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2007/02/16

立川流つまるところは火と水と

[本日の拙稿は、冗談の分かる人でないと、一読して誤解される懸念がある。真剣に駄文を読んで欲しい!]

 今週から車中で『日本史を読む』(丸谷 才一vs山崎 正和対談、中公文庫)を読み始めている。
 自宅では内容の濃いもの本が分厚く嵩張るもの、車中ではドアポケットにすんなり入るコンパクトな本、ということで、自宅では一月以来、延々と『集英社ギャラリー 世界の文学 9』を読み続けている(今、『マノン』で中断中だが)。これが解説を含めると1200頁以上で、読了は三月一杯になるかどうか。
 車中では上掲の『日本史を読む』なのだが、これがすこぶる面白い。

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→ 『日本史を読む』(丸谷 才一vs山崎 正和対談、中公文庫)

 途切れ途切れに読むことになるので、エッセイや対談を選ぶことが多いのだが、本書、あまりに面白く、仕事柄、車を流しておかないと売り上げに繋がらないのだが、つい、何処かの駅などに車を付けてしまう。
 そう、本書を読むために。
 謳い文句は、「日本史をどのように読むのか―。三十七冊の実にユニークな本の選択、その本を出発点にして世界を視野に入れた自由な発想、歴史と文学が融合した知の世界を展開する。古代から近代に至る時代の流れを見わたし、日本史の面白さを満喫させる歴史対談」だが、本書全般に付いての感想は、「オンライン書店ビーケーワン:日本史を読む「現代日本を代表する知識/教養人の二大巨頭による対談集」」に任せておく(まだ、百頁も読んでいないし)。

 今日、この本を俎上に載せるのは、本書の感想というより、久しぶりに出会ったトピックがあったから。
 それは、「立川流 (密教) - Wikipedia」であり、「文観 - Wikipedia」という人物である。
(文観については、ここでは深入りしない。「忍の道」など参照。それにしても、つい連想するのは、道鏡だ!)

 小生がこの「真言立川流(しんごんたちかわりゅう)」なる宗教というか、得体の知れない淫祠邪教(いんしじゃきょう」(?)の存在を知ったのは、学生時代のことなのだが、どんな本を読んでのことだったか覚えていない。
 ただ、若い小生のこととて、その深い教説など右の耳から左の耳であって、要は、「理趣経は本来男性と女性の陰陽があって初めて物事が成ると説いている」とか、「選ばれた髑髏の表面に性交の際の和合水(精液と愛液の混ざった液)を幾千回も塗り、それを糊として金箔や銀箔を貼り、さらに髑髏の内部に呪符を入れ、曼荼羅を書き、肉付けし、山海の珍味を供える。しかもその行の間絶え間なく本尊の前で性交し、真言を唱えていなければならない」といった点を茫漠たる思いと衝動に駆られつつ思い浸ったのであった。

 しかも、である。「儀式に7年もの歳月がかかるのは、その過程で僧侶とその伴侶の女性が悟りを得ることがその目的」だが、そんな悟りなどより、儀式に7年……おお、なんと羨ましい儀式であることよと、もう、居ても立っても居られない、そんな(喩え方が変だが)焼けたトタン屋根で炙られている、性的衝動へ駆り立てられているという、ただただそんな切迫した自分が居るだけであった。

 また、「ここまで真剣に女性原理を考えている宗教は無い。立川流の真髄は性交によって男女が真言宗の本尊、大日如来と一体になることである。この点において、「女性は穢れた存在であり、仏にはなれない」と説いていた既存の宗派と異なる」であって、本来は治安や常識、倫理を至上とする支配層には、邪教であり邪説そのもののはずなのだが、歴史の一齣には、この思想・宗教を信念とする支配者がこの原理で政治に采配を振るおうとした時期があったのである。
 それが南北朝時代であり、関わった人物というと、後醍醐天皇であり、楠正成であり、日野俊基であり、文観ら、なのだった。
 けれど、そんな表向きのことより、支配層の一部の貴族や武士の中の貴族化した連中は、まさにこの宗教的儀式を真面目に執り行った……ことに、ひたすら妄想を逞しくさせられてしまったのである。

