ジョルジュ・ルオー…骨太の詩情溢るる絵画かも
[今日のテーマは、「ジョルジュ・ルオー」]
昨日12日は祭日(振り替え休日)で、小生にとっても休日だった。仕事柄、祭日が休みとは限らない。予め会社が組んだスケジュールで出勤の日が決まってしまう。
世間の人が休みの日に、それも日曜ならともかく、祭日に休むってのは、結構、珍しい。
なんとなく、自分までが世間並みの普通の人になれたような、妙なこそばゆさを感じる。
さて、快晴に恵まれた祭日(但し、振り替え休日なのだが)にやったこと(正確にはやったことと、やろうとして出来なかったこと)は二つある。
← 弁天池を覗いたら、中州(?)で亀の親子だろうか、日向ぼっこしていた。
一つは、念願の自転車を駆っての近隣散歩。
昨年10月末以来のことだ:
「カラスの森?!」参照。
主な目的地は、大田区は山王にある弁天池で、案外と近かったので、足を伸ばし、徳富蘇峰縁(ゆかり)の「山王草堂記念館」(蘇峰公園内にある)へも散策に向った。
「日本で最初の総合雑誌”国民の友”を発刊、続いて”国民新聞”を創刊し、ジャーナリズムの先駆者と言われる徳富蘇峰は、1924(大正13年)に大田区山王に居宅を建てて山王草堂と称し」たのだった。
弁天池は、その名前もちょっと気になっていたが、「弁天池にある小さな厳島神社」を観たかったのが動機で、ようやく念願を果たした。
これらについては、写真もタップリ撮ったので、後日、レポートを書くかもしれない。
さて、「やろうとして出来なかったこと」というのは、さるサイトの更新作業を受け持つと名乗りを上げたのだが、小生のパソコンやソフトそのほかの知識不足で、数時間も粘った挙句、果たせずに終わったというもの。
がっくりである。
→ 蘇峰公園入り口。この奥に山王草堂記念館がある。入場無料!
実は、そのショックが大きくて、本来なら今頃、昨日の月曜日の「弁天池・山王草堂記念館」自転車散策をせっせとレポートにまとめている最中なのだったが、ガックリし気力が萎えて、まあ、いつもどおりのよしなしごとを書いているというわけである(後日、果たせなかった課題は雪辱を期してはいるのだが…)。
というわけで、「2月13日 今日は何の日~毎日が記念日~」から話題を拾う。
あれこれあるが、今日はジョルジュ・ルオーの亡くなった日(Georges Rouault, 1871年5月21日 - 1958年2月13日)だといことで、彼を話題にしてみる。
小生、彼の絵が好きなので、とっくに彼を扱った記事を書いていたものだと思っていたのだが、小生の思い込みに過ぎなかったようだ。
あるいは、何処かの掲示板か、お喋りの中で彼の周辺などを書き散らした、あるいは駄弁を弄したのだろう。
もしかしたら、小生の中で、印象として、ベルナール・ビュッフェと何処かダブルところがあるからなのかもしれない、などとも思ったりする。一見すると画風はまるで違うとは、小生とても分かるのだけれど。
「ビュッフェ…剥き出しの心が見るは心なり」など参照。
← ジョルジュ・ルオー「ピエロ」(「ジョルジュ・ルオー:Georges Rouault - 翠波画廊 [作品一覧]」より)
「ジョルジュ・ルオー - Wikipedia」や「ジョルジュ・ルオー(1871‐1958)略歴」が参考になる。
「野獣派に分類される19世紀~20世紀期のフランスの画家」などと紹介されることがあるが、どうにもピンと来ない。確かに原色を使うこともあるし、荒々しいかのようなタッチではあるが、宗教性に溢れていて、むしろ、輪郭線の太さやザックリしたタッチとは裏腹に、優しみのある、静謐感の漂う、上質の詩情派と呼びたいところである。
