マノンなら煽られし挙句地の果ても
「2月14日 今日は何の日~毎日が記念日~」を覗くまでもなく、今日は、「聖バレンタインデー」…! じゃなく、少なくとも日本においては(且つ、クリスチャンではない方にとっては)「バレンタインデー」のほうがいいのかも。
そう、わざわざ歴史を遡って「聖バレンタインデー」の物語を思い起こす物好きな人も、いないことはないだろうけど、稀なのは確かなのだろう。
→ アベ・プレヴォ作『マノン』(石井洋二郎・石井啓子訳、新書館)
「西暦269年、兵士の自由結婚禁止政策に反対したバレンタイン司教が、時のローマ皇帝の迫害により処刑された。それから、この日がバレンタイン司教の記念日としてキリスト教の行事に加えられ、恋人たちの愛の誓いの日になった」の、その前段をチラッとは思うのもクリスチャンではないものであっても、無為とは思えない。
「女性が男性にチョコレートを贈る習慣は日本独自のもので、1958(昭和33)年にメリーチョコレートカムパニーが行った新宿・伊勢丹でのチョコレートセールが始りである」とも書いてある。
伊勢丹!
小生、「バレンタインの日」なる季語随筆紛いの雑文を書いている。
失恋の思い出など、綴ってみたりして。
その雑文の途中、以下の詞を披露している:
バレンタインデーオレの心もバレンタインデー
この、一読する限り、なんの変哲もない、無味乾燥とも思える詞の意味はさて。
それは、「バレンタインの日」を読めば分かる。
(分かっても、何の役にも立たないことだけは保証する! なんたって、バレンタインデーの前日には、「瓢箪の夢」なんて変てこな掌編を綴っていたのだし。余談ついでだが、今年も、「コノカイワレワァ~」という詞を作ったりして。)
ところで先週末から、アベ・プレヴォ作『マノン』(石井洋二郎・石井啓子訳、新書館)を読み始めている。
「恋、世界の果てまで!―信仰と快楽、二つの欲望に引き裂かれた聖職者アベ・プレヴォ。百巻以上に及ぶその著作のほとんどは忘れられ、愛の物語『マノン』だけがその名を永遠に刻み付けている。青年デ・グリュを翻弄し、破壊へと突き動かしながらも、つねに少女のように愛らしいマノン。愛の狂気に溺れる二人の物語がいま新訳で甦る」というもの。
アベ・プレヴォーで「マノン」といったら、「マノン・レスコー」ではないか。
なのに、何故に「マノン」なんだ?!
新訳だから、趣向を、それとも目先を変えるために「マノン」にしたのか?!
小生、学生時代に、確か青柳 瑞穂さんの訳で(新潮文庫だったろうか)読んだことがある。
「自分を愛した男にはさまざまな罪を重ねさせ、自らは不貞と浪費の限りを尽してもなお、汚れを知らない少女のように可憐な娼婦マノン」ということで、「娼婦マノン」の赤裸々な性の物語を読みたい、あるいは追体験したい(?!)という一心で。
なんたって、「ファム・ファタール(男たちを破滅させる女)を描いた文学作品としては最初のものといわれ、繊細な心理描写からロマン主義文学の走りともされる」というこの小説なのだ、若い初心な小生が期待に胸(と何)を膨らませて本書を手にしても不思議じゃない!
