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2007/01/07

美と醜と相身互いの深情け

[本日のテーマは、カール・ローゼンクランツの「醜の美学」論考を手掛かりに、美と醜との鬩ぎあいなど。]

 本日、ようやくトーマス・マンの『ファウストゥス博士』を読了。
 但し、本巻(『トーマス・マン全集6』(円子修平訳、新潮社))には他の作品も所収されているので、『トーマス・マン全集6』全部を読み終えるのは来週末か。
 以前、何かのブログ(書評だったか?)で、ルキノ・ビスコンティ監督の映画「ベニスに死す」のことが話題になっていた。

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← ウンベルト・エーコ著『美の歴史』(植松 靖夫【監訳】・川野 美也子【訳】、東洋書林)

 無論、映画は、トーマス・マンの小説「ベニスに死す」が原作なのだが、実は、この映画はマンの『ファウスト博士』も念頭に置かないと、映画を深く鑑賞できないとか。
 ルキノ・ビスコンティ監督の映画「ベニスに死す」を観た人は結構、いるんじゃなかろうか。どんな感想を抱かれたのだろう。図書館にあったら借り出すけど、CDしかないから、当分、見ることは叶わない。
 ちと、残念。

 ネット検索してみると、映画(DVD)「ベニスに死す」のカスタマーレビューに、さすがと思わせる評が載っていた(レビュアー: nalcano):

この映画の原作は、実はトーマス・マンの短編『ヴェニスに死す』だけではありません。同じトーマス・マンの長編『ファウスト博士』を読まないと、実はこの映画を十分に理解することはできないのです。この長編ファウスト博士の主人公は音楽家エイドリアン・レーヴェルキューンであり、芸術のために「悪魔との契約」を結びます。この契約は、娼婦ヘタエラ・エスメラルダからの梅毒の感染というかたちで実現します。結果としてレーヴェルキューンは12音音楽(シェーンベルクの音楽をモデルにしている)の創造にたどり着きます。ここまで書けば、気がつく方も多いと思います。娼婦の館を訪れるエピソード。12音音楽をめぐる音楽談義。そして何より、ヴェニスに主人公を運ぶ客船の名前がエスメラルダ号です。ちなみにトーマス・マンはレーヴェルキューンの生涯をニーチェを題材にして構築しています。梅毒、娼婦のエピソードはそこから採られています。ユダヤ人であったマーラーの音楽を使いながら、ドイツ精神の悲劇を描いた『ファウスト博士』を映画の中に描き込んだビスコンティの作家精神をこの映画から読み取るのも楽しみのひとつとなるでしょう。ぜひもうひとつの原作にも手を伸ばしてみてください。

