マン世界エヒョー挿話に垣間見る
『トーマス・マン全集6』 (円子修平訳、新潮社)を読了した。
借り出したのは昨年11月の25日だったか。読み始めたのは、師走に入ってからだったろうか。
案の定、越年。しかも、一月の半ばにならんとしている!
「ファウストゥス博士」そのものは、正月七日に読了しているのだが、帰省の間は手にしていないとはいえ、ゆったりしすぎ?
でも、楽しい一ヶ月余りの読書だった。
本巻には、「ファウストゥス博士」(円子修平訳)のほかに、「自作について」として、「『ファウストゥス』について」(円子修平訳)「『ファウストゥス博士』の成立」(佐藤晃一訳)などが載っており、最後に森川俊夫氏の手になる解題が付せられている。
(マンの諸著作に付いては、「トーマス・マン(Thomas Mann)」が参考になる。史実のゲオルグ・ファウストなどについては、「ゲオルグ・ファウスト - Wikipedia」参照。)
マンの『ファウストゥス博士』の大よその内容は、ネットで幾らでも調べられるが、下記の説明(ドイツ文学に興味ある人!(2ちゃんねる) 73)が小生には分かりやすかった:
マンの『ファウストゥス博士』はニーチェの生涯をモチーフにある音楽家の 芸術活動と破滅を描いた文学作品。梅毒で発狂し滅んでいく音楽家の人生 の悪魔との契約とドイツのナチスという名の悪魔との契約の二つをかぶせて描写し ています。ある意味、ゲーテ的ファウスト像へのアンチテーゼでもあり、悪魔がい くつかの登場人物に姿を変えて登場させられています。
主人公の作曲家アドリアン・レーバーキューンが自ら作曲した『ファウストゥス博士の嘆き』という曲は、ベートーベンの『第九』への否定形であり、「音楽的」 ドイツが不遜なナチスという悪魔との契約によって、滅亡していくという運命が そこに描かれています。マンのドイツへの自己批判、その音楽観が反映されていま す。一九世紀末から二十世紀前半にかけての最大の問題作だと思います。 ある意味で文学の極北に到達した作品で、悪魔を描写することに最も成功した 作品ではないでしょうか。
『ファゥストゥス博士』では何といっても音楽論が鍵となる(かのようである)。
マンとシェーンベルクやテーオドーア・W・アドルノとの直接・間接の音楽上の議論は本作に深く関わっている。その点に付いては既に縷々語られていることだが、本巻でも「『ファウストゥス博士』の成立」(佐藤晃一訳)の章で、本作執筆当時のマンの健康事情や戦争とのかかわりも含め、結構、突っ込んで書かれている。
『ファゥストゥス博士』という作品自身、あるいはトーマス・マンに関心のある人のみならず、幅広い関心を呼ぶ、興味深い記述で必読の文だろう。
ある観点からすると、小説以上に興味深くて、『ファゥストゥス博士』を読み終えてからも、この「『ファウストゥス博士』の成立」の読了に一週間を要したのだった。要した…というか、楽しませてもらったというべきか。
「1943 年亡命先のロサンゼルスでトーマス・マンとテーオドーア・W・アドルノは近所の住人となる。トーマス・マンは『ファウストゥス博士』創作にあたり、現代音楽理論初めアドルノの深い助言を得た」のだった。
恥ずかしながら、小生は学生時代は西洋哲学科に在籍し、主任教授は啓蒙の弁証法の研究者の細谷貞雄氏であった。ホルクハイマーの著作の訳もある。
が、小生は当時はヴィトゲンシュタインに傾倒していたこともあって、ホルクハイマーやハーバマースらの啓蒙の弁証法周辺には全く興味を抱けなかった。アドルノも思い込みに過ぎなかったのだけれど、啓蒙の弁証法の一派という先入観を拭い切れなった。
最初から眼中に入らなかった。あるいは、漸く視野に入る頃には哲学プロパーの著作は敬遠気味になっていた。
アドルノというと、「アウシュビッツ以降に詩を書くことは野蛮だ」という文言と結びつけるのがせいぜい(ちなみに、アドルノの誕生日は9月11日である!)。
