« 「あの場所から」書いた | トップページ | 水鳥の戯れしごと我もけふ »

2007/02/07

何想う今日は北方領土の日

2月7日 今日は何の日~毎日が記念日~」なる頁を覗くまでもなく、今日は2月7日は「北方領土の日」であることは、ブログの記事「昨日は北方領土の日」へのアクセスが今日という日付になると増えることでも気づく。
 小生の場合、仕事柄、都内、それも都心を車で走り回るので、国道一号線の飯倉交差点周辺の警察による、日頃以上の警戒振りでも「北方領土の日」なのだと気づかされる。
 そう、今日は右翼の街宣車などがうろつく日なのである。
 暴力団の抗争事件もあって、警察も大忙しだろう。

2006_01210106210028

→ 昨年(!)1月21日の夕方に撮ったもの。今年は一度もこんな景色を見ることはない、今のところ…。

 ついでなので、昨年の2月7日には何を書いていたかというと、「白魚から歌舞伎に…」と題されていて、季語随筆というテーマの下、「白魚」についてあれこれ書き綴っていた。
 話の眼目は、「シロウオ(素魚)とシラウオ(白魚)」の混同であり異同だった。
 ここから何故に歌舞伎の話題へ飛んでいったのかは、歌舞伎好きの方なら、すぐに察せられることだろう。

 それより、そのブログ日記には、「外を覗いたら東京は雪模様」とある。
 記憶では、この日記は6日の夜半前後に書き始め、書き終えたのは丑三つ時も近づく2時頃だったはず。
 書く前に、ネタに困ったときなど、苦し紛れに外の景色を眺めたりするのは、小生にはよくあることなのだ。
 で、チラッと外を眺めたら雪模様だったというわけである。
 あるいは電気ストーブの暖房だけでは体が冷えていたのだろう、雪のちらついている予感などあったのかもしれない。

 ちなみに、今年は暖冬で、電気ストーブは強弱が使い分けられるのだが、今年の冬に限っては、一度も強にまでツマミを回したことがない、その必要も感じなかった。
 尤も、昨年の冬だって、夜、寝る際には暖房を消すのは当然として、ジャージーは着るものの、ベッドでは毛布を被るだけ。
 数年前に羽毛布団が二十年以上の酷使に耐えかねてだろうか、中身が食み出し、使用に耐えなくなって以来、夏も冬も毛布一枚で就寝と相成るのが習いとなっているのである。
 神経同様、あるいは寒さに鈍感になっている?

 このところ、読書拾遺的な日記をあまり書いていない。

 別に読書を怠っているわけではない。前にも書いたが、仕事の日程がハードではあったが、そんなことより、『集英社ギャラリー 世界の文学 (9) フランス4』に掛かりきりなのである。
「カミユ「異邦人」サルトル「壁/水いらず」ジュネ「泥棒日記」セリーヌ「なしくずしの死」シモン「ル・パラス」ロブ・グリエ「ジン」などの諸作品が収まっている」のだが、カミユ、サルトルときて、今日辺り、ジュネの「泥棒日記」を読了する見込み。

 カミユやサルトルも久しぶりということもあって懐かしさもあり新鮮だったのだが、ジュネの小説は学生時代とは比べ物にならないほど衝撃を受けている。若い頃は、やや敬遠気味というか警戒気味、腰が引けた状態で読んでいたのではと思えてくる。
 ジュネを堪能できるようになったって、喜んでいいのやら分からないが、とにかく硬質な詩情に溢れていて、この、『集英社ギャラリー 世界の文学 (9) フランス4』を読了したら、ジュネのほかの作品を読むか、それとも、サルトルの「聖ジュネ」を読み直してみるか、今からもう迷い始めている。

46220450872_1

← 『オーランドー ある伝記』(川本静子/訳、ヴァージニア・ウルフ コレクション、みすず書房刊)