 肝心の映画自体を見ていない小生は、ただただ感服するばかり。
「レーヴェルキューンは12音音楽(シェーンベルクの音楽をモデルにしている)の創造にたどり着きます」というのは、小説「ファウスト博士」の末尾に書いてあるから、いかな迂闊な小生でも気づくが、「トーマス・マンはレーヴェルキューンの生涯をニーチェを題材にして構築しています」というのは、これでも哲学を齧った小生なのに、すぐにピンと来なかったのは我ながら情けない。
 まあ、「ニーチェを題材にして構築してい」るにしても、そのような設定にすること自体、マンの資質を感じさせるのだが、その点は今は素通りする。
 それより、今、読んでいるウンベルト・エーコ著の『美の歴史』(植松 靖夫【監訳】・川野 美也子【訳】、東洋書林)から、直接は関係ないかもしれないが、ちょっと気になる記述(引用)を見つけたので、それを転記しておく。典拠はカール・ローゼンクランツ著の『醜の美学』「序論」からである:
人間の精神を熟知した者たちは、悪の恐怖に満ちた深淵にとびこんで行き、その夜以来、彼らをムカにやって来る恐ろしい姿を描き出した。ダンテのごとき偉大な詩人たちが、そのような姿をより一層明るみにさらけ出した。オルカーニャ、ミケランジェロ、ルーベンス、コルネリウスといった画家たちは、それらを我々の目の前に示した。そして、シュポアのような音楽家たちは、悪党がその精神の分裂を叫びうなるがごとき恐ろしい破滅の音を我々に聞かせた。地獄は単に倫理的なものや宗教的なものでhなく、美的なものでもある。我々は悪や罪に染まっているだけではなく、醜にも染まっているのだ。ピグミーから巨人のような奇形まで、無形や奇形、卑俗や残忍への恐れが無数の姿となって我々を取り囲み、地獄の悪魔が歯をむき出しにして我々を睨みつけている。
 このような美の地獄にこそ、我々はここから降りて生きたいのだ。そうするには、同時に自らを空くの地獄へ、本物の地獄へと導かねばならない。なぜなら、最も醜いものは、自然の中で我々に嫌悪を起こさせるもの―泥沼、ねじれた木々、サラマンドラ(火蜥蜴)、ヒキガエル、目をむき出しにして我々を睨む海の怪物、頑丈な厚皮動物、鼠や猿―ではない。最も醜いもの、それは不実でくだらない行動や激情に刻まれた皺、険しい目つきや犯罪にあらわれるエゴなのだ。
 相対的な概念としての醜がもうひとつの概念との比較によってのみ把握されることは容易にわかる。このもうひとつの概念とは美の概念である。醜は美が存在してのみ、存在する。美は醜の肯定的必要条件なのである。もし美が存在しなかったら、醜もまったく存在しないだろう。なぜなら、醜は美の否定としてのみ存在するからである。
 美はもともと神的聖な概念であり、その否定である醜はまさに、そのようなものとして、単なる二次的存在なのである。美は美であるから同時に醜でもありうるという意味ではなく、美の必要条件でもある限定そのものが美の反対物へと転換するのである。
 自己破壊を引き起こす美と醜のこのような密接なつながりは、醜が自らを否定する可能性の基盤でもある。醜は美の否定として存在するが、それから新たに美への反抗を解き、美との統一に回帰する。このような過程において、美は醜の叛乱を再び自らの支配下に服させる力を示す。この和解において、無限の静謐さが生まれ、それは我々のうちに微笑みと笑いを誘う。
 醜はこのような運動において、自らの混血性と利己主義から免れる。醜は自らの非力を認識し、滑稽となる。滑稽なものは常に自らのうちに、純粋で単純な理想に対する否定的衝動を含んでいる。このような否定はその瞬間、見せかけだけのものになり、無になってしまう。滑稽さにおいて肯定的な理想が認められるのは、その否定的な現れが突然姿を消すからである。

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→ ヒエロニムス・ボス画『快楽の園 地獄』。悪の世界、地獄の世界は見飽きることがない。誰でも少しは悪ぶることも安直にできる。それに比べ、善の世界、極楽の世界の退屈なこと! 描くことの難しいこと! 実現の至難なこと!

 いかにもヘーゲル派の哲学者らしい言い回し。
 けれど、美と醜との持ちつ持たれつの、ねじれ絡み合った関係を描ききるにはヘーゲルばりの弁証法的レトリックが相応しいのかもしれない。
 また、引用文中、醜は美の存在あってこそとか、醜は滑稽となるとあるが、言うまでもないが逆もまた(一層)真なり、なのは言うまでもない。
 これまでどれほど美や善が滑稽と皮肉と嘲笑の対象になってきたことか!

 それはともかく、美は常に一旦、描かれ示されると、その瞬間から古典になる。昇格されるのか棚上げなのか分からないが、人間はどんな美であっても満足ができないのが宿命らしい。
 この世は美を嘲笑うかのような醜に満ち満ちている。醜の海に美は島として浮んでいるともいえるのかもしれない(決して大陸ではない!)。
 且つ、人間は美に惹かれ美を是としながらも醜に一層、惹かれて行く。醜の海の波は美という島の海岸線を容赦なく波打っている。津波さえ折に触れ襲い来る。
 美の島で安閑としていたいと思っていても、気がついたなら足元まで醜の誘惑の手が、波がひたひたと押し寄せている。
 それどころか、人は醜の海へと漕ぎ出そうとする。もっと美をなのか、もっと醜をなのかは分からないが、海の果てには一層の快感、一層輝きに満ちた宝物が浮んでいる、埋まっている、漂っている、釣り上げられるのを待っている。
 美を一層、心に肉に完璧なものとして、不壊のものとして、感受不能なまでに眩しいものとして感じるには、既成の美では、物足りないのである。醜の波に浚われ、逆巻く波に呑み込まれ、醜という大海の真っ只中にあってさえも、身を醜と悪と病と罪とに晒して、それでもなおその果てにあるやも知れない美を肉の犠牲を対価として払って自らが体得したものでないとならない。他の誰が何と言おうと、自分が認めるわけにはいかない。
 よって、美は醜の海でのみ常に見出されるという、歴史が常に繰り返されるわけである。
 古典とは美の安置場所のことなのだろうか。美は常にその果てに見出される、永遠のロマンの対象なのだろうか。
 きっと、今後も、新たに見出される美は、世の大方の諸賢には顰蹙を買う、醜い、常識を欠いた、喧騒に満ちた、混沌たる世界として現出するのだろう。
 
