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2007/02/11

建国も温故知新で意義新た

2月11日 今日は何の日~毎日が記念日~」を覗いたら、今日は「建国記念の日(National Foundation Day)」だという。
 今日が祭日だとは、さすがに世間のことに(も)疎い小生も気づいていたが、このサイトを覗いて思い出したのだった。
 尤も、「「国民の祝日」について」なる頁の「国民の祝日に関する法律(昭和23年法律第178号)」によると、「第2条 「国民の祝日」を次のように定める 」では、他の休日は日付を決められているのに、「建国記念の日」は「政令で定める日」となっている。変?!
 趣旨は「建国をしのび、国を愛する心を養う」と立派なのだが。

2月11日 今日は何の日~毎日が記念日~」によると、下記の事情があったとか:

 建国記念の日の日附については内閣の建国記念日審議会でも揉めたが、10人の委員のうち7人の賛成により、2月11日にするとの答申が1966(昭和41)年12月8日に提出され、翌日政令が公布された。
「建国記念日」ではなく「記念の日」なのは、建国された日とは関係なく、単に建国されたということを記念する日であるという考えによるものである。

 詳しくは、下記サイトなどを覗いてみて欲しい:
建国記念の日(2.11)
「建国記念の日 - Wikipedia」

40626890061

→ 『日本の歴史 00』(網野善彦編、講談社刊) 画像はAmazon.co.jpより。本書は、網野善彦世界入門書としてもお勧めである。網野善彦は、今更ながらに瞠目すべき歴史家だったと思う。

 まあ、建国された日を探ろうというのは、そんな銘記されるべき日が実際にあったのだとしても、有史以前の話なので、雲を摑むような話であり試みなのだろう。
 あくまで、建国された日ということではなく、いつか分からないが、過去の或る日、建国されたのだろうし、先人の労苦を今日なら今日、偲んでみるのもいいことだろう。
 
 小生、建国の日を決めるに当っての明治維新当時(の政府)のドタバタ劇を読み、さらに紀元節という言葉などから、ふと、数年前に書いた小文を思い出した。
 タイトルが思い出せない。
 確か、メールマガジンで公表したはず。その後、その小文はホームページに格納したかどうか覚えていない。思考力も弱いが、記憶力も悲しいほど自信がない。
 そこはネット(検索)の有り難味である。検索してみたら、「日本神話のその昔から、そしてその後も」という文章を載せたメルマガが浮上してきた。
 ラッキー!
 以下、発表当時のままに掲載する。今なら、多少は違う文脈を立てると思うのだが、まあ、こうした形で公表したという事実は消せないので、忸怩たる思いをかみ締めつつも、改めて読み返してみるのもいいだろう(特に本文の中にある、「神話とは勝者が過去を振り返って都合のいい物語を現在に向かって措定する虚構の上の支配装置なのだと小生は考えるのである」という意見に対しては、小生自身が今なら真っ向から反対するかも!)。

