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2007/01/26

ヴァージニア・ウルフ……クラゲなす意識の海に漂わん

 昨日の日記でヴァージニア・ウルフ(『ある作家の日記』を巡って)を採り上げた こともあって、夕方になって久しぶりに図書館へ行った際に、彼女の本を物色してしまった。
 日記にも書いたが、実のところヴァージニア・ウルフ(Virginia (Adeline) Woolf (nee Stephen)、1882年1月25日 - 1941年3月28日)は、未だ『ある作家の日記』しか読んだことがない。彼女の本業である小説を読んでいないのだ。

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← ヴァージニア・ウルフ

(ウルフの日記に付いては、ここではもう触れないが、関心のある方は、以前にも紹介したが、「The Diary of Virginia Woolf  新訳 ヴァージニア・ウルフ 日記」なる頁を覗いてみてほしい。「作家の日記を読むことの意味はなんだろう。それが初めから公開を意図したものであればその段階で「作品」であるし、私的なものであればその作家を研究する上での「資料」だと言える。しかしまれに、発表を意図しない私的なものでありながら「作品」としての鑑賞に堪えるものがある。本書はそのような貴重な日記のひとつである」などとあって、実に興味深い。)
 図書館には、ヴァージニア・ウルフ・コレクションがあることを思い出し、当該の書架へ。

 棚には、『燈台へ』、『ダロウェイ夫人』、『壁のしみ――短編集』、『オーランドー ある伝記』があった。
ある作家の日記』も、以前、見かけたはずなのだが、見当たらない。借りられている最中ということか。

 それにしても、品切れが多い。彼女は今は人気薄なのだろうか。
 実に素晴らしい、天性の書き手、表現者だと思うのだが。上で転記させもらったように、「発表を意図しない私的なものでありながら「作品」としての鑑賞に堪えるもの」を書ける人なのだ。

 小生は迷った挙句、『オーランドー ある伝記』(川本静子/訳、ヴァージニア・ウルフ コレクション、みすず書房刊)を借り出してきた。
「主人公のオーランドーが,16世紀のイギリスに16歳の美少年として登場し、その後300年あまり生きつづけ、作品の終わりの1928年にあってもまだ36歳の若さであるばかりか、17世紀にはあろうことか「男」から「女」へと性転換しているのだ。この破天荒な粗筋から見ても、この「伝記」がいわゆる人の一生を扱った伝記と類を異にしていることが分かるだろう。」という謳い文句に、小生、呆気なく撃沈というわけである。
 この『オーランドー』を原作として映画にもなっている → 「オルランド

オーランドー」を巡っては、「オーランドーの矜持――書くこととジェンダー  佐伯順子」なる頁の評論が、ジャンヌ・ダルクや与謝野晶子も絡めて実に面白かった。

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→ 『オーランドー ある伝記』(川本静子/訳、ヴァージニア・ウルフ コレクション、みすず書房刊)

 ヴァージニア・ウルフというと、文学的な手法に関しては、「意識の流れ」の作家の一人として挙げられることが多い。その手法を駆使した彼女の作品というと、『燈台へ』なのだが、ま、これはまた先の楽しみということにしておく。

 小生が「意識の流れ」という概念に出会ったのは高校時代だった。確か二年の時、ベルグソンの本を買って(当時の中央公論社刊『世界の名著 ベルグソン』)、特に集中のベルグソンの『形而上学入門』に魅せられ、ジークムント・フロイト(同じく、『世界の名著 フロイト』)にも夢中になったのだった。
 さらに、大学生となって、ウィリアム・ジェイムズ(米国の心理学者)著の『宗教的経験の諸相』に惑溺。
 最後は、フォークナーの『響きと怒り』に轟沈されたのだった。
 でも、学生時代は、未だウルフには出会っていないはず(小生は好きにならなかった評論家に小林秀雄がいるが、彼もベルグソンを介して、あるいは影響されて「意識の流れ」的手法で文章を書いているな、という印象を受けていた)。

「意識の流れ」手法とは、「人間の精神の中に絶え間なく移ろっていく主観的な思考や感覚を、特に注釈を付けることなく記述していく文学上の手法」(イギリスの女性小説家、メイ・シンクレア)だというが、実際、思いっきりデフォルメして言うと、思いつくがままに文章を綴っていけば言い訳で、極めて安直な手法であるかのように看做される余地がないわけではないが、実際には極めて難しい。
 そこにはフロイトではないが、人間には自由気ままに、思いつくがままにと言いながら、無意識という闇の領域からの意識の世界への浸潤を固く禁忌する、思わず知らずの、しかし断固たる防衛線が物心付く過程で出来上がっている。

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←  Paul Amar(La Planète des singes (détail), 2000. coquillages peints, 137 x 70 x 22 cm. 「Collection de l'Art Brut」より)。世界には、なりきれなかったアルトーが数知れず、いる……。是非、画像を拡大してみてほしい!

 幼児の絵が、物心付くころには、描く方法を覚えると同時に、当たり障りのない、無難な絵に急激に変貌する様子を見たら、人間として生きるには、人間の社会で生き得る範囲の人間性しか通常は許されないことを明瞭に理解しえるはず。
 絵画では、例えば、ブログの「美に焦がれ醜に嵌って足掻く日々」で、ほんの片鱗を示したように、人間が「美」と感じえる世界のほんの一歩外には、広大且つ茫漠とした沃野ではあるが安易には足を踏み入れることのできない(入らないほうが無難な)世界が伸び広がっている、暗黒の巨大な口を開けて、今にも尋常な人間(の心)を呑み込まんと待ち受けていることが実感を持って分かるはずである。少なくとも予感はするだろう。

 大概は思春期を迎える頃には大人になり、健全な心の皮膚を育て上げ、十全なる免疫機構を備えてしまう。また、そうでないと一人前の大人として世の人々に伍しては生きられない。

 表現者というのは幼子の感性を持った大人だ、ということが可能なのだとしたら、自覚的方法を備えて、しかも、世界を生にダイレクトに感じ、表現するというのは、ある意味、「意識の流れ」手法に留まらず、多くの芸術的営為に共通することなのかもしれない。
 それは、絵画や音楽や文学、哲学に限らず、演劇や舞踏など、多くの表現を旨とする世界にも多少は妥当なことかもしれない。

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→ ローワン・フーパー著『ヒトは今も進化している―最新生物学でたどる「人間の一生」』(調所 あきら訳、新潮社)

 図書館では、他に車中で読む本として科学エッセイの本(ローワン・フーパー著『ヒトは今も進化している―最新生物学でたどる「人間の一生」』調所 あきら訳、新潮社)を一冊、CDも3つ借りてきた。
 CDは、リスト小品集、エンヤ集、ラヴェル(夜のガスパール)である。

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コメント

今朝、知った。

ヴァージニア・ウルフの肉声だとか。
さらに、スタインベックの肉声も。
http://news.bbc.co.uk/2/hi/7684201.stm

投稿: やいっち | 2008/10/24 09:40

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