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2007/01/08

印象は百聞に如くはなし

[話題に上るのは、ドビュッシーやラヴェル、サティ、ジョビン、布袋寅泰やローリー寺西の各氏。]

 昨日は営業の日。三連休の真ん中の休日というのは、営業的にはかなり厳しい日。
 それでも、運も預かって、最悪の結果にならなかったのは良しとしないといけないのだろう。
 というわけで、車中では読書と音楽三昧。
 無論、どちらも断続的に断片的に。実際には、レポートであれこれ書いてきたように、神経はお客さん探し、安全のこと、路上の綺麗な人に向っている?!

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→ 都内某所で仮眠しようとしたら、ボンネットにハトが。

 ただ、日曜日の営業で嬉しいのは、普段は聴けないラジオ番組を楽しめること。
 ジャズ番組も幾つかあるが、やはり、J-WAVE「NOEVIR SAUDE! SAUDADE..」を聴けるのが嬉しい。
 この番組では、アントニオ・カルロス・ジョビンの誕生日が1月25日ということもあり(生誕80周年)、アントニオ・カルロス・ジョビン特集を組んでくれている。
(関連情報として、「中原仁のCOTIDIANOジョビン命日に「Nosso Tom」録音完了」を紹介しておく。)
 アントニオ・カルロス・ジョビンについては、昨年秋、CD三昧を楽しんだものだった:
アントニオ・カルロス・ジョビンから西条八十の周辺

 J-WAVE「NOEVIR SAUDE! SAUDADE..」では、昨日は、「2007年リオのカーニヴァル、トップリーグ所属のエスコーラ・ヂ・サンバ13チームのパレードは、2月18日と19日」に迫っているということもあるのだろう、「二軍落ちの屈辱から復活し、昨年のカーニヴァルで18年ぶりに優勝した名門チームの今年のサンバ・エンヘード(パレードのテーマ曲)」を聴かせてくれた。

 曲名が凄い(曲名の長さも凄い!):
[METAMORFOSES : DO REINO NATURAL A CORTE POPULAR DO CARNAVAL - AS TRANSFORMACOES DA VIDA] IG.R.E.S.UNIDOS DE VILA ISABEL(メタモルフォーゼス:ド・ヘイノ・ナトゥラウ・ア・コルチ・ポプラール・ド・カルナヴァル ~ アス・トランスフォルマソンイス・ダ・ヴィダ/ヴィラ・イザベル)
CD [SAMBAS DE ENREDO 2007] (BRASIL : UNIVERSAL - GRAVASAMBA / 60250707087)

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← お風呂で汚れを落としたら、羽毛もきっと綺麗なんだろうね。暇そうな小生を慰めに来たの?

 しかし、もっと凄いのは、テーマ:
"サンバには差別はない。白人も黒人も平等だ!"

 虐待や差別、抵抗の歴史を背負っているだけに、カーニヴァルのテーマも半端じゃない。
 日本においては、楽しさ、和気藹々がメイン。若干、環境や平和も扱われるけど、民族の切迫する状況が集約されているブラジルのテーマとは天と地の違いがある。
 それだけ、日本が平和ってこと。
 でも、現実はそんなものじゃないと思うのだが、深刻なテーマに関心が持たれるようになるのは、まだ先のことなのだろう(あるいは、ありえないのか)。
 けれど、テーマにおいて工夫がないと、夏の終わりの風物詩という扱いに終わってしまうのではと危惧される。

 昨日は、 ジョアン・ジルベルトなども掛かっていて、中身がいつも以上に気合が入っていたような気がした。

 J-WAVE「NOEVIR SAUDE! SAUDADE..」で昨日、掛かった曲の詳細は、同表紙の「SONG LIST」をクリックすると、知ることが出来る。

