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2007/01/04

マンの山のぼりつめても鍋の底

 小生の敬愛する作家に故・辻邦生がいる。
 といっても、彼の作品では、『西行花伝』や『夏の砦』、『海峡の霧』(新潮社刊)などを読んだだけで、決していい読者とは言えない。
『背教者ユリアヌス』も『春の戴冠』も読んでいない!
 小生が同氏に感銘を受けたのは、94年の我が失業時代のことで、その頃から彼の随筆の類いを読み漁ってきた。
 失業時代での図書館で、何冊、読んだのかも分からない。

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→ なずなさんにネットでいただいた賀状です。絵も小説も好き。小生には感想は書けないけど、しばしばこっそり(?)覗きに行ってます。絵、拡大して見てね!

 小説作品は、むしろその流れの中で読んだというべきかもしれない。
 それなりに読んできたにも関わらず、随筆を読んでも小説を読んでさえも、彼が文学する根底の動機というか彼を突き動かすものがつかみきれなかった。
 あるいは、辻の文学にある、小生の目には古典的に感じられてしまう感覚が、小生の粗漏な感性には感受しきれない、つまり感性の目に映らないのだろう。
 何故、そんな試みをするの、という戸惑いの念が小説作品を読んでいて終始、小生の胸裏に蟠ってしまう。その蟠りを圧倒し払拭しきってくれない。
 彼の<美>とは、齟齬とまでは言わないが、違和感を覚えてならない。

 しかし、「文学者掃苔禄」の「辻邦生」の項に引かれている、「嵯峨野明月記」からの一節を読むまでもなく、永遠の相と無常の相との対比に満ちた、怜悧で均斉の取れた肌理(きめ)細やかな文章は、随所に見られ、感服するのだけれど:

まさしくこの生は太虚にはじまり太虚に終る。しかしその故に太陽や青空や花々の美しさが生命をとり戻すのだ。その後、私の仕事は、いっそう単純なものとなった。私ほ太虚の豊かな死滅と蘇生のなかにあって、その宿命を完成させる以外にどんな仕事が残されていようか。私が残したささやかな仕事も、この太虚を完成させることに他ならないのだ。ともあれ、私が残した仕事は、朝日の差しこむ明るい部屋のように、幾世代の人々の心のなかに目ざめつづけてゆくであろう。私はいずれ(死)に委ねられ、藤の花のようにこぼれ落ち、消え去るであろう。私の墓のうえを落葉が覆うであろう。紙屋川を吹きあがってくる風が音をたてて過ぎてゆくであろう。墓石の文字も見えぬほどに苔むしてゆくであろう。だが、そのときもなお私は生きている。

 どの作品を読んでも一定の完成度は保証されている。破綻が少ない。文章の根底や前提に膨大な過去の文学作品の精緻な読み込みを(一種の気品を以て)感じさせる。

 にもかかわらず、小生には彼は(今の所)あくまで評論家でありエッセイストなのである。
 同時に、もっとぶっちゃけたところを書くと、理解できなかったのは、彼が文学をヨーロッパ(パリ留学)まで行って体系的に学ぶという、その姿勢だった。
 文学を体系的に学ぶ?!
 少なくとも若い頃の小生にはそんな発想はありえなかった。
 文学を学問として学ぶというのなら、それはそれでありえるのだろう。マンにゾッコンの彼だからヨーロッパでその地にあって体で感じ取るというのも分からないではない。
 でも、学者ならともかく作家がそんなことをするなんて、信じられない。
 勉強が無用とかそんなことではない。ともかく書くこと、表現すること、身に負った課題に呻吟することで目一杯のはずなのである。偉大なる作家の小説を読むことさえ、時に苦痛になる。読み始めた途端、何処かの記述を契機にか、それとも、それはただの言い訳で、とにかく自分が書くこと、自分で書くこと、想像する世界、書き付けられた断片的な文章の一節が想像の空間で命を持ち、蠢き始め、幼虫が蛹になる、その一事が彼の脳裏を破裂させんばかりにとぐろを巻き渦を巻き、観念と情念とが肥大していく。

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← クラウス・ハ-プレヒト著『トーマス・マン物語〈1〉少年時代からノーベル文学賞まで』(岡田浩平訳、三元社) 

