漱石やグールド介しマンにまで
年初なので、何をやっても今年初になる。
例えば三日が初仕事だったし、四日は初図書館(返却と借り出し)、初スーパー買い物。
さて、「今日は何の日~毎日が記念日~」の今日「1月5日」の頁を覗いて、ちょっと過去を振り返ってみる。
哲学者の三木清や俳人の松本たかしの誕生日であるとか、いろいろある。
ちょうど彼の著作『美の歴史』(植松 靖夫【監訳】・川野 美也子【訳】、東洋書林)を読んでいるウンベルト・エーコの誕生日でもある。
→ 初仕事だった三日の夜。都内某所の公園脇にて。冬の夜には寒々しい光景なのだけど。
でも、やはり何といっても、文豪・夏目漱石の誕生日なのである。
今更、小生如きに何を語る話題もないが、触れずに済ますのも癪に障る。
漱石についての全般的なことは、「夏目漱石 - Wikipedia」に譲る。
先月来、『ファウストゥス博士』(トーマス・マン全集 6)を読んでいるところでもあるし(本編は今週中には読了しそう)、ここはなんとか、漱石からマンへ話題をつなげたい。
物色すると、恰好の話題が見つかった。
← ウンベルト・エーコ著『美の歴史』(植松 靖夫【監訳】・川野 美也子【訳】、東洋書林)
「松岡正剛の千夜千冊『グレン・グールド著作集』グレン・グールド」を覗くと、グレン・「グールドが夏目漱石の『草枕』(第583夜)にぞっこんだった」という話が出てくる。
どうやら、ネタ元は、横田庄一郎著の『「草枕」変奏曲』(朔北社)であるらしい。
以下、松岡氏自身が受け売りだと断って、関連の話題がかいつまんで紹介されている。
「グレン・グールドが『草枕』に出会ったのは35歳のときだったようだ」以下、興味のある方は、是非、松岡氏のサイトへ飛んでみてほしい。
→ 横田庄一郎著『「草枕」変奏曲』(朔北社)
若干、要点だけ示すと:
◎「オタワのコレクションには『吾輩は猫である』『三四郎』『こころ』『それから』『道草』『行人』」などがあった。
◎親しい従姉のジェシー・グレイグ「にグールドは『草枕』の全部を2晩にわたって朗読して聞かせた」。
◎1981年のカナダ・ラジオでも、グールドは『草枕』第1章を朗読した。英訳そのままではなく、自分で要約編集までしていた。
◎朗読の際の「解説では、マンの『魔の山』との共通性にふれ、「『草枕』はさまざまな要素を含んでいますが、とくに思索と行動、無関心と義理、西洋と東洋の価値観の対立、モダニズムの孕む危険を扱っています。これは二十世紀の小説の最高傑作のひとつだと、私は思います」と語ったという。
詳しくは、やはり、横田庄一郎著の『「草枕」変奏曲』(朔北社)や、横田庄一郎/編『漱石とグールド 8人の「草枕」協奏曲』(朔北社)に当るのがいいのだろう。
← 横田庄一郎/編『漱石とグールド 8人の「草枕」協奏曲』(朔北社)
転記した文中にあるように、いよいよ漱石(『草枕』)とマン(『魔の山』)とがグールドを介して繋がってきた。
それにしても、ちょっと悔しくもある。
小生は、グレン・グールドの音楽の、そして著作のファンでもある。
手元には、ティム・ペイジ編『グレン・グールド著作集1 バッハからブーレーズへ』(野水瑞穂訳、みすず書房)がある。
無論、通読しているが、漱石(草枕)には全く言及がない。索引にもそれらしき項目がない。未入手の『グレン・グールド著作集2』にも、少なくとも目次を見る限り、一切、触れられていない模様である。
残念。
ネットでもう少し、関連の話題を探ってみたい。
すると、「So-net blog試稿錯誤草枕と魔の山 グレングールドのこと」というサイトが浮上してきた。
やはり、横田庄一郎著の『「草枕」変奏曲』(朔北社)を俎上に載せている。
カナダCBSラジオでの朗読の際に(先述した文に加え)、「カナダのラジオ聴取者のために 草枕とは何か、を次のように解説した」として、以下の一文が示されている:
『草枕』が書かれたのは日露戦争のころですが、そのことは最後の場面で少し出てくるだけです。むしろ、戦争否定の気分が第一次大戦をモチーフとしたトーマスマンの『魔の山』を思い出させ、両者は相通じるものがあります。『草枕』は様々な要素を含んでいますが、とくに思索と行動、無関心と義理、西洋と東洋の価値観の対立、モダニズムのはらむ危険を扱っています。これは20世紀の小説の最高傑作のひとつだと、私は思います。
