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2007/01/19

ポー世界迷路の渦に呑まれしか

 今日1月19日は、かのエドガー・アラン・ポー(Edgar Allan Poe、1809年1月19日 - 1849年10月7日)の誕生日である。
 彼に付いて今更、小生如きが語る何物もない。
 初めてポーの世界に触れたのは、一体、何時のことだったか。推理小説よりもSF小説が好きだった小生だったが、さすがにSF小説とは違うと思いつつも、推理のみに拠らない、SF嗜好の人間にも読むに堪えられる独特な幻想味溢れた世界に惹かれた。

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← 18日、都内某所の運河脇公園にて。羽田空港からの帰り。

 活字の大きな、平仮名も振ってある本を近所の貸し本屋さんで借りてきたのではなかったか。
 いずれにしても、ポーが誰かなど分からないままに、彼の世界に踏み惑っていったのだ。

 次に改めてポーの世界に読み浸ったのは、学生時代だった。高校の終わり頃から埴谷雄高に感化され始め、多少は自分が書く(書くならば)ということを意識の片隅に置きつつ、しかし、実際には創元推理文庫版の『ポオ小説全集』を買い揃え、ポーの諸作品に耽溺するばかりに終わったのである。

 小生が推理小説に必ずしも魅入られなかったのは、その推理に納得できたためしがないからである。
 不遜?
 違う!

 推理を説明されても理解できたためしがなかったというべきかもしれない。
 どんな明察であろうと、どんな動かし難い証拠を示されようと、それがどうしたという思いが常に湧く。
 普通以上の知能のある人なら、有能な検察官か探偵か誰かに謎解きをされたなら、その推理や証拠に瑕疵や不備や無理がない限りは、納得するのだろう。

 が、小生のように、ややというか、相当程度に愚鈍な人間だと、頭のいい奴に誤魔化されたという不透明な感じ、釈然としない感じが漠然と…否、実は色濃く残っている。
 疑惑が渦巻いている。推理の過程、あるいは結末に至る過程で示されたどんでん返しが、最後の最後に、そう小説が書き終わった後になっても、あるいは検察側も弁護側も納得していた場合であっても、何か、全てを覆すような事実があるのかもしれない。
 容疑者が最後に罪を告白し認め涙を流して悔恨の情を示したとしても、それがどうして真実だと断言できるのか、理解力が足りなくて、全く分からないのだ

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→ そろそろ宵闇の気配が漂い始めて…。

 要は、関係者たちが当事者の頭越しに手打ちしただけじゃないか! 
 …根拠の示しようのない、まして下されて仕舞った結論に対し、反論などできない、ただの蟠(わだかま)りに過ぎないのかもしれない。
 推理小説とは比較にならないほどの厳密さで照明される数学の問題。
 余人は(専門家は)理解可能なのだろうが、小生には中学の時点で理解は諦めた。授業中に先生の説明を聞いて、呆気に取られているばかりだったではないか。
 まして推理小説の中での証明は、展開によっては如何様にも穴を開けられるのではないのか。
 愚人というのは、こんなものなのである。
 

 いずれにしたって、愚鈍なる我には推理など、現実という混沌と豊穣の前には人間の足掻きに過ぎないと思えてしまう。
 人間の心理の探求に終わりがあるはずがない。結論がでるはずもない。
 ただ、人間の社会を維持するためには、誰かが犠牲者となり、誰かが権威を以て推理し、捜査し、誰かが犯人になり、処断・処刑され、獄門の露と消えていく必要がある。
 誰かが犯人だと決められたのなら、それは不当なのか正当なのかは別にして、運命なのだと思うしかないのか。

 死刑を待つ闇の獄という墓地に埋葬される。無実の罪。無力なものには反論など叶うはずもない。生きながらに闇の獄に埋められてしまう。早すぎる埋葬。掘り起こされることのない埋葬。焼き捨てられ見捨てられていく真実。
 ポーにしても、事情は同じなのである。
 が、読み進む分にはその叙述の有無を言わせぬ力強さに圧倒される。
 説得力の渦に呑み込まれる。
 こんな渦だったら、呑み込まれ溺れてしまっても構わないのかもしれない……。

