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2007/01/25

天神とウルフつなぐは弥一のみ

 今日1月25日は、「1月25日 今日は何の日~毎日が記念日~」(ブログ「今日は何の日」)によると、「左遷の日」だとか。
「901(延喜元)年、右大臣・菅原道真が醍醐天皇によって九州の大宰府に左遷された」という。

彼の才能を妬む左大臣・藤原時平は、道真を罪に陥れてやろうと策略し「道真は国家の政治を私物化している」と醍醐天皇に何度も讒言した。これにより、天皇も道真のことを逆臣と思いこむようになり、901年1月20日に菅原道真を太宰権帥に左遷、筑紫国に流罪とすることとした。
 長年住み慣れた自宅の庭に植えられていた梅が咲いているのを見て東風吹かば匂ひ送来せよ梅の花 主無しとて春な忘れそと詠み、この日、都を旅立った。その梅は菅原邸から太宰府の庭まで飛んで行ってそこに根づいたという「太宰府の飛梅」の伝説がある。

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→ 酒井美意子著『加賀百万石物語』(角川文庫)

 小生は富山生まれで、富山という土地柄もあって、天神信仰への関心は浅からぬものがある。なんといっても、今は分からないが、昔から富山は天神信仰熱が篤い地なのである。

 菅原道真は無念の思いを抱きながら、2年後の903(延喜3)年2月25日に亡くなった。
 小生は、惜しくも2月26日に生まれている。25日だったら、道真公の生まれ変わりだと(密かに!)自負しえたかもしれないのだが。

 案の定で道真公を巡っての雑文も幾つか残している:
都良香の涙川
(都良香は、「道真公が方略試を受けたときの試験官」だった人物。道真公の怨霊伝説も凄いが、道真公にすっかり陰に追いやられてしまった都良香が呑み込んだ恨みも凄まじい。)
東風吹かば
(これは定番の記事。春が近づくとアクセスが増える!)

 さらに、ホームページに所収の記事に5年前に書いた「天神様信仰と梅の花」がある。まさに富山における天神様信仰を扱うもの。
 ホームページだと埋もれがちになるので、ここに転記しておく(02/01/26に書いた文章である):

 小生の郷里、富山は、天神様信仰が古来より盛んでした。
 信仰と書くと大袈裟ですが、でも、旧家などでは座敷に天神様の掛け軸が、正月などには掛けられることが結構、今でも見られます。
 実際、小生の家でもそうです。尤も、子供の頃は何故、こんな掛け軸が仰々しく鎮座しているのか、分からないままにボンヤリ眺めているだけでした。
 恐らくは、幾度となく父からその天神様の掛け軸の由来などを説明されたと思うのですが、生来のボンクラ者で、左の耳から右の耳へ通り抜けるばかりだったようです。
 その天神様のことについて、改めて関心を持ったのは、今年、大河ドラマで放映されることが決まった「利家とまつ」の御蔭です。
 小生の家は、富山といっても富山市なのですが、県の西部である高岡市は加賀の領地でした。まさに加賀百万石の文化や歴史の香りを高岡市近辺までは、たっぷりと享受してきたのです。
 その加賀つまり、前田家は、菅原道真の末裔と自称しています。江戸時代の初期に、徳川家から、徳川家同様源氏の末裔を称するか、あるいは平家の末裔を称するかを迫られた時、前田家は、深謀遠慮だったのでしょうが、菅家の裔を選択したのです。その前は源氏を名乗ったことも平氏を名乗ったこともあったのですが。
 これは、源氏にしても平氏にしても武家の棟梁なのですが、菅原の裔を自称するということは、我が前田家は武よりも文を重視するという宣言のようなものだったのでしょう。つまり、決して徳川家には背かないという意思表示だったわけですね。
 そうはいっても、前田家はその文化重視の政策を採りながらも、いざ鎌倉の精神は決して忘れなかったようです。
 例えば、高岡の銅器にしても、戦のための武器を作る技術の研磨を何処か意図していたようですし、城などの材料に鉛を使用し、いざ、戦争となったら、鉛を鋳直して玉にすることができるようにという心構えがあったといいます。
 ところで、前田家が菅原道真の後裔を系図上、選んだのは、別の理由がありました。
 それは、前田家の祖先が、菅原道真の子孫が移り住んだという伝説の残る荒子に居住したという、これまた伝説があったことです。
 だから、菅家の後裔を自称したとしても、一応は、もっともらしくはあるわけです。
 そういうわけで、富山、特に県の西部を中心に、天神信仰が、前田家の支配と重なるようにして、広まったわけですね。
 さて、小生の生まれた富山市は、加賀藩の支藩であり、実際には、徹底して年貢などを絞られ、貧窮を極めたと聞きます。当然、文化的土壌など育つ余裕などないわけです。当然の如くして、富山市(富山の東部)は、実利一辺倒になりがちなのでした。
 この点からすると、富山の東部の人間は、加賀の地の経済や文化の繁栄を遠いものとしてみてきたわけですし、小生も、素直には前田家を(県の西部の人間ほどには)眩しくは見ることが出来ないのです。
 これは、万葉集の編者である大伴家持が、都から遠ざけられた時、数多くの歌を詠ったのが、これまた県の西部である高岡の地であることとも、重なって、一層、富山の東部の人間は西部を妬ましいような羨望の念で見ざるを得ないことに繋がってるのです。
 それでも、富山の東部のわれわれも天神様信仰に染まっているというのは、それだけ、文化に飢えていて、藁をも掴む思いで、富山市だって大きく見たら加賀の領地だったのだ(これは間違いではないのだが)、文化の遠い影響くらいはあるのだと思いたい気持ちの現れのように、小生は感じます。
 富山市など東部の人間は、文化に関しては鬱屈しているのですね。
 小生の生まれた時、学問の神様である天神様にあやかるべく、大枚をはたいて天神様の掛け軸を、専門の業者に依頼して作ってもらっていたわけです。その霊験あらたかだったかどうかは聞かないで戴くとして、このところチラホラと咲き綻びかけてきた白や桃色の梅の花を見かけると、東京に在する小生は、郷里を、そして郷土の者の屈折した心情を思い出したりするのです。
 今も郷里からはお袋の手作りである梅の漬物を送ってくれます。その梅は我が家の庭で取れたものと聞いています。だからでしょうか、酸っぱい梅を御飯と共に食べる時、一層、心に酸っぱさが沁みるのです。