この点について、ブログのサイト主は時代背景などの説明を試みられている。
さらに、同ブログ記事では、「米国に亡命したトーマスマンはそこでも続々と作品を発表した。 とくに、シェーンベルクをモデルにして、ファウトゥトス博士、という現代音楽家を主人公とした長編を戦後発表している。グールドはこれを、どう読んだのだろうか?が気になる」とあるが、同感である。
シェーンベルク、グレン・グールド、トーマス・マン(魔の山/ファウストゥス博士)、夏目漱石(草枕)と並ぶと、ちょっと壮観だし、それ以上に容易には解きほぐせない音楽と文学との魔性の根深さを感じる。
シェーンベルクとファウスト博士については、「山野楽器 数と音楽 ~シェーンベルク、12音技法、ファウスト博士」が興味深いし参考になる。「主人公のアドリアン・レーヴェルキューンは、幼少より全ての学問、とりわけ数学に優れた才能と理解力を見せ、何でも出来てしまう自分の傲慢さを自ら罰するために大学では神学を学びますが、やがて数学の一表現ともいえる音楽の道を志します。そして自ら進んで娼婦と交わり病毒に感染(悪魔と契約)することによって作曲のための霊感を得て、最後には畢生の傑作、交響カンタータ「ファウスト博士の嘆き」を完成させます。その曲は12の音節、12の音からなる言葉、「なぜなら、私は悪しき、そして善きキリスト教徒として死ぬのだから」を基本音列としてつくられているのです。主人公アドリアンが傑作を作るために悪魔との契約によって得たもの──それが12音技法だったというわけです。はたして、12音技法は「悪魔の技法」だったのでしょうか?」などとあると、その前後を読みたくなるだろう。
(12使徒が暗喩されている?!)
→ 三日の夜半も過ぎた丑三つ時頃。
月影や裸木を透かして差し向かい
さて、漱石自身はというと、「こんな抽象的(ちゅうしょうてき)な興趣を画にしようとするのが、そもそもの間違である。人間にそう変りはないから、多くの人のうちにはきっと自分と同じ感興に触れたものがあって、この感興を何らの手段かで、永久化せんと試みたに相違ない。試みたとすればその手段は何だろう」として、真っ先に、音楽を挙げているが、すぐに「なるほど音楽はかかる時、かかる必要に逼(せま)られて生まれた自然の声であろう。楽(がく)は聴(き)くべきもの、習うべきものであると、始めて気がついたが、不幸にして、その辺の消息はまるで不案内である」と続けていて、至って音楽に対しては冷淡(せいぜい無頓着)である!
文中での、抽象的な興趣とは、「色、形、調子が出来て、自分の心が、ああここにいたなと、たちまち自己を認識するようにかかなければならない」といったもの。
(夏目漱石の『草枕』。「青空文庫」所収。)
だが、当の音楽家たるグールドは、音楽にて何事かを表現せざるを得なかったし、マンはというと、「魔の山」そして「ファウストゥス博士」において、主人公は身を業病に犯してまでも霊感を得ようとしたのだった。
(敢えてマンに一言することがあるなら、梅毒に罹患している娼婦をこそ、徹底して描くいて欲しかったという思いがあるのだが、マンにはちょっと酷な願いかもしれない…。)
漱石も満身創痍だったのは言うまでもない。音楽も詩も俳句も画もダメ。求めるもの(興趣それとも境地)は得られそうにない。
だったら文学の出番? 果たして、どんなものだろうか。
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コメント
グールドの「ゴルトベルク変奏曲」(1981年録音のほう)を流しながら睡りに着く。若い頃にそんな一時期があったことを想い出しました(曲の成り立ちを考えれば理に適っているかも)。
マンは私にとってはなかなか読めない作家の代表格。「魔の山」も「ブッデンブローク家の人びと」も随分昔に投げ出しました。「トニオ・クレーゲル」や「ヴェニスに死す」(の冒頭以外)は楽しめたけれど。きっと気質や体質に合わないんでしょうが、登攀したい山嶺の一つではありますね。
投稿: shikari | 2007/01/05 14:35