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← 瀬音を聞きたくて渚の際へ。

 その後、少しはポー以外の推理小説も読み齧ったけれど、ポーのような世界、それも、推理やアイデアのみならず、それらを堪能できる叙述自身でもって次元の高みで現出しえる作家など、いない、ありそうにないと感じて、誰にしろ未曾有の作家の発見を期待することはやめてしまった。
 小生には分からないが、19世紀前半のアメリカの混沌にあって科学が新鮮であった時代が生み出した不世出の作家だったのだ。
 20世紀には20世紀の瞠目すべき作家がいる。いるはず。
 ただ、不勉強な自分には気づかないだけ。ボードレールが発見し、喧伝し、ポーが世界のポー足りえたように、きっと誰かが見つけ出してくれる、無精な小生は棚から牡丹餅を待つばかりである。
 まだ、見出されないのだろうか。

 ま、そんなことは慧眼の士に任せる。

 以下、ポーの諸作品から、必ずしも一番、際立つ記述というわけではないが、いかにもポーと思わせる断片を羅列してみる。
 夜、墓、ゴシック、尖塔、教会、壁、埋葬……。

 訳は全て 佐々木直次郎氏である。
 また、訳文は、「青空文庫」に拠っている。

 雲が重苦しく空に低くかかった、もの憂い、暗い、寂寞(せきばく)とした秋の日を一日じゅう、私はただ一人馬にまたがって、妙にもの淋しい地方を通りすぎて行った。そして黄昏(たそがれ)の影があたりに迫ってくるころ、ようやく憂鬱なアッシャー家の見えるところへまで来たのであった。どうしてなのかは知らない――がその建物を最初にちらと見たとたんに、堪えがたい憂愁の情が心にしみわたった。
アッシャー家の崩壊 (THE FALL OF HOUSE OF USHER)」(底本:「黒猫・黄金虫」新潮文庫、新潮社)より

 学校生活についての私のいちばん古い思い出は、霧のかかったようなあるイングランドの村にある、大きな、不格好な、エリザベス時代風の建物につながっている。その村には節瘤(ふしこぶ)だらけの大木がたくさんあって、どの家もみなひどく古風だった。実際、その森厳な古い町は、夢のような、心を鎮(しず)めてくれる場所であった。いまでも、私は、空想でそこの樹陰ふかい並木路(なみきみち)のさわやかな冷たさを感じ、そこの無数の灌木(かんぼく)のかぐわしい芳香を吸いこみ、組子細工のゴシック風の尖塔(せんとう)がそのなかに包まれて眠っているほの暗い大気の静寂をやぶって、一時間ごとにふいに陰鬱(いんうつ)な音をたてて響きわたる教会の鐘(ベル)の深い鈍い音色に、なんとも言えない喜びをもって新たにうち震えるのである。
ウィリアム・ウィルスン (WILLIAM WILSON)」(底本:「黒猫・黄金虫」新潮文庫、新潮社)より

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→ 水の音って、どうして耳に心地いいのだろう。

 下へ――なおも休みなく――なおも避けがたく下へ! それが振動するたびに私はあえぎ、もがいた。一揺れごとに痙攣的に身をちぢめた。眼はまったく意味のない絶望からくる熱心さで、振子が外の方へ、上の方へと跳びあがるあとを追った。そしてそれが落ちてくるときには発作的に閉じた、死は救いであったろうが。おお、なんという言うに言われぬ救いであろう! あの機械がほんの少しばかり下っただけであの鋭いきらきら光る斧(おの)を私の胸に突きこむのだ、ということを考えると、体じゅうの神経がみなうち震えた。この神経をうち震えさせ――体をちぢませるものは希望であった。宗教裁判所の牢獄のなかであってさえ死刑囚の耳にささやくものは希望――拷問台の上にあってさえ喜びいさむ希望――であった。
落穴と振子 (THE PIT AND THE PENDULUM)」(底本「モルグ街の殺人事件」新潮文庫、新潮社)