日本神話のその昔から、そしてその後も

 日本神話というとイザナギとイザナキや因幡の白兎、ヤマトタケルの数々の武勲話など、多くは古事記や日本書紀記載の説が思い浮かぶ。多少、範囲を広げても、『先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)』に蘇我氏に圧倒されてしまった「物部氏の先祖の天降り神話が記されている」とか、あとはせいぜい「『出雲国風土記』に国引き神話があるなど、記紀にみられない地方神話が記録」される程度である。
 つまりは基本的にヤマト政権に絡む神話が中心なのである。もっとも、それらだけでも豊富な内容を持つことは言うまでもない。
 が、それにしても、日本古代に存在したすべての神話が収められているわけではない。当然とはいえ、支配者中心の中央の神話に限られるわけである。収めきれなかった神話は昔話や説話みたいにして変形して語り継がれることもあったようだ。
 ところで、しかし、神話という時、それはある特定の層にとっての語り継がれるべき説話である。結果として国の財産になったとしても、由来としては限定された、そして生き残る意志を有する集団にとってのアイデンティティを示すものなのであろう。
 その中で記紀に多少は歪曲されてでも、記載されたものもあれば、洩れ落ちていったものもあるというわけである。
 が、ということは、実は洩れ零れていってしまったものこそが、実際には遥かに豊かな語られざる世界を有していたということになるだろう。つまり、伝説や昔話の形でしか残らなくても、とにかく語る面々が一定の層(明確にこれと指定できる層ではないだろうが)が、いたわけである。敗者の一群であったりするのかもしれないとしても。
 いずれにしても、最後の勝者、支配者というのは結局は一人(一つの集団)ということに収斂するわけで、神話の対象外、あるいは神話の中に憐れにも退治されてしまったオニかジャかアクマかドジンか毛むくじゃらの原始人として描かれ、あるいは思い浮かべられる有象無象の集団(支配者の視点からしてそう見える)こそが、実は圧倒的多数なのである。
 語られることのない、歴史に残ることの決してない、官僚の作文された歴史からは藪の中の蠢きに過ぎない人々の圧倒的な存在は、我々の想像力の中にしか存在を示しえない可能性がある。
 思うに、神話のまつろわぬ対象とされる無数の人々にとって、神話など迷惑千万な話に違いないだろう。なんといっても、血祭りにされたり、平伏された人々であっても、それは神話ではなく、厳然たる暮らしを生きていたわけで、神話など、とんでもない話なのである。
 神話とは勝者が過去を振り返って都合のいい物語を現在に向かって措定する虚構の上の支配装置なのだと小生は考えるのである。
 日本の戸籍が完全に一人も漏らすことなく記載されるようになったのは、それこそ数十年の前。つまりほんのつい最近のことだと聞いている。太平洋戦争の中で国力を余すところなく把握するため、徹底的に戸籍作りが完遂された。山の中に生きる森の住民も、最後の一人に至るまで存在を把握されたのである。ヤマト政権の最終的貫徹はその時なのかもしれない。
 敗戦で一時、建国神話は放棄されたが、昭和41年、建国記念の日が制定された。根拠など何もない。ただ、神話に基づいて制定されたのである。「日本書紀」の中の辛茜正月、神武天皇橿原宮即位の記事に拠るわけである。
 その暦(こよみ)はでは誰が日本で制定したかというと、一般的には聖徳太子(推古天皇の御世)とされている。
 つまり、西暦で言う604年に中国の元嘉暦を採用したわけです。中国の「前漢から後漢に経書の解釈に仮託した讖緯説(しんいせつ)という名の予言的な学説」が流行していました。それによると、干支の組み合わせによる60年を一元とし、「二十一元」を「一蔀(ほう)」と呼んで、大革命の起こる年とされていました。つまり、1260年に一度は大革命が起こるとされていたのです。
 計算からいくと601年が丁度、60年の区切りの年、つまり辛酉(しんゆう)の年に当りました。従って、聖徳太子は一蔀(ほう)前の、つまり601年から遡って1260年前の紀元前660年に神武天皇が即位したと計算したわけです。
 ところで紀元2600年は、西暦で言うと1940年に相当します。この年は決して辛酉の年ではないのですが、紀元暦からいくと切りのいい年であり、何かが起こらなければならない年であったわけです。起らなければならないということは、誰かが何かを起こす年ということに実際的にはなってしまいます。
 神武天皇の即位から二蔀(ほう)めに当る1860年には王政復古の熱が高まりを見せた頃でもあります。
 また、単に切りのいいということではないでしょうが、西暦2000年には、つまり紀元2660年には国旗・国家法案が成立しました。日本の中には根強く(特に三善清行以降)辛酉革命思想が息づいているようである。
 幕末に黒船の来航などに端を発して、ナショナリズムが急激に勃興した。多くは語れないが、王政復古が成り、明治天皇の親政が実現したかのようであった。日本の天皇制はある意味で明治に始まると言っていいのではないかと小生は思っている。それまで庶民の間に天皇の存在が意識されていたのかはっきりとはしないが、明治以降、強烈に天皇の存在が庶民の間に浸透されていったことだけは確かなのである。
 その新たな天皇制は瑞穂の国幻想と同調するものでもあったようである。少なくとも庶民が米を食べられるようになったのは、ほんの数十年前のことではなかろうか。また、水田が日本の国土の半分でも広まったもの、そんなに昔のことではないと最近の研究ではされている(『日本の歴史 00』網野善彦編、講談社刊)。
 そういえば明治の世に、特に陸軍で白米幻想が強烈に兵隊に叩き込まれたという。そのために脚気などで相当の被害を出しつつの蛮行であった。
 それは同時に富国強兵、中央集権、軍国主義などと一体のものであった。明治の揺籃期にあっては致し方のない選択だったのかもしれない。が、日清・日露の戦争に勝って、日本は何か勘違いをしてしまったのではないか。日本は本当に神国である、神風の吹く国であると何処か錯覚してしまったのではないか、そんな気がする。
 もう、とまらなくなってしまったのである。
 さて、今、日本は戦前の日本にもましての経済不況にある。その不況を克服できるのかどうか定かではないが、しかし、限りある財政の中で、予算の分捕り合戦が特に参院選の後に始まるだろうことは間違いない。誰が少ない予算の中で既得権を死守しえるか、生存を賭けた戦いが始まるのである。
 その中で、戦前も使われた手口が再度、使われることだけは御免被りたい。つまり御真影を盾に取り、神話で以って洗脳し、お上の言うことに盾をつくことは論外の風潮が蔓延し、結果として極一部の人間で財政の運営、国政の運営を仕切るという悪夢の再現だけは容赦願いたいのである。
 神話の時代は、もう、とっくに終わっている。というより、神話の時代にも実際の生活はあったのである。神話の形に収斂されることを拒むことで収奪され、平伏を余儀なくされていっただろうけれど、しかし、暮らしは厳然としてあったわけであり、そこに、決して神話の時代などなかったのだ。
 あるのは一人一人、あるいは一つの家族毎、あるいは一つ一つの地域、そうしたそれぞれの自由な発想と自由な交際、自由な発言と生活。大切なのは神話の創生でも再生でもなく、神話の背景の闇に群衆を衆愚として追いやるのではなく、衆知の結集なのではないか。
[引用は「NIPPONICA」より]

