなら、寝たきりの生活でも生きる喜びを感じられて不思議ではないはず。
でも、そうはいかないのが人情だろう。
動かないで居て、生きる満足感を覚えるなどは、大概の人には難しいはずだ。
幾度か、一ヶ月程度の入院生活を送ったことがあるが、小生にはできなかった。体が侭にならないなら、せめて手を伸ばし、脇にある本を読む。想像の世界だけでも、羽ばたいてみたいのだ。脳裏の世界に過ぎなかろうと、世界を渉猟し玩味し尽くしたいのである。
肉体が肉体であるがゆえにのみ、それだけでのみ、歓喜を覚えることなど、凡人にはできない。
動くこと、動かすこと、自らの理想とする形やリズムで動かせること、動かせることの確認があって初めて、歓喜への一歩を踏み出せるのが普通の人間なのだろう。
スキー、テニス、水泳、ゴルフ、サッカー、野球、バレー、スケート、走ること、セックス……。
← ピーター・バスティアン著『音楽の霊性―ニューエイジ・ミュージックの彼方へ』(沢西 康史訳、工作舎)
肉体。人間は、どうしても、モノを想う。思わざるを得ない。言葉にしたくてならない。言葉にならないことは、言葉に縋りつくようにして表現する奴ほど、痛く骨身に感じている。でも、分かりたい、明晰にこうだ! と思いたい、過ぎ行く時を束の間でもいい、我が手に握りたい、零れ落ちる砂よりつれない時という奴に一瞬でもいいから自分が生きた証しを刻み付けたい、そんな儚い衝動に駆られてしまう。
そう、人間は重力に抗いたいのだ。
それが叶わないなら、せめて自らを鍛え磨くことで重力ある世界を生き尽くしたいのだ。踊るって、徹底して重力を生きることなのかもしれない。
肉体という小宇宙から、人との交歓を通じて世界との交歓へ。
肉体は、肉体なのだ。肉体は、我が大地なのである。未開のジャングルより遥かに深いジャングルであり、遥かに見晴るかす草原なのであり、どんなに歩き回り駆け回っても、そのほんの一部を掠めることしか出来ないだろう宇宙なのである。
肉体は闇なのだと思う。その闇に恐怖するから人は言葉を発しつづけるのかもしれない。闇から逃れようと、光明を求め、灯りが見出せないなら我が身を抉っても、脳髄を宇宙と摩擦させても一瞬の閃光を放とうとする。
踊るとは、そんな悪足掻きをする小生のような人間への、ある種の救いのメッセージのようにも思える。肉体は闇でもなければ、ただの枷でもなく、生ける宇宙の喜びの表現が、まさに我が身において、我が肉体において、我が肉体そのもので以って可能なのだということの、無言の、しかし雄弁で且つ美しくエロチックでもあるメッセージなのだ。
(一部「裸足のダンス」より)
→ 26日、宵闇に一番星。画像を拡大すると、よりはっきり見ることが出来る。
言葉…受肉…エロス
言葉というのは、受肉された心なのではなかろうか。
それとも、肉体としての心の悲鳴であり歓喜であり溜め息、それが言葉なのではないか。
言葉が受肉した心であることの証左は、言葉が肉体から発せられるということだけではなく、言葉が常に誰かに向って発せられていることでも分かる。
言葉とは交歓なのである。
言葉とは交わりそのものなのだ。
……そして人は自らの無力を知る。
何ゆえの無力なのか。
それは愛する心を身の内に覚えるが故の無力感なのである。
そこに人がいる。愛する人がいる。
そこ、すぐそこにいる!
なのに、自分は何もできない。
可能なのは肉体を震わせること。世界は愛に満ちていることをひたすらに己の肉体で示すこと。
ここに一個の愛があることを分かって欲しい!
愛と愛とが孤独なままであってはいけないことを痛切に感じている誰かがいることを分かって欲しい。
生きて、命があって、心臓がドキドキしている。
愛の血が脈打っている。
髪の毛の一本一本が生の悦びに撓っている。
伏せられた、あるいは開かれた目の輝き。
肉体は、ただそこにあって息衝いているだけで、もう、エロスである。
何故なら、交接を願わない肉体など論理矛盾だからだ。
「愛のファンタジア」(前口上より)
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