「20世紀に生み出された作曲家を主人公とする文学作品では重要なものがふたつ挙げられよう」として、ロマン・ロランの「ジャン・クリストフ」とマンの「ファウストゥス博士」を挙げる人がいた(「マーラー 交響曲第7番|交響曲第8番」参照):
20世紀に生み出された作曲家を主人公とする文学作品では重要なものがふたつ挙げられよう。
ひとつは、そのロマン・ロランが書き上げた「ジャン・クリストフ」。そしてもう一つが第8交響曲の初演に参加し、すっかりマーラー使徒となったトーマス・マンの「ファウストゥス博士」である。しかし、両主人公は全く異なった性格を与えられていることに注意を促したい。
ロランのクリストフは作曲家としての創造の苦しみより、彼の実人生の投影として自然と作品が生まれ出でるという感が強いし、インスピレーションが自然に湧出してくるようなところがあるのに対して、レーヴァーキューンには創造する苦痛があり、最終的にはその創造家としての苦悩のために自己崩壊を起こしてしまうのである。クリストフのモデルがベートーヴェンであるのは有名な話だが、一方のレーヴァーキューンはシェーンベルクであるらしい。しかし、この芸術家としての創造する苦しみの姿は実のところマーラーのそれであった、とも思われ(事実、マンとマーラーは面識がある)、1904年という年に、分離派芸術家と同時に知り合ったシェーンベルクとの交友関係で、直接的庇護を行ったマーラーは、レーヴァーキューンの精神的祖父でもありえたと考えられる。
「20世紀に生み出された作曲家を主人公とする文学作品では重要なものがふたつ」であり、その二つがロマン・ロランの「ジャン・クリストフ」とマンの「ファウストゥス博士」なのかどうかは議論の余地があるかもしれない。
ただ、いずれにしろ、小生は中学生のときに読んだロマン・ロランの「ジャン・クリストフ」と併せ、二つは読んだことになる。
読んだ年代があまりに懸け離れているので、読後感を比べるのは無理があるので、上掲の転記に論評を加えるのは控える。
ただ、中学生だった小生には、ベートーベンが英雄の一人であり、何処までもベートーベンへの思いを込めつつ、ジャン・クリストフに感情移入していた、そんな思い出だけが残っている(小説に感心はできかった。読解力が思いっきり足りなかったのか…)。
アドルノの音楽論やマンとアドルノやシェーンベルクとの談義についてはネットその他にお任せするとして、ここでは感銘を受けた「『ファウストゥス博士』の成立」から、ちょっと気に入った箇所の転記を試みる。
その箇所は、小説『ファウストゥス博士』の中でも、悪魔と契約してしまったレーヴァーキューンがお涙頂戴式の人間味を示す記述に関係する。
案外と印象に残る箇所でもある。前後の脈絡を欠くのはご容赦願うとして、では:
この頃自宅でシェーンベルクと会ったことを覚えているから、ここにその思い出を挿むことにするが、その際彼は完成したばかりの新しい三重奏曲のことや、この曲のなかへ密かに盛りこんだ人生体験のことを物語って、この作品はある程度まで自分の人生体験の沈殿である、と言った。彼は、自分はこの曲のなかで自分の病気や医者の手当のことを、「看護人」やその他の一切とひっくるめて表現しておいた、とにかく、この曲の演奏は極度に困難と言うよりは、ほとんど不可能であるか、もしくは三人の演奏者が巨匠級の名手であるときにだけ可能なのであるが、それでいて、音響効果が抜群のものであるから非常にやり甲斐のある曲なのだ、と確言したのである。私は、この「不可能だが、やり甲斐がある」という言葉の続け方を、レーヴァーキューンの室内楽の章に取り入れておいた。――医者のローゼンタール博士に脳膜炎の経過のことを問い合せる手紙が、十月の末に出された。エヒョー挿話の第一章を、十一月の初めに開始した私は、来る日も来る日もそれを書きつづけていった。