 なのに、学ぶ!
 それにしても、辻邦生にしても内的葛藤の念に突かれていたわけで、それは小生などの貧しい想像力を超えるものがあるのだろう。それでも敢えて、それどころかだからこそ箍を自らの揺れ動き引き裂かれんとする精神に嵌める挙に出る。
「辻邦生と西欧小説」  高橋英夫」によると、「辻はトーマス・マンに深く傾倒していたわけだが、彼がそのトーマス・マンに見て取ったものは、現代作家としてはむしろ古めかしいリアリズムの描写によって全体性を浮き出させていることであり、それが象徴性を帯びはじめるといった特性であった。すなわち、このリアリズムは内的凝集力と全体への意思とによって、自然主義をこえた別次元のリアリズムに昇華したものである。」とか。
 そう、辻 邦生には、『トーマス・マン』(岩波書店)といった著作があるほどなのである。
(ちなみに、作家論の類いは基本的に嫌いなのだが、それでも、トーマス・マン論というと、クラウス・ハ-プレヒト著『トーマス・マン物語〈1〉少年時代からノーベル文学賞まで』『トーマス・マン物語〈2〉亡命時代のトーマス・マン』(岡田浩平訳、三元社)が出ているようなので、浩瀚な書ながら触手が伸びちゃう!「『トーマス・マン物語』刊行によせて」参照。)
 当然ながら、辻 邦生の評論や随筆を読むと、随所にバルザック、スタンダール、フローベール、ディケンズ、ジョイス、プルースト、リルケ、ハイデッガーらに並んで、トーマス・マンへの傾倒の深さを示す言及に出会う。

 実のところ、学生時代にマンの『魔の山』を力ずくで読んで辟易したというか、思いっきり跳ね返されてしまった小生は、爾来、マンとは縁を断っていた。小生は、ドストエフスキーやセリーヌ、カフカ(ヘッセ)が感覚的に合っている。トルストイやマンとは資質が違うのだ…。
(それにしても、ドイツの作家というと、ゲーテ、シラー、カフカ、トーマス・マン、リルケ、ヘッセと男性の作家が多いというけれど、女性の作家というと、誰がいるんだろう…。)
 けれど、辻 邦生の評論や随筆でしばしばマンが称揚されるのを読まされると、やっぱりそうなのかなと、フローベールやバルザック、リルケそして近年のトルストイの読み直しと併せ、マンへも次第に目が向くようになり、数年前、ついに二度目となるマンの『魔の山』への挑戦が成ったのだった。
 このときの感想に付いては、「マン『魔の山』雑感」参照。
(小生の中の辻 邦生については、拙稿「辻 邦生著『海峡の霧』をめぐって」を参照。)

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→ クラウス・ハ-プレヒト著『トーマス・マン物語〈2〉亡命時代のトーマス・マン』(岡田浩平訳、三元社)

 トーマス・マンやハイデッガーなどを読む際に感じるのは、これは、ドイツ(ヨーロッパ)という地を知らない、紋切り型の知識しか持ち合わせのない者の偏見に過ぎないのかもしれないが、「魔の山」というか「黒い森(シュバルツバルト)」である。
 ハイデッガー(ハイデガー)の文章など、晦渋というべきか、鬱蒼と木々の生い茂る、魔物が棲むと感じられてならない、原始の森に分け入ってしまったものの、一歩一歩の遅疑逡巡であり悔悟であり開き直りであり闇の世界への親和に満ちているように感じられる。
 どんな表現をとるにせよ、それは言葉にする以上は、森の木を一本や二本は刈り倒してしまう結果になる。森を切り拓くのである。その覚悟で哲学し思念し、十中八九は後戻りの不能が定めと相場の決まっている暗黒の世界の、魔物跳梁跋扈する世界の一個の朽ち果てる餌となるべき営みに勤しむ。

 その一部はヘルマン・ヘッセの出身地でもある「黒い森」は、今や酸性雨などの話題のほうで日本には知られることが多い。
 例えば、マンなどに感性の(僭越ながらも小生の感覚からして)古典性を感じてならないのは、現代においては、黒い森でさえも、黒くはない。人間に浸潤され刈り込まれ、ついには環境問題の一環として対処に取り組まれなければならない、その皮肉さ、ある種の哀れさである。
 闇も黒い森も黒くない。(時には無垢であるかのような装いの)人間の悪魔性は闇をも圧倒してしまっている。
 別に闇や暗黒が人間に制覇され尽くしたなどと愚かな論を述べ立てているのではない。

 むしろ、全く逆で、闇は実は深く静かに潜行したのである。何処かへ行けば黒い森があるのではなく、闇の海、黒い森は、癌巣が下手な外科手術の結果、癌細胞が全身に転移し、手の施しようがなくなったように、人間の血と肉と心と思念との虚実を含めた全ての領域に転移し尽くされてしまったのであり、闇も森も並大抵の感性や知性や想像力では見えなくなってしまったのである。
 哲学も文学もマンらの位相とはまるで違うところに迷い込んでしまっている。

 というより、心も含めた全宇宙こそが闇であり黒い森となっている。路側帯の空き缶、路上に投げ捨てられた吸殻、美麗な壁紙、ピカピカに光り輝く床、タイヤの破片、教室の隅の殴り書き、ショーウインドーの磨き残された手垢、美術館の天井に仄かに映る誰か、善と悪との境目の綻び、更に捩れたメビウスの輪のようなネクタイ、敵が見えない前進と撤退、剃られ剥かれた腋毛、マンホールの下に棲息する奴らの笑み。
 その一切が等値という世界。
 ファウストの眼前にある煮え滾る巨大な鍋にも入りきらない具が世界に満ち溢れている。
 マン文学の絶壁を攀じ登ってみても、気がついたらそこは鍋の底に過ぎない皮肉。
 自分も具の一つ?!
 だったら煮え立ってやろう!
 