 [前田氏と菅原道真については以下のサイトを参照:
武家家伝_前田(利家)氏
 前田家については、酒井美意子著『加賀百万石物語』(角川文庫)を参照。本書に付いては、拙稿に「酒井美恵子著『加賀百万石物語』を富山の人間が読む」がある。]


 今日1月25日は、ヴァージニア・ウルフの誕生日(1882年生まれ)だという。
 小生は、彼女に付いては、何年か前にヴァージニア・ウルフ著の『ある作家の日記』(神谷 美恵子訳、みすず書房)を読んだことがあるだけである。
 が、これ一冊で彼女への関心が高まってしまった。

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← ヴァージニア・ウルフ著『ある作家の日記』(神谷 美恵子訳、みすず書房)

 今は、改めて彼女(の文学)について書く余裕がないので、ある往復書簡(ネット上でのレスの遣り取り)から、この日記を読んでの感想の部分などを抜き書きしておく(典拠は「低温火傷の周辺」←懐かしい! ネット世界に分け入って間もない頃の文章だ):

 これはタクシーの中ではなく自宅においてなのですが、ヴァージニア・ウルフの「ある作家の日記」(みすず書房)をぼちぼち読んでいます。過日、書店に寄った際、めぼしい本にめぐり合えなくて、仕方なく買ったのですが、意外な発見でした。才能溢れる、けれど未だ無名のウルフが次第に売れていく中で彼女が率直に胸中を吐露していますし、作品を書く喜びや、書けない日々の憤懣など、小生も一応は小説を書くものですから、自らの心境を思い入れしながら楽しく、じっくりと読んでいます。
 日記ではないのですが、もう二十年ほど前ですがピアニストのルビンシュタインの自伝や哲学者のバートランド・ラッセルの自伝は今も印象に鮮やかです。ラッセルの燃えるような知性がひしひしと感じられて一気に読めてしまいました。アウグスティヌスの「告白」やユングの自伝、結構、自伝が好きなんだなと遅まきながら思うこの頃です。[00/04/03記]