尤も、ルオーの絵が登場した同時代の人々には、一部、評判が悪く、ルオー自身の言葉として、「批評家たちは激しく攻撃してきた。私が不健全な芸術家であり、“醜さの専門家”であり、ぞっとするようなグロテスクなものを毒々しく描く、と彼らは非難した。ポルノグラフィだと非難されたことさえある…」(「美術家の言葉ジョルジュ・ルオー」より。下記参照)などが残っている。
その時代においては、絵の醸し出す情感や世界より、表面的なタッチや画風で非難していたのだろう。
「1904年 サロン・ドートンヌに作品を出品。観衆は一連の「黒い絵」を嘲笑 」というのも、無理からぬものがあったのだろうか。
実際、「ルオー本人は「画壇」や「流派」とは一線を画し、ひたすら自己の芸術を追求した孤高の画家であった」というのだが。
まあ、「表現主義的」というくらいなら、分からなくもない。
→ 国会議事堂・参議院・中央広間のステンドグラス。国会には、「日本で最も大規模なステンドグラス」があるとか。
「ルオーは14歳の時、ステンドグラス職人イルシュに弟子入りする。後年のルオーの画風、特に黒く骨太に描かれた輪郭線には明かにステンドグラスの影響が見られる」という。この点は、ともすると彼の画を見る際には先入観になりかねないが、否めない点なのかもしれない。
(このステンドグラスというのも、我々は見慣れてきたから、こんなものかと思うかもしれない、本来は摩訶不思議な技法であり世界だと思う。ちなみに、「日本で最も大規模なステンドグラスは国会議事堂のもの」なのだとか。)
「20世紀最高の宗教画家であるジョルジュ・ルオーを記念して建てられた礼拝堂」として、「ジョルジュ・ルオー記念館(礼拝堂)」(ホームは、「清春白樺美術館」)がある。
ここの「入口の扉の上には、ルオーがエベール・ステヴァンのアトリエで制作したルオーステンドグラス「ブーケ(花束)」があ」るが、これも、ルオーの出発点を想うからの趣向なのだろうか。
ちなみに、「建築設計者は美術館と同じく谷口吉生氏」なのだとか。
← ジョルジュ・ルオー「流れる星のサーカス:眠れよい子よ」(「ジョルジュ・ルオー:Georges Rouault - 翠波画廊 [作品一覧]」より)
ルオーは、ギュスターヴ・モローに絵を学んだ。彼を師と仰いだという。
「画題としてはキリストを描いたもののほか、娼婦、道化、サーカス芸人など、社会の底辺にいる人々を描いたものが多い」という。
この点などについては、「美術家の言葉ジョルジュ・ルオー」(ホームは、「ピースフル・アートランド びそう(パルビ)」)が参考になる。
この頁には、「ルオーが主題として“娼婦”や“下級層の人々”を扱ったことの意味について…」「人物表現の奥に潜んでいる、ルオーの考えのひとつとして…」「ルオーの作品の中で繰り返し登場する<ピエロ>が意味するものとは…」「ルオーが絵画表現で目指していたものの一つを示すものとして…」「ルオーの創作態度を現すものとして…」のそれぞれについて、さまざまな文献からルオー自身の言葉を転記してくれていて、ルオーファンには有り難い。
→ ジョルジュ・ルオー「流れる星のサーカスより」(「ルオー(ジョルジュ・ルオー) 作品 <株式会社シバヤマ>」から)
この中で、下記だけは、転記させてもらう。心底、共感するものがあるからだ:
批評家たちは激しく攻撃してきた。私が不健全な芸術家であり、“醜さの専門家”であり、ぞっとするようなグロテスクなものを毒々しく描く、と彼らは非難した。ポルノグラフィだと非難されたことさえある…。でも、悪を描くこと、腐敗を、いかがわしい快楽を、つくりものの楽園を描くことは、ポルノグラフィだろうか? たしかに売春婦や娼婦たちは、私の作品の中で、聖人や士師やキリストと同じような地位を占めている。しかし現実はさまざまで、悲しく下劣なものであるのと同様に楽しくうきうきするものではないだろうか? そして汚らしい、あるいは卑しいものからでも、美は引き出せるのではないだろうか?