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← 胎蔵界での大日如来を表す梵字

 政治的支配には、こんな思想は邪魔そのもので(女性は産む機械であり、考える頭は持たず、穢れた存在だということにするのが、為政者の都合上、必要不可欠のテーゼなのである。今以て!)、「後南朝が衰退した後、立川流も徐々に衰退し、江戸時代の弾圧によって断絶。現在には伝わっていないというのが定説である」のだろうが、小生ならずとも、密かにその教えを忠実に(!)守り、且つ、実践しつづけてきた、密かに系統がつながれてきたに違いないと、根拠もなく(妄想が根拠というのなら、妄想こそが発信源!)確信されてならなかったものだった。

 真言立川流(しんごんたちかわりゅう)という密教は、大本を辿ると、空海(の真言宗)であり、淵源をさらに辿ると中国を介してのインドということになる。
 大乗仏教なら仏陀が始祖なのだろうが、真言宗や密教では、「大日如来 - Wikipedia」が遠祖というか、根源中の根源なのである。
大日如来(摩訶毘盧遮那仏、マハー・ヴァイローチャナ)の成立の起源は、アーリア人の最高神「アスラ=アフラ」、ゾロアスター教の善の最高神アフラ・マズダーと考える説がある」が、ここでは素通りする(東大寺の火祭りと拝火教…。「火と水のさきわう国」参照)。
 大事なのは、ゾロアスター教は「火」の宗教のはずだが、日本に来ると、「火と水」の宗教へと変貌したという事実。
 火と水…。焔(ほむら)。淫水。
 ここから先は(先も)、小生の手に余る。
 
 以下は、小生が五年ほど前に書き綴った妄想文であり、真剣な思いで夜鍋しつつせっせと書いたのは事実だが、真面目に受けとめられては困る。
 まあ、ここまで読むような健気な人も(物好きな人?)も少ないだろう。

 抜粋して示す:

 チンパンジーなど、お猿さんたちがHが大好きなことは知られている。こればっかりは体力の差もあり、人は全く敵わない。自慰の回数でもHの回数でも、太刀打ちなど論外である。人がマリファナや催淫剤などを使ったって、Hの量も快楽の度も、たかが知れている(という)。
 ところで、しかし、お猿さんたちと人が違うのは、Hの質であり、Hへの思い入れ(想像、妄想、etc.)であろう。
 小生は、若い頃、お猿さんの活躍ぶりを眺めながら、当時自身も若かったこともあり、何故、お猿さんはあんなに凄いのだろうと感嘆したことがある。そしてある日、閃いたのだった。
 といっても、思いついた着想というのは、極めて平凡なもので、きっと多くの方も(特に男性?)一度は想像されたビジョンなのではないかと思う。
 それは、昔、チンパンジーの中で、とてつもなく助平な奴がいて(しかも、それはカップルっだったと思う)、そいつは、チンパンジーの仲間が通常行う営為を遥かに越えたHの天才だったのだ。
 奴(奴等)は、通常のバックスタイルや正常位だけでは飽き足らず、しかも、単なるピストン運動に終始することに満足することなく、二匹が互いに性的快楽の限りを尽くしたのではなかったか。
 つまり、奴等は、ペニスと膣との摩擦だけではなく、ある日、互いの体表を愛撫することに、また、異様なる視覚から互いの体の交わる光景を眺めることに、思いもよらない快感の領野があることに気づいた(感づいた)のだ。
 すると、奴等は互いの体表を、心行くまで快楽の泉の源としてとことん追究し始めたのである。
 奴等は、性の狩人となったのだ。
 そうしてあまりに互いに体の表面の愛撫と慰撫の心地よさに溺れたため、気がついたら体毛が擦り切れてしまったのである。
 また、体位に関しても、並みのチンパンジーなど足元にも及ばない可能性を追究したのであった。バックや正常位を堪能し、横向きから斜めから逆立ちから宙返りから、正面衝突から、草原を(水辺を)駆け巡りながら、可能性の限りを追ったわけである。
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→ 司馬 遼太郎著『空海の風景』(中公文庫) 小生、司馬 遼太郎の本は少なからず読んできたが、繰り返し読んだのは本書だけ!