(本稿は、「01/07/21」付けのメールマガジンにて公表していた雑文である。ホームページか何処かに、後日、転載したはずだが、場所が分からない! なので、本ブログに掲載する。
 古い記事に脚光を浴びさせる。これを旧稿を温める、という?!

 文中、「その中で記紀に多少は歪曲されてでも、記載されたものもあれば、洩れ落ちていったものもあるというわけである」などと書いているが、つい先日、「大化の改新」について、NHKで特集が組まれていた。「NHKスペシャル「大化改新 隠された真相~飛鳥発掘調査報告~」」なる題名。
 内容は、「645年に起きた古代史最大の事件「大化改新」。正史『日本書紀』は、天皇を脅かした蘇我入鹿を、中大兄皇子と中臣鎌足が滅ぼし、中央集権的な国家を目指す大改革が行われたと記している。しかし、入鹿の館跡をはじめとする飛鳥での発掘成果や、『日本書紀』の最新の分析から、通説とは異なる事実が浮かび上がってきた。大国・唐の脅威に備えた蘇我入鹿の実像を描き出しながら、大化改新の隠された真相に迫る」というもの。従来、悪者とされていた(日本書紀などでは)蘇我氏が再評価されていたのが印象的……と書きつつ、小生は仕事で観ることは叶わなかった。
 NHKさんは、古代史発掘に精力的で、「古代史ドラマスペシャル「大化改新」」なんてドラマもあったっけ。DVDが出ている。
 網野善彦、そして古代史関連の記事として、「松岡正剛の千夜千冊『日本史の誕生』岡田英弘」が面白い。挙げられている参考文献のかなりを小生は既に読んでいた!)

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