スイスからレーヴァーキューンのもとを訪れて来たいとけないエヒョーを妖精の魅力に包んで描写し、私自身の胸中にある愛情を、もはや合理的とは言われないふしのあるものに高め、人々をしてひそかにエヒョーは神的なものである、遠くの高いところから訪れてきたものである、一種の神体顕現であると信じさせるような、馥郁たるものに高めていったのである。何よりもまず私は、この小さな使者エヒョーに不思議なものの言い方をさせたのだが、その際、孫のフリードが口にする奇妙な言葉のうちの少なくとも一つ、すなわち、「ね、ぼくが来て嬉しいでしょう」という言葉は、実際に一度フリードの口から出たものであった。この「来た」という言葉は、作中でいわばおのずから、この世のものならぬ透明さを帯びるのであるが、私の企図した、高めて変容させる行為の全体は、この世ならぬこの透明さのなかに包まれているのである。それと同時に、私は、結局のところドイツ気質を扱ったこの作品が、エヒョーという子供の口を通じてスイスのドイツ語を越え、バロックやルターのドイツ語からさらに遠く中高ドイツ語にまで後返る言語的な深化を得たのを見て、夢のような感動に襲われた。エヒョーの夕べの祈りは、どこから覚えてきたのか誰も知らないというものだが、それは、私が『フライダンクの謙譲』(十三世紀)を利用して、主にその第三句と第四句とを作り変えながら、祈りの文句になるように調節したものであるし、エヒョーが知っている近代の小詩は、私自身が子供の頃に愛好した、今では忘れられているある絵本から、記憶をたぐって引き出したものである。――私は、このときほど熱心に仕事をしたことはなかったと思う。日記には幾日にもわたって「エヒョーの章を執筆」と誌されてある。「すでに早朝から没頭」「シェイクスピアの『嵐』に読みふける」「晩にいろいろと考えごとをしたために熟睡することができない」それから、十二月の初めには、「エヒョーの生命を奪う病気にとりかかる、哀しみながら」とあって、以後は「哀しみながら」という言葉が判で押したように繰返されてゆく。この「神々しい子供」は、愛することを許されぬ男、「冷たさ」の男であるレーヴァーキューンから奪い去られることになっていた。それはずっと前から決定された運命であった。私は、悪魔の凶行の方便になる病気のことを正確に問い合わせて、その準備をととのえておいたのである。しかし、それを遂行することは、何とも堪えがたいほどつらいことになった、そして、のちにロンドンで翻訳者のロー夫人から、「どうしてあんなことがおできになりましたか」といかにも真剣な顔で尋ねられたとき、私は、アードリアーンの挙動から、彼の「それは断じてあってはならぬ」という言葉から、彼が希望を捨てることから、「撤回」ということを言う言葉から、――それらの一切から、私がどんなにつらい思いをしたか読み取ってほしい、と答えたのである。十二月半ば前のある日、日記は「XLV章予定どおりのかたちで終了」と記録したが、その翌日には、「小説の状況や、最近書きあげた部分を朗読しようというもくろみや、今後の仕事などに興奮して、早く目が覚めた」と書きこまれた、私の妻とは双生児の関係になるクラウス・プリングスハイムが、長年帝室管弦楽団の指揮者としえ活動していた東京から、先月、息子同伴でアメリカに来て、数週間来私の家の客になっていた。彼と、当時ポモナ大学の史学教授の職についた私たちの倅ゴーロとを前にして、私はある晩、この甘美で恐ろしいエヒョー挿話を朗読したが、これはおそらく、この小説の高まり得た最も詩的な挿話であって、朗読する私の感動が聞き手の人々にまざまざと伝わったのである。私たちは、霊気のようにかぐわしくて、また、いたましくも同情に堪えないエヒョー事件のことを、長い間語り合った、そして、エヒョーの年齢をすでに丈夫で通り越してはいたが、ともかくエヒョーのモデルになった子供の母親には、できるだけ長くこの話を入れないようにしなければならない、と言い合った。
[ マンの文章の、一節一節の長いこと! 日本の細切れというか途切れ途切れの息の短い文章とは大違い!