大変興味ある関連が述べられていますが、前段に続いて解いていくと、リンクの一般的な「12音による技法への認識」こそが均一等価値のヒエラルシーへの試みです。これが文字通りでないのは先日話題となった歴史的コンテクスト云々の「変調」が理由です。
そこで気がつくのは、批判されるマンの嵌らない音楽への言及は、結果として具合が良かったのではないかと。しかしこれはバロックへの言及を含めて詳しくみていかなければいけません。
それは、シェーンベルクが抜けた形の更に進んだセリエルの構造主義を、後の非構造主義的な見識から測る時なかなか嵌るのです。まさにここにエーコの仕事もあった訳ですね。
と、洒落臭い見方に、グールドの言説「思索と行動、無関心と義理、西洋と東洋の価値観の対立」は近いかもしれません。
投稿: pfaelzerwein | 2007/01/05 16:41
shikari さん、コメント、ありがとう。
小生にも、そんな時期があって、それで聴くだけじゃ物足りなくて、「グレン・グールド著作集1」なども読んだのでした。
小生も、マンは体質(嗜好)が合わない。マン好きな日本の作家の作品も(辻の小説も含め)好きになれない。
多分、やはり、偏見かもしれないけど、マンの同性愛と無縁とは思えない。大概の普通の(?)男が女を見たりする感覚がマンには皆目見当が付かないのかも。
結局、「ファウスト博士」でも、梅毒の娼婦に接することで創作力(生命力)の枯渇という危機を突破しようとするけど、実際には、主人公
(マン)には、女性に接すること自体が、<梅毒の娼婦>と言い条、嫌悪のことだったことを告白しているような気がする。
川端が屈折しつつもロリータ的愛の嗜好をもっているとか、谷崎が女を骨の髄までしゃぶりたくなるほど好きってのとは、180度、違う!
でも、「魔の山」は抜群でした。数年前に二度目の挑戦で読んだ時、マンを見直したっけ。これは読んで損はない。
これも、主人公が結核で女性に接することが禁忌されているという設定に予め周到にも為されているので、主人公が女性と肉的にどうこうという場面も少なく、大概の普通の男子が覚えるはずのマンの女性観への違和感を覚える機会が少ないってことも作品の成功に預かって大きいと思われます。
投稿: やいっち | 2007/01/06 08:00
pfaelzerwein さん、連続のコメント、ありがとうございます。
さすがの読みや指摘で、小生の読むの甘さを補ってあまりあると思えます。
コメントを読まれる方は、是非、pfaelzerwein さんのサイトへ飛んでみてほしい:
http://blog.goo.ne.jp/pfaelzerwein/e/088aea8b4e14e6c308f6a559fd12931b
http://blog.goo.ne.jp/pfaelzerwein/e/7a774936cc547a2e63b2e4fb85707749
マンがシェーンベルクの企図をどのように、あるいはどの程度に理解していたのか、小生、今の所、判断の拠り所がなくて、保留です。
無理やり、漱石(の草枕)とマンとをシェーンベルクの草枕(漱石)への傾倒と、トーマス・マンの『魔の山』での試みを連想させるものとしている点でつなげているけど、まあ、これは話の綾のようなもの。
漱石が<音楽>も含め、「草枕」では文学も宗教も一刀両断していて、マンは敗戦を前提にしているけど、漱石の場合、世の人は戦勝気分に浮かれていただけに、マンとは違って、漱石の時代への絶望感は深いように感じる。
マンは擬古典的世界を描こうと試みたけど、漱石は論外だったろうって気がする。
小生の読みからすると、漱石の文学のほうが深いって気がする。「吾輩は猫である」式にだったら<音楽>を文学の俎上に載せるかもしれないけど、そうでない限り、話の題材として音楽や絵画や俳句などを論じることがあっても、音楽も他の芸術も人生の救済(精神のみならず、痔の痛みも含めての人生の実際的苦難からの解放)には無理だという認識があるし。
そうはいっても、pfaelzerwein さんの指摘、もう少し、敷衍してほしいなって思います。小生には手の出しようのない話題ですし。
投稿: やいっち | 2007/01/06 08:23