 恥ずかしながら小生もウルフは初めてだと思います。というのは遠い学生時代の濫読の中で一応は手にしたことがあるようなのですが、印象が薄いのです。ウルフは13歳の頃に発病した躁鬱病と、それに伴う自殺衝動と戦いながら、病気の兆候のない凪の間に才能に駆られるようにして書きつづけた作家です。ご主人の理解にも大いに助けられて自殺の企図もご主人によって阻まれつづけたのでしたが、最後にヒットラーの影に怯えるようにして、結局は自殺で世を去りました。日記は推薦ですよ。[00/04/09記]

 今日(4月11日)、ようやくウルフの「ある作家の日記」を読み終えました。3月の12日から読み始めたので、ちょうど一ヶ月を要したということになります。解説によると元の日記の20分の1に縮めたということなのですが、それでも日本語訳で5百頁以上あります。
 最初は一気に読み進めようと思っていたのですが、次第にゆっくり、じっくり読みたい気分に変わってきたのです。それというのも、ウルフが年を取るのに合わせるように小生も年を取る感覚を多少でも味わいたいと思ったのです。
 前回、ウルフは躁鬱病の病に悩まされ、ついには作家的に一応の成功を見つつも鬱の波に飲まれるようにして自殺して果てたと記しましたが、実は、彼女は更に別の悲劇にも見舞われていました。それは彼女が6歳の頃より義兄によって性的虐待を受けつづけていたこと、しかも、それを母親にも打ち明けることが出来ないまま、母親は世を去ってしまったことです。
 解説(本書の解説は短い割には的確で結構、参考になります)によると、彼女の母親の家系にも父親の家系にも精神的病の血があったとのこでとですが、そうした事情から察せられるように、ただでさえ感性が豊か(ということは感じやすい、感じすぎるということです)なのに、そうした性的虐待を受け続けて、立ち直ることも出来ず、尚のこと尋常でない人生を送るしかなかったというわけです。
 更に、解説によると彼女と付き合う多くの人は(彼女が気を許せる場合に限るようですが)、彼女が快活かつ明朗で、彼女のする話はとても楽しいものだったということです。このことを以って、彼女は苦しみにも関わらず、健気にも明るく振舞ったのだと考えるのは適当でないと思います。
 正に人の心のありようの奥深さだと思うのです。
 実は一昨年ですが、小生はたまたま性的虐待を受けたある女性の半生を告白形式で小説に仕立てたことがあります。それが更に偶然ですが、6歳前後に主人公である女性は叔父に性的辱めを受けたらしいのです。らしい、というのは実は、小生の小説においては彼女が思春期の頃になって不意にその幼児の頃の忌まわしい記憶が蘇るという設定で描いていて、彼女自身、自分のことなのに、そうした事実が実際にあったのかが分からないまま苦しめられ続ける形にしているということです。
 物心付くか付かないかの頃に受けた魂の底にまで達する傷は、年を経るに従って深くなるという厄介な性格があります。
 小生の作品では結末において彼女が書くことに目覚める予感を示すことで終わらせています。それは将来、機会があれば彼女のその後の人生を描きたいという若干の意思があるからですし、心の傷を癒すことの難しさを書く過程でつくづく感じ、容易に安易に救いを彼女に与えることができなかったからでもあるのです。
 ところでウルフの日記を読んだのは今日だし、解説を読んだのも今日なので、彼女( ウルフ)も6歳から23歳に至るまで母の連れ子である義兄に性的いたずらを受けつづけたことは知らなかったのです。ただ、躁鬱病と感受性の豊かな女性という認識しかなく、才能豊かな女性の作家活動の裏面を垣間見ることに関心を向けていたのです。それを一ヶ月という時間を掛けることで、ジックリと味わいたかったということです。
  というわけで、この本の面白さについては、結果的にかなり小生の個人的事情に左右されていたということになりそうです。[00/04/13記]

 このほか、今日に関係する人物は、サマセットモーム、御木本幸吉、北原白秋、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(学生時代、友人宅で何度も聴かされたっけ)、石坂洋次郎、中野重治、イリヤ・プリゴジン池波正太郎、法然、高野辰之、円谷英二……と、それぞれに単独にテーマとして取り上げてみたい人物がいる。

 さて、読み止しのジュネの「泥棒日記」、続きに取り掛かるか。
 彼の文章は実に美しい。詩情は、どこにでもありえるのであって、その詩情を感じえるか否か、表現できるかどうかはあくまでその人次第なのだということをつくづくと感じさせられる。

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