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2007/01/21

「ボクの金閣寺」へ

 もしかしたら、あの日からなのかもしれない。物語ることを夢見るようになったのは。
 或る日、テレビでだったろうか、金閣寺が炎上する場面を観たのだった。
 幼かった私はドラマの中の話だとは気づかなかった節がある:
ボクの金閣寺

 実体験はエッセイやレポートの形で書く。創作には可能な限り体験は持ち込まない。
 現実から得るのは切っ掛けか、せいぜい断片的な事実に過ぎない。

 これが小生の書く上での小生の姿勢である。

 書いた作品を実話だと思ってくれるのは、別に構わないけど。

 創作においては、自分でも何を書くのか、この先、どんな展開になるか分からないで書く。この道なき道がどんな世界に導いていくのか、それは冒頭から綴られていく、その言葉の連なり次第である。
 一旦、書き記されたなら、そこにはもう、虚構であっても、ある種の<現実>が生まれてしまっている。
 虚虚実実。実と虚の間(あわい)は何が決めているのだろうか。
 事実?
 けれど、人が検証し得る事実はどれほどあるのだろうか。
 まして、実際に検証される事実は現実という鵺(ぬえ)の、それこそ表皮から剥がれ落ちた、否、削ぎ落とした薄片に過ぎないのではないだろうか。
 実数と虚数。実数の世界は虚数も含めた時空のほんの極小の世界。

 でも、忘れてはならないのは、実ということの重み。その点、小生は古風な人間、黴の生えた発想に囚われている人間なのだと思う。
 日々、都内を走らせる。車と車との鎬を削りあう世界で、実空間の密度の濃さを実感している。
 その上での虚空間、複素数時空への戯れであるのだ。

 今年は週一のペースで創作(主に掌編)を書いていくつもり。三年前は年間百篇を目標に掲げ、達成はしたのだが、ちょっと重すぎた課題だったようで、その後、尾羽打ち枯らした精神状態を齎したのだった。
 その点、週一なら、無理せずにノルマを果たせるだろう。

 応援してね。

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コメント

火を点けるという行為には、
何か神秘的で劇的な昂揚(もしくはその切れ端)がありますね。
それが燐寸であろうと瓦斯焜炉であろうと。
ヒトの遠い記憶に繋がってるからでしょうかね。。

「ボクの金閣寺」、
途中で息苦しくなりつつ読了しました。
魅力的なお話だと思います。

今後の弥一氏の創作活動に期待してますよ。

投稿: 石清水ゲイリー | 2007/01/21 23:10

石清水ゲイリーさん、メッセージ、ありがとう。
「ボクの金閣寺」、火遊びがテーマで、いかにも私小説っぽい?
ま、結末が暗示に満ちているようで、続きも書けそう。
どの作品も、完結させないで、穴が空いているので、どうでも話を展開できるように書いています。
デッサンなのです。

これからも、ボチボチ、書いて行きますので、応援、よろしくお願いします。

投稿: やいっち | 2007/01/22 01:27

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