 次に私のやることは、かくまでの不幸の原因であったあの獣を捜すことであった。とうとう私はそれを殺してやろうと堅く決心していたからである。そのときそいつに出会うことができたなら、そいつの命はないに決っていた。が、そのずるい動物は私のさっきの怒りのはげしさにびっくりしたらしく、私がいまの気分でいるところへは姿を見せるのを控えているようであった。その厭でたまらない生きものがいなくなったために私の胸に生じた、深い、この上なく幸福な、安堵(あんど)の感じは、記述することも、想像することもできないくらいである。猫はその夜じゅう姿をあらわさなかった。――で、そのために、あの猫を家へ連れてきて以来、少なくとも一晩だけは、私はぐっすりと安らかに眠った。そうだ、魂に人殺しの重荷を負いながらも眠ったのだ!
黒猫 (THE BLACK CAT)」(底本:「黒猫・黄金虫」新潮文庫、新潮社)

だが、僕がこの茫然自失の状態から回復すると、その暗合よりももっともっと僕を驚かせた一つの確信が、心のなかにだんだんと湧(わ)き上がってきたんだ。僕は、甲虫の絵を描いたときには羊皮紙の上になんの絵もなかったことを、明瞭(めいりょう)に、確実に、思い出しはじめた。僕はこのことを完全に確かだと思うようになった。なぜなら、いちばんきれいなところを捜そうと思って、初めに一方の側を、それから裏をと、ひっくり返してみたことを、思い出したからなんだ。もし頭蓋骨がそのときそこにあったのなら、もちろん見のがすはずがない。この点に、実際、説明のできないと思われる神秘があった。が、そのときもうはや、僕の知力のいちばん奥深いところでは、昨夜の冒険であんなに見事に証明されたあの事実の概念が、蛍火(ほたるび)のように、かすかに、ひらめいたようだった。僕はすぐ立ち上がり、羊皮紙を大事にしまいこんで、一人になるまでそれ以上考えることはいっさいやめてしまった。
黄金虫 (THE GOLD-BUG)」(底本:「黒猫・黄金虫」新潮文庫、新潮社)

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← 水辺に立って対岸を、そしてその先の海を想う。

 パリで、一八――年の秋のある風の吹きすさぶ晩、暗くなって間もなく、私は友人C・オーギュスト・デュパンと一緒に、郭外(フォーブール)サン・ジェルマンのデュノー街三十三番地四階にある彼の小さな裏向きの図書室、つまり書斎で、黙想と海泡石(かいほうせき)のパイプとの二重の快楽にふけっていた。少なくとも一時間というものは、我々は深い沈黙をつづけていた。そして誰かがひょっと見たら、二人とも、部屋じゅうに濛々(もうもう)と立ちこめた煙草のけむりがくるくると渦巻くのに、すっかり心を奪われているように見えたかもしれない。しかし、私自身は、その晩の早いころ我々の話題になっていたある題目のことを、心のなかで考えていたのだった。というのは、あのモルグ街の事件と、マリー・ロジェエ殺しの怪事件のことなのである。だから、部屋の扉が開いて、我々の古馴染(ふるなじみ)のパリの警視総監G――氏が入ってきたとき、私にはそれがなにか暗合のように思われたのであった。
盗まれた手紙 (THE PURLOINED LETTER)」(底本:「モルグ街の殺人事件」新潮文庫、新潮社)

 私は眼を見張った。するとその姿の見えないものは、なおも私の手首をつかみながら、全人類の墓をぱっと眼前に開いてくれた。その一つ一つの墓からかすかな腐朽の燐光(りんこう)が出ているので、私はずっと奥の方までも眺め、そこに屍衣を着た肉体が蛆虫とともに悲しい厳かな眠りに落ちているのを見ることができた。だが、ああ! ほんとうに眠っている者は、ぜんぜん眠っていない者よりも何百万も少なかった。そして力弱くもがいている者も少しはあった。悲しげな不安が満ちていた。数えきれないほどの穴の底からは、埋められている者の着物のさらさらと鳴る陰惨な音が洩れてきた。静かに眠っているように思われる者も多くは、もと埋葬されたときのきちんとした窮屈な姿勢をいくらかでも変えているのを私は見た。じっと眺めていると、例の声がまた私に話しかけた。
早すぎる埋葬 (THE PREMATURE BURIAL)」(底本「モルグ街の殺人事件」新潮文庫、新潮社)