 彼らは寝転がってHをするだけではなく、仕事(餌を採集するなど)をしながらもHを欠かさなかった。つまり、立って片手は餌に手を伸ばしながらも、もう片方の手はしっかり相手を愛撫することを忘れなかったわけだ。Hは全身をフルに使ってやるものと性的本能が奴等をして使役していたのだ。
 気がついたら彼らの身体は、通常のチンパンジーとはまるで違う形態に変貌していた。
 まず、体毛がすっかり擦り切れ肌が露出していた。身体が四足の奴等と違って、体位の可能性の限界を尽くしえるため、特に長時間の立位でのHに耐えられる体であることを求められている中で、まさに二足歩行たる人類に既に一歩踏み出していることを知ったのである。しかも、Hへの想像力は、二足歩行となって頭蓋の成長の自由度を既に得ていた頭(脳)を爆発的に膨張させ進化させたのである。
 奴等は快楽を得た。が、孤独だったに違いない。なんといっても、そんな容貌魁偉な(裸で立ちっ放しのサル!)仲間など、圧倒的に少数だったに違いないから。しかし、奴等は断固、Hを追究するチャレンジ精神は失わなかった。というより新たに得た快楽の楽園は、孤独を癒すにはあまりある耽美の世界だったし、もう、後戻りなどできなくなっていたのだ。
 そうしたエリートは、やや寂しげに、しかしバラ色というよりピンク色の未来に希望を抱きつつ、チンパンジーの群れとは別れを告げ、新たな集団を作ったのだ。 なんといってもスケベ心と繁殖力は旺盛だったし、そうした性のエリートに追随し真似する仲間も少なからずいただろう。
 そうしてヒトは人になったのである。
(「『ヒトはいかにして人となったか』(蛇足篇)」より)


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← 「『空海の風景』を旅する」(NHK取材班編、中公文庫) 小生は未読。願わくば、NHKさんの総力を挙げて、真言立川流の歴史と、できれば現状を取材してもらいたいものである!
 えっ? 無理? そうですよね!

 二足歩行の開始については、サバンナ説から水棲説(アクア説)に引き続き、それらに負けず劣らずお笑い種の自説を紹介した。つまりは、チンパンジーの中の、天才的にH好きなサルが、性の倒錯した世界(あくまでチンパンジーの仲間からしたら異常なのである)に耽溺した結果、気がついたら裸のサルになり、且つ、あらゆる体位の可能性を試行錯誤した結果、肢体の自由度がチンパンジーたちに比して遥かに増大したのだと述べた。
 この性的快楽の世界への飛躍、性の楽園への常時接続の実現には、いかに天才的に助兵衛なサル君であろうと、相当に苦しい試練もあったはずである。まず、雄にしてみれば、通常チンパンジーの雄でもH度は満点であり、日に何十回もHが(つまり性的興奮状態、肉体的局所の屹立状態が)可能なのだし、一旦、自慰を覚えると死ぬまで局所への変質的摩擦を止めることはない。
 つまりは雄は、Hに関して瞬間的に燃え上がり、瞬間的に快感を得る約束があり、ということは、何も前戯などなくなって構わない単純な機構レベルにありがちなわけである。相手の雌が誰だって(多少は、互いに選びっこはするだろうが)構わない。
 が、ここである天才的な性的可能性の探求者たる雌は、はたと閃いたのである。ある可能性に気づいたのだ。何も局所でなくなって、快感の余地は十分にあるじゃないか、と。局所は何も局所にあるのではなく、身体中に広がっているのだと(最初は、お腹から脇腹、脇の下、太もも、背中…と、徐々に広がっていったのだろうが)。それには、瞬間的な快感の成就に逸る雄を制しなければならない。これが至難なわざであり、大きな越えるべき山場だったことは、想像に難くない。
 雄を雌の身体中への愛撫に向かわせなければならず、また、そうすることが愉しいことであると感得させなければならないのだ。性的官能の成就の直前に、自制して相方を性の沃野へと導かねばならなかったのだ。
(逸る雄を調教するという)この大きなハードルを越えるための努力に敬意を払うべきだろう。
 さて、この性の前戯と後戯の快楽の発見は、体毛の喪失と相関しているだけではない。実は、それらは、匂いや言葉の発見とも深く関わっているのだ。
 体毛の次第次第の喪失は、実は匂いの可能性の発見とも深く相関している。つまり、体毛が薄くなることで、従来は体毛にこびり付いて離れなかった強烈な不快な匂いが薄れ、それと同時に、性的刺激に満ちた匂いが天才的Hサルの脳髄を直撃しはじめたのである。