 また、先週末、ローワン・フーパー著『ヒトは今も進化している―最新生物学でたどる「人間の一生」 』(調所 あきら訳、新潮社)を読了。
 さらに、一昨日、『オーランドー ある伝記』(川本静子/訳、ヴァージニア・ウルフ コレクション、みすず書房刊)も読了。

 車中では、文庫か新書ということで、今は、阿部謹也(あべ きんや)氏の著作『日本人の歴史意識  ―― 「世間」という視角から ――』(岩波新書)を相変わらず、牛歩ながら読み続けている。日本における世間という土壌の涵養に親鸞が深く関わっていたことに、真宗王国である(あった?)富山生れの小生、興味を持った。
 が、この点は後日、時間があったら、書くかもしれない。

 読書はしても、感想文を書く時間的な余裕がなかったのは事実。まあ、創作に力を入れるという方針も今年は立てているので、尚更、感想文を綴る暇(いとま)を持てない理由にはなっている。
 ヴァージニア・ウルフというと、「意識の流れ」という文学手法を云々されるが、専門的なことは分からないが、そんな手法がどうこうより、彼女の男女の敷居を跨ぎ、時代の柵を超える自在な、あるいは、もっと言うと、彼女の心身のほうが彼女のコントロールや自制の箍(たが)を勝手に気侭に取っ払い、乗り越え、浸潤し、侵奪してしまった。ある文学的表現という形でなければ表出の術(すべ)がなかったある世界が暴虐無人な振る舞いに及んでしまっているというべきかもしれない。

 表現への衝動が専横なる仕儀に至ってしまっているのだ。
オーランドー」など、読んでいるうちに眩暈のしそうな感覚に襲われてしまった。
 意識の流れというより、意識の混濁と眩暈とが彼女の常識を圧倒し去っていると感じてしまったのである。
 幼くして、世界が彼女(の心身)を犯してしまったのだ。心と身への侵犯。
 こんなじゃ、とても、ウルフの世界に付いて、小生にまともな感想など書けるはずもない。

(最初、今日の日記の題名を「とにかくも旧態依然の弥一です」にしようかなと思ったけど、やはり、「北方領土の日」を銘記するほうが大切だからと、本文ではほとんど触れていないにも関わらず、最後になって「何想う今日は北方領土の日」に題名変更!)

|

« 「あの場所から」書いた | トップページ | 水鳥の戯れしごと我もけふ »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

文学散歩」カテゴリの記事

近代・現代史」カテゴリの記事

コメント

弥一さんは北方領土は四島一括返還支持ですか、二島先行返還支持ですか?
鈴木宗男とか影でいろいろやっているんだろうな。
「週刊朝日」の連載「日本の右翼」である右翼は東大和市の特別養護老人ホームに街宣かけてるって、お年よりも迷惑ですよ。
うちの特養ホームから近いからその特養ホームの実名僕は知っていますが。
ネットはプチ右翼というかなんとなく右翼というのが人気らしいですね、朝日新聞が読売のネット記事盗用したことなんかやつらにはいい話題なのでしょうね、盛り上がるのに

投稿: oki | 2007/02/08 13:22

右翼というと、昔、中野の新井薬師近くに住んでいたころ、近所に槙枝(日教組元委員長)が住んでおられたようで、朝方など、よく右翼どもが騒音を放っていました。警察も右翼には(暴力団にも?)優しいようで、ただ見守るばかり。やはり、警察当局と右翼って、どこかで繋がっているんだなって実感したっけ。
ドイツでもネオナチが台頭しているってのは、マスコミに話題になるけど、日本もネット右翼がうようよぞろぞろ。
一部の宗教団体の連中が教祖の教唆に忠実だったりするとか、自分の無能や実力が現実社会では発揮できない連中が、その憤懣を右翼ぶりっ子で発散している。
特に不況になると、この手合いが増えるね。
自分じゃ堂々とは何もできないんだね。
可哀想な連中です。

投稿: やいっち | 2007/02/09 07:51

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 何想う今日は北方領土の日:

« 「あの場所から」書いた | トップページ | 水鳥の戯れしごと我もけふ »