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→ 夜は一転して都心をうろうろ。ここは銀座。眼前には博品館

 自分のまわりを眺めたときのあの、畏懼(いく)と、恐怖と、嘆美との感じを、私は決して忘れることはありますまい。船は円周の広々とした、深さも巨大な、漏斗(じょうご)の内側の表面に、まるで魔法にでもかかったように、なかほどにかかっているように見え、その漏斗のまったくなめらかな面は、眼が眩(くら)むほどぐるぐるまわっていなかったなら、そしてまた、満月の光を反射して閃くもの凄(すご)い輝きを発していなかったら、黒檀(こくたん)とも見まがうほどでした。そして月の光は、さっきお話ししました雲のあいだの円い切れ目から、黒い水の壁に沿うて漲(みなぎ)りあふれる金色(こんじき)の輝きとなって流れ出し、ずっと下の深淵のいちばん深い奥底までも射(さ)しているのです。
メールストロムの旋渦 (A DESCENT INTO THE MAELSTROM)」(底本:「黒猫・黄金虫」新潮文庫、新潮社)

 夜そのもののために夜を溺愛(できあい)するというのが、私の友の気まぐれな好み(というよりほかに何と言えよう?)であった。そしてこの奇癖(ビザルリー)にも、他のすべての彼の癖と同様に、私はいつの間にか陥って、まったく投げやりに彼の気違いじみた気まぐれに身をまかせてしまった。漆黒の夜の女神はいつも我々と一緒に住んでいるというわけにはいかない。が、我々は彼女を模造することはできる。ほのぼのと夜が明けかかると、我々はその古い建物の重々しい鎧戸(よろいど)をみんなしめてしまい、強い香りの入った、無気味にほんのかすかな光を放つだけの蝋燭(ろうそく)を二本だけともす。その光で二人は読んだり、書いたり、話したりして――夢想にふけり、時計がほんとうの暗黒の来たことを知らせるまでそうしている。それから一緒に街へ出かけ、昼間の話を続けたり、夜更けるまで遠く歩きまわったりして、にぎやかな都会の奇(く)しき光と影とのあいだに、静かな観察が与えてくれる、無限の精神的興奮を求めるのであった。
モルグ街の殺人事件 (THE MURDERS IN THE RUE MORGUE)」(底本:「モルグ街の殺人事件」新潮文庫、新潮社)

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コメント

ポーが出てきましたね。
私も少年の頃、同じく創元推理文庫版の小説全集を愛読してましたよ。もちろん詩集も。
彼の作品には独特の雰囲気がありますね。
今手元にないので確かなことは言えませんが、何篇かの散文詩風の掌編に非常に感心したのを憶えています。
ところで弥一氏は、映画「世にも怪奇な物語」(ポーの原作三篇を三人の監督(ヴァディム、ルイ・マル、フェリーニ)が料理したオムニバス作品)をご覧になったことがありますか?
私は昔むかしにテレビで観ましたが、
フェリーニの『悪魔の首飾り』は素晴らしかった!(ルイ・マルもなかなか、ヴァディムは今一つだった記憶。。)

投稿: 石清水ゲイリー | 2007/01/19 22:40

石清水ゲイリーさん、コメント、ありがとう。
ポーが好きな人は少なからずいるのでしょうね。19日が誕生日ということで、扱ってみました。

映画「世にも怪奇な物語」は、観たことがあったような。
ところで、今日、1月20日は、奇しくもフェデリコ・フェリーニの誕生日なのですね。
偶然、それとも、承知の上でのコメントだったのでしょうか。

投稿: やいっち | 2007/01/20 01:50

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