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→ 網野 善彦著『中世的世界とは何だろうか』(朝日選書) 本書に付いては、「網野善彦.中世的世界とは何だろうか.後醍醐」参照。網野 善彦によって(少なくとも小生については)日本の中世への見方が大転換した!

 裸のサルに近づくにつれ、特に雌の助兵衛なさる姫は、裸の肌から発する匂いがオスを強烈に捕らえて放さないことを発見してしまったのである。そして、魅惑的ではあるが、やや単調である土臭い汗の堆積から発する匂いよりも、微妙で変化に富む多様なる匂いの世界、体の方々から発する匂いか体臭か肌の温もりなのか見分け難い香りが、オスを引っかけるにはもってこいの道具・武器であるとしってしまったのである。
 また、雌は同時に声の魅力をも発見した。Hの際、あるいはHにオスを誘い込む際、あるいは日々の関わりと交わりの中で、声を多様に変化させることがオスを支配し、ひれ伏させるのに預かって大なることを知ったのだ。
 Hの際のアーとか、オーとか、やや原始的な叫び、咆哮と言うべき叫びが、やがてアハーンとか、ウフーンとかに音韻的変化を帯び始めたのだ。ア行などの吼え声的音から、Hを繰り返す中で、ア行にHの色合いが混ざって、ハ行の発声が可能になったのである。英語でいえば、Help Me! と、けたたましく今でも吼えるところのヘルプ行の発声が可能になったわけだ。
 この音韻的多様性の肥大傾向は、以下同様で発展していったものと考えていい。
 つまり、音韻の多様性はオスを繋ぎ止める至上の手段でもあったのだ。さまざまな音の変容が、その都度、雄をさまざまに雌の意のままに動かしめる結果となり…、雌は雄への影響力の行使の上での魔法の武器を手にしたのだ。その声が耳に残って離れないオスどもは、やがてメスへの性の奴隷と化したのである。
 さて、このようにして、Hの快楽のあくなき探求は、体位の可能性の探求に繋がり、やがて体の外見の変化に繋がり、性の快感の極致は恍惚なる天上世界への賛美と希求に繋がり、そのことが、常時立位への本能的必要に繋がっていったのだ。さらには言葉の原初の萌芽に繋がったのである。
 一言で言うと、性の快楽の追求というのは、五感の徹底した洗練に他ならないということである。それは単に肉体的快感の惑溺に止まるものではなく、折悪しく雌が雄に、あるいは雄が雌に逸れている間であってさえも、互いの絡み合いの楽園的境地を追い求めるために、想像力の発達が動機付けられもした。性も常在戦場なのであり、いつでもHを、というわけだ。先述したように、性の常時接続の達成である。
 さらに、世の諸賢、世の助兵衛族の皆さんなら分かるように、性の倒錯的想像の肥大と耽溺は、風景をも一変させたのである。一晩中の性の快感の可能性の探求の挙げ句の明け方に見る夜明けの眩しさ。陽光が黄色く変色しているではないか。
 感覚的多様性と可能性の肥大は、見るもの聞くもの匂うもの触れるものの全てを違う目で見ることを可能にしたのだ。葉っぱは単に食べるためのものではなく、隠すものとして利用可能なのだと知ったのだし、青い空は二匹で見上げれば、その青が更に鮮烈に目に映るのだったし、水も土も木々も単なる道具的次元のものから、何かもっと神々しいような、実用性を越えた新鮮な姿、生き生きと生きる喜びを賛美し鼓舞し共感しているかのように、この世のすべてが見え始めたのである。
 無数の神経網は、ありとあらゆる絡み合いと結び合いを展開していった。生き物としての生存に有用だろうが無用だろうが、そんなことはお構いなしだった。絡めるものなら、どんな部位にだって絡む。二重に三重に絡み結び合い、雁字搦めになっても、まだ絡むことをやめず、今では二進も三進もいかないほどに脳髄は肥大してしまったのである。
 そこまで肥大した頭蓋は、もはや四足という獣の格好では、頭が移動や運動の邪魔になる。邪魔な頭は、それではと上へ上へ、つまり体全体の上においやられ、気がついたら二足歩行に至っていたということなのだ。二足歩行というのは、人類のHの快楽の過剰なまでの探求の結果なのである。
 天上天下唯我独尊。その唯我とは、Hへの執念に他ならなかったのだ…。
(「ヒトはいかにして…=妄想的考察(蛇足の補足)」より)