 しかし、生憎と、それらの具を共に煮沸し溶かしさる手段は人は未だ手にしていないのだろう。
 マンの「ファウスト博士」を読んでいて感じる妙に苦い懐かしさは、その由来の幾分かは、人が遠く遥かに行き過ぎてしまっていることの危機感を覚えるべき神経さえも麻痺したことの、しかも煮え切らない自覚が懐旧の念にベッタリと張り付いているからなのかもしれない。

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コメント

お待ちしていました。「黒い森」表現に拘りましょう。ご指摘のように、この森が意味するものは既に何百年も原生林と正反対の所にあります。黒部渓谷などの無垢と比べようがありません。隅々にまで人の手が入り、それが歴史的な意味を呈しています。

つまり、ここで古典性と感じるものは偽古典性でないかと考えます。因みに米国の大学サイトに「マンと谷崎」と云う論文が出ていました。そしてマンを注意してみると、前の時期の象徴主義や神秘主義、官能主義その他が全て上手く下敷きとして呑み込んでいるのに気が付きます。あたかも何百年前の建物の土台や壁を使いながら現代的な快適な住居を作るような感じです。

ある意味出口が解っていると云うか、入口から出口を見ながらの彷徨と云えば、例えば、「ファウスト博士」の「ミュンヘンから郊外への遠足」などは今日同じ区間を列車等で旅行すれば、その戻ってくる「行程」が解るかもしれません!

その情景を、大気が変調している様子を、「別次元のリアリズム」と称するのかもしれませんが、これは「ヴェニスに死す」の冒頭でも、「魔の山」の雰囲気でも顕著ですね。それは、歴史文化的変調の何ものでもありません。しかし、例えば前者では、町中の今日も変わらぬ路上電車などの雑踏感として、また主人公(もしくは作者)の胸騒ぎとして、もしくはその時代の空気として、その一つの現象のみに固執する事は出来ません。

森の木は切られてもまた同じように植林さられていく訳ですが、押し入る限りは刻々と環境が変わっていっているのは認知以上の明白な体験で、その実在を受け入れる事無しには営みはありません。

「一切が等値という世界」観は、旧世界では上の理由で不可能かもしれません。それは、なぜ古典性と云うことでもあるのでしょう。これは、「ファウスト博士」等を読み解く鍵でもあって、今日の我々がこれらの古典を無視することが出来ないことと似ているではないでしょうか。

現時点では読み違いがあるかも知れませんが更に進みましょう。

投稿: pfaelzerwein | 2007/01/05 05:20

「ファウスト博士」は、今日にも読了できそう。他の作品も所収されているので、第六巻を読了するのは来週一杯になるけど。
半ばになって、ドストエフスキーばりに「あいつ」が登場する場面は、いよいよ佳境に入るかなと思ったけれど、思わせるだけに終わってしまって、拍子抜けしてしまいました。
ドストばりのドラマを求めるのは無理としても、もう少し何とかならんものかと思えて。
ファウスト博士といいつつ、精神の錬金術を企図するほど禍々しくもない。シェーンベルクが作曲家本人として自らの課題として試みたことをマンなりに虚構の中で追体験しているかのようだけど、本来、他者の創造の営為をもう一人の創造者である人(マン)が描こうとすると、説得力を持たせるため、懸命に様々な装置を布置し、さもそのようでもあるかと描くけれど、音楽を創造するときの感性と(マンの)文学を創造するメカニズムとはまるで違うわけで、読みつつ、なんだか滑稽に思えてくる瞬間がある。
音楽への拘りは仕方ないとしても、やはり主人公を音楽の創造者に設定することに無理を感じてならない(ロマン・ロランの「ジャン=クリストフ」とは言わないけれど。こっちは大衆小説というエクスキューズが許される余地もあるかもしれないが…)。
マンが頑張れば頑張るほど、(小生が僭越にも言うことじゃないけど、マンは、ワーグナー(やシェーンベルク)も含め音楽を創造する当事者としての音楽とは埒外にあることが感じられてならない。
マンは、音楽に付いては嗜好と素養がある者として鑑賞するのはともかく、やはりこの「ファウスト博士」は(作曲せんとする人物を設定した時点で既に?)小説として無理があったのかなって感じる。
「魔の山」は、まさに初めから人里離れたサナトリウムという異次元空間(架空の時空)を設定してあるので、そのようなものとして読むので、作品としての完成度は高いけど、「ファウスト博士」は疑問符が付いてしまう。

投稿: やいっち | 2007/01/06 07:45

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