悲しいかな、当時、どんな感想を持ったのか、まるで覚えていない。
むしろ、肝心の(?)性的場面の叙述がまるでなくて失望・落胆したのではないかと思われたりする。
文体も、いかにも古風で、ドストエフスキーやモーパッサンやチェーホフやセリーヌらにイカレテイタ小生、退屈してしまったかもしれない。
しかし、悲しいのは、まさにタイトルの「マノン」である。
そう、小説の語り手(青年デ・グリュ)はともかく、語り手が引きずられ溺れていくのは、「マノン」であって「マノン・レスコー」ではないのだ。「マノン・レスコー」は、語り手が溺れる「マノン」の兄の名なのである。
彼も重要な役割を果たしはするが、所詮は脇役の一人に過ぎない。敢えて言えば、狂言での引き回し役程度には必要な人物というのがせいぜいのところだろう。
なのに、何ゆえ、小説のタイトルは「マノン・レスコー」なのだろう。
あくまで、語り手の心は「マノン」なる、欲望を我慢できない、他人の贅沢を見たなら自分も同じ贅沢を味わうのが当たり前だと思い込んでいる、その意味で純真であり純粋でもある若く美しい女に向いている。
当時、小生は、「マノン・レスコー」というタイトルに疑問を抱いた形跡はまるでない(その前に、当時の読後感をまるで覚えていないし)。
「マノン・レスコー」というと、ジャコモ・プッチーニのオペラとしても有名である。
この頁で登場人物を見ると、マノン・レスコー(ソプラノ)、マノン・レスコーの兄(バリトン) となっている。
あるいは、物語の当時、女性の名前はなかった? うーむ、事情の分からない小生、理解できない。
この小説の紹介では、往々にして、「マノン」を娼婦としている。娼婦マノン! そう呼称したほうが分かりやすいのかもしれない。
が、少なくとも、語り手の青年デ・グリュも、そのマノンも自分では娼婦だとはまるで思っていない。
マノンは計算高く、現実的であり打算的で、生活に困ったら(というより、贅沢な生活が一時でも頓挫したら)、金持ちの男に身を任す、少なくとも身を任すという口ぶりで金持ちの男の誘惑に乗る、乗ったふりを平気で装える。
そんな振る舞いを悪いとはまるで思っていない。人に指摘されたら、多少は反省の素振りを示すが、その瞬間だけである。
ひたすら自分の欲望(贅沢への志向)に忠実なだけなのである。そのために人を殺めても、人を騙しても、それは道を真っ直ぐに歩くのに障害があったから、(避けるのではなく)踏みつけにしただけ、踏み台にしていっただけなのである。
自分が犯したことで他人がどんな境涯に陥ろうと、彼女(そして彼)の眼中には入らない(犯行が露見するのではという心配・懸念の時だけ、チラッと思うが、しらばっくれてうまくいくと分かった途端、すっかり脳裏から消え去っていく。一体、何人の男が殺され、騙されていったことやら)。
← 映画「恋のマノン」(監督/ジャン・オレール、出演/カトリーヌ・ドヌーブ)
それにしても、ブランド物を漁る、漁って入手するだけならともかく、そのためには手段を選ばない、間違っても自制する、我慢するという発想だけは浮ばない、そんな若い女ということになると、現代の日本には(日本に限らないだろうが)、どれほどいるか、眩暈がしそうだ。
資本主義という煽る文化。肥大する欲望に至上の価値を見出すモンスター世界。
そして、そうした享楽的な志向を持つ女性を娼婦と呼んだら、今時の時流からは、そう呼称するほうこそが白目視されること必定だろう。
その意味で、この小説「マノン」は古典である。娼婦マノンの走りを描ききったという意味で、且つ、今では娼婦マノンは有り触れていて、小説にはならなくなってしまったという意味で。
とはいいながら、未だようやく半分を読んだばかり。これまでだけでも、若い二人は十分すぎるほど罪を重ねてきたのだけれど、これ以上、何をしでかしてくれることやら楽しみである、……じゃない、心配である。
老婆心ながら、読むのを止められないので、最後まで読むことになりそう、楽しみつつ!
古風な文体で、現代の作家なら決して採る筈のない直情径行な描写の連続。
普通なら、うんざりするはずなのに、読ませてしまうのは何故。
マノンに魅せられたから?
スピード感?
作家の魔力?
まあ、女だよね。女に引きずられるのは仕方ないしね。一生を棒に振ったって誰にも責められないし(責められたところで関係ないし)。
ここまで書いてきて、ネットで興味深い一文を発見した。粘り強い検索の賜物だ:
「モーパッサン 『マノン・レスコー』 序文」(翻訳者:足立 和彦、ホームは、「www.litterature.jp」)
多分、柳沢厚労相なら、これを待っていた、我が意を得たりと膝を打つこと間違いない。
いやはや、「モーパッサン 『マノン・レスコー』 序文」を発見しただけでも、このブログを書こうと思い立った甲斐があったというものだ。
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