ネットならではと思うが、ジョルジュ・ルオーの作品は、結構、観ることができる:
「ジョルジュ・ルオー:Georges Rouault - 翠波画廊 [作品一覧]」
「ルオー(ジョルジュ・ルオー) 作品 <株式会社シバヤマ>」
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コメント
ルオーは大好きです。
東京でも出光、松下電工汐留とルオーを持っているところは多いですね。
ルオーはなぜあんなに厚塗りの絵にしたのかいつも考えます。
東京都現代美術館で回顧展が開かれましたがまたいつか大掛かりな回顧展が開かれることを楽しみにしています。
ルオーを扱った文筆家もずいぶんいますよね。
投稿: oki | 2007/02/13 12:19
蘇峰公園、入口からして立派ですねえ。
小説家が「文士」と呼ばれた優雅な時代に、
少少憧れてしまいますワ。。
投稿: 石清水ゲイリー | 2007/02/14 08:45
ルオー、人気ありますね。
ルオーの版画を売る店も、版画を所蔵している美術館も多い。
実は、一番最後に掲げた画像ですが、「ジョルジュ・ルオー「流れる星のサーカスより」という題名になっているけど、ちょっと変。
そういう指摘もあったので調べてみたが、正確な題名が分からない。
恐らく、「十字架上のキリスト」なのではなかろうか。
今の所、保留。
時間があったら、月曜日の自転車散策のレポートを書くかもしれないけど、蘇峰の書斎など、雰囲気がいい。
文士。もう、死語ですね。文士という呼称の似合う作家はいるかな。
そもそも作家という呼称も安売りされているような。
まして、文豪は遥かに遠い昔の話ですね。
まあ、気持ちだけは文士のつもりで……今から就寝です!
投稿: やいっち | 2007/02/14 08:59
失礼、徳富蘆花と間違えました。フフフ。
投稿: 石清水ゲイリー | 2007/02/14 15:23
> 失礼、徳富蘆花と間違えました。フフフ。
ソホウですか!
投稿: やいっち | 2007/02/14 15:55
ああなんと、弁天池ですって!! あの懐かしい小さな池、坂道の途中にあり、まことにこれといった変哲もなき、手入れもされていなかった池だったと記憶している。
あの坂を登って大森駅西口に出たり、坂を下って環七に出た。今、私は七十才の老人だが、環七は「谷中通り」と誰もが呼んでいた。確か通りの中央をどぶ川が流れていたのではないか。
私の小学校は馬込第二小学校だった。だから友人達は皆このあたりから学校に集まった。谷中通りにあった「富田医院」はどうなったんだろう。富田は太った男の子だった。佐藤木工の佐藤はどうしたんだろう。
大森西口へ抜けるバイパスバス通りに、速水の小鳥屋があった。
「強きを挫き、弱きを助けた」速水は私達のヒェローだった。もう誰にも会えないだろうなぁ。
小学六年生の時、岩井養護学園で一年間過ごした事があった。千葉県岩井に、この大田区の施設があって、虚弱なまた、子育てに多忙な家庭が、小学四年生から六年生の子弟を預けた。
大田区を四分割にした小学校単位で、畳の同室で寝食を共にした。
最上級生の私の後を、いつも着いてくる妹みたいな四年生の女の子がいた。可愛い!! 井上幸子と云ったが、その名前は今でも覚えています。
私の「初恋」ですよ。その彼女が「弁天池」の直ぐそばに住まっていたのです。
投稿: 中村ありがとう | 2007/03/05 17:52
中村ありがとうさん、コメント、ありがとう。
中村ありがとうさんにはこの地域は懐かしい思い出深い土地なのですね。初恋話まで!
このようなお話を戴くと、あの地域にも一層、親しみが湧きます。
この地に古くから住んでいる人をあまり知らないだけに、コメントは嬉しかったです。
>環七は「谷中通り」と誰もが呼んでいた。確か通りの中央をどぶ川が流れていたのではないか。
これは驚き。なるほど、環七も昔からあんな立派な幹線道路だったわけじゃないのは、考えてみたら当然の話。
そのうち、環七の昔について調べてみたくなりました。
宜しければ下記のレポートも御覧になっていただければと思います。写真も多いし:
「馬込文士村…あれこれと思い秘めての散歩かな」
http://atky.cocolog-nifty.com/bushou/2007/02/post_659a.html
投稿: やいっち | 2007/03/05 19:51