エヒョー挿話は、文学的価値が低いからか、あまり語られることはない。ま、ドストエフスキーの小説群に登場する子供らに比すると……、ということもあるが、結構、マンはドストエフスキーの小説の中の子供たちの扱いや描き方を意識しているのではと思ったりもする。
それはさておき、この「ともかくエヒョーのモデルになった子供の母親には、できるだけ長くこの話を入れないようにしなければならない、と言い合った」という話には後日談があるが、略す。是非、「『ファウストゥス博士』の成立」二目を通してもらいたい……こうした詩的な場面にマンは心が奪われつつも、同時にマンはレーヴァーキューンの第二の大作たるカンタータ『ファウストゥス博士の歎き』の叙述に目を配っていた……アドルノとカンタータについて、アーネスト・ニューマンのヴァーグナー評伝第四巻を巡って語り合っていた。ヴァーグナー、ニーチェ、ヒットラー……。話は常に輻輳するし併走する。交響曲であり協奏曲風であるのだ、中身も描く日々のマンの頭の中も。]
小生には、マンについて、下記のエッセイがある:
「マンの山のぼりつめても鍋の底」
「漱石やグールド介しマンにまで」
「美と醜と相身互いの深情け」(この記事を書いた日に「ファウストゥス博士」を読了したのだった)
「マン『魔の山』雑感」
時折、コメントを寄せてくれるpfaelzerweinさんが、本作について、「Wein, Weib und Gesang 明けぬ思惟のエロス」など幾つかの感想を書いておられます。原書を読んでの感想なので、小生には真似のできない読解も。
| 固定リンク
「書評エッセイ」カテゴリの記事
- シェイクスピアからナボコフへ(2025.01.24)
- 日本の常識は世界の非常識(2025.01.23)
- 兵どもが夢の跡(2025.01.20)
- 夜の底に沈んだ気分(2025.01.15)
- 観る気力が湧かない(2025.01.13)
「文学散歩」カテゴリの記事
- シェイクスピアからナボコフへ(2025.01.24)
- 黒blackと炎flameはみな同じ語源を持つ(2024.12.17)
- 黒blackと炎flameは同じ語源を持つ(2024.12.16)
- 吾輩は庭仕事で咆哮してる(2024.07.23)
- 徒労なる情熱それとも執念(2024.02.20)
コメント
早速読み返したいのですが、その前に音楽の追加情報を纏めておきます。
マーラーでは「亡き子を偲ぶ歌」、またその妻のアルマとグロピウスとの子供マノンの死を楽曲(ヴァイオリン協奏曲)化したアルバン・ベルクは、アドルノの音楽の師匠です。
これらは現在ならば音楽ファンは皆知識として知っているわけですが、この作品で、それらをも定着させてしまっている。同時に、自分の北ドイツへの郷愁をも自己解説して巧く後世の声を制御してしまっている。その絶妙な挿入の仕方は、モンタージュ技法の大家にして為せたものでしょうか。
三重奏曲は弦楽トリオですが、心臓発作を起こした作曲家は12音と見せかけながら六つの音の音階を三つ重ねることでノスタルジーと響き(ECHO―エヒョー)を獲得しているのです。これは、マンがここで試みた手の込んだ作文技法に相当するかもしれません。
投稿: pfaelzerwein | 2007/01/13 21:54
pfaelzerweinさん、コメント、ありがとう。
音楽ファンには常識に属することも知らない小生、ご指摘、助かります。
やはり、エヒョーという名前、マンらしい仕掛けが小説を象徴する形で使われていたのですね。
エヒョー挿話はマンの『ファウストゥス博士』のある意味、シンボル的場面。いろんな仕掛けが集約されていると同時に、一切の仕掛けを気にせずに、まさに文学作品として読み浸ることのできる本書での数少ない場面です。
しかも、エヒョーは死ぬ運命にあることも含め、象徴的だと思います。
文学は、仕掛けが時に大事であるとしても、まずは読み手が一切の前提や素養抜きに読んで堪能できることが何より大切なのだと思います。
その上で、その作品を読解するには、仕掛けを読み解く楽しみもたっぷりある、というのがあると余計に楽しい。
こういった発想法は、19世紀の文学に終わった、現代では古臭いものでしょうけど。
投稿: やいっち | 2007/01/14 12:13