 二十世紀には行っても、相対性理論、ついで<発見>された量子論が世界像を一変させた。粒子としての光、波としての光の両面が共存する。ピカソの描いた美の世界も、アインシュタインや量子論を強烈に意識していたはずだ。
 拙稿「ミラー著『アインシュタインとピカソ』」参照。
 音楽においても(シェーンベルク!)、哲学においても(ヴィトゲンシュタイン!)、美においても(ピカソ!)、世界を見る目を一変させるものが今世紀の前半に一気に噴出したのだった。
 けれど、その世界からさえも、我々は遠くへ来てしまっている。ジャン・ミッシェル・バスキアの画の何という美だろう! ヴォルスの危ういが、繊細極まる美!

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← ランブール兄弟『ベリー公のいとも豪華なる時祷書』から「地獄」。ヒエロニムス・ボス画『快楽の園 地獄』共々、エーコの著『美の歴史』に紹介されていたもの。拡大して、じっくり眺めてほしい。魅入られていく自分に気づくはずだ…。

 美の歴史とは世界観の拡幅の歴史でもある。
 だとしたら、美とは人間の醜さ、闇の世界の克服の成果・勲章のようなものなのか。
 そして、古典となった美、安心して鑑賞しえる美ではなく、心底、自分にとっての唯一の美を欲するなら、今まさに己にとって醜であり悪であり罪であり嫌悪の対象であるゴミの山へ自ら分け入ってみるしかないのだろうか。
 今日の醜は明日の美、明日の美は博物館か瀟洒なレストランの壁に飾られる美へ。
 悪も醜も魅力に満ちているのは、汲み尽されていない何かへの可能性が満ちているから?
 やはり、現状維持に甘んじてはいられない…。生きていくってことはしんどいってことかな。
 いかにも小生らしい、お粗末な結論だけど。

[ 「映画「ヴェニスに死す」」の、特にマーラーの曲に関連した興味深い話題が「Wein, Weib und Gesang 第六交響曲 第三楽章」で読めます。 (07/01/13 追記)]

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コメント

「ヴェニスに死す」はたぶん二度観ました(テレビで)。
展開の速度やリズムが私の生理とはいささか合いませんでしたが(他のヴィスコンティ作品もそう)、画面は美しいし、格調高いし、そこに適度な下賎の魅力も添えられているし……ともかく、映画の醍醐味は充分味わえました。魅力ある作品だと思います。
それに、主人公を蠱惑する美少年役のビョルン・アンドレセンは天上的に美しかったですよ。まあこんなことを書くと、弥一氏に拒否反応を起こされそうですが(笑)。
そういえば監督自身も、主役のダーク・ボガードも、同性愛者でしたね。

投稿: 石清水ゲイリー | 2007/01/08 14:05

石清水ゲイリーさん、来訪、コメント、ありがとう。
自転車で近所を散策する:
http://blog.livedoor.jp/iwashimizugary/

小生も、昨年入手した自転車でそういった楽しみを覚えつつあるところです。

「ヴェニスに死す」、テレビで二度も。一般の地上波でも放映していたのでしょうか。
綺麗な画像でじっくり観たいような作品ですね。
なんのかんの言って、マンの作品を楽しめたのだから、案外と堪能できるかも。
でも、美少年を見ても退屈するから、やはり無理なのかな。退屈はしなくても、映画の勘所を見逃してしまいそう。

投稿: やいっち | 2007/01/08 16:40

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