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← 真鍋 俊照著『邪教・立川流』(ちくま学芸文庫) なんとか入手して読んでみたい!

 さて、これは妄想としては序の口である。この転記文を絵書いてから最早数年、この間、小生も少しは勉強を積み重ねてきたので、この卓抜し(過ぎてお笑い種ともなっ)た説に少なからぬ補強・変更の要を痛感している。時間があったら、改稿を試みたいものである。
 いずれにしても、真言立川流に至るには、さらにさらに精進が必要なのである!
(余談だが、類人猿で人類に一番近い存在は、チンバンジーだという。これは遺伝学的にも裏付けられているようだ。小生、思うに、この「チンパンジー」という名称、言い得て妙な名称だと思う。誰が名付けたのであろうか。小生の根拠のない憶測ということになるが、「チンバンジー」というのは、「チン」と「パンティ」を合体させた造語に違いないと、小生は確信しているのである!)

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コメント

「ハ行の発声が可能になったのである」-となると、なぜに世界で最も色っぽい声を演出する女性のフランス語からHの音が退化して消えたのか?これを考えだすと夜も眠れません。

投稿: pfaelzerwein | 2007/02/17 00:44

pfaelzerwein さん、こんな一文に目を留めていただいて恐縮です。
人類がはだかのサルとなったのは、時期も含め未だ謎のようですね。ただ、シラミの研究から、人類が衣類を身にまとい始めた時期は多少は推定されるようでもあるけど:
「「はだかの起原」…シラミから衣類の誕生を知る?」
http://atky.cocolog-nifty.com/bushou/2006/02/post_1c41.html

発声の謎も奥が深いですが、フランス語の発音の特殊性(H音の退化)も不思議。日本語でも、江戸時代など、ハ行はH音じゃなく、F音だったとか(ハヒフヘホじゃなく、ファフィフフェフォに近い←ポルトガル人が作った日本地図などの表記など)。時代を遡ると、平安時代は「パピプペポ」に近かったとか。
日本語において、割りと近年(戦後?)ワ行のヰヱヲが無くなってしまったのは何故なのか、これも不思議。きっと誰かが研究しているのでしょうが。
まあ、小生が妄説で想像しているのは、人類が言語を獲得した頃の話ですから、原言語から多用な言語へと分化した時期とはまるで別のこと。
サルの吼え声から助兵衛の意味のH音への飛躍、やがてさらに細密なコミュニケーションの必要からの言語の幾分のヴァリエーションへ。

フランス語というと、H音の退化(?)もさることながら、R音などのような鼻から抜ける音が特徴的で印象的。小生には到底真似できませんが、鼻で息を吸いながら音を出す? のどちんこを揺らすような? あの発声は、何処か気取っているような変態的な感じがあって、助兵衛っぽくもあり、好きです(でも嫌いでもあって、好悪が混じっている)。

投稿: やいっち | 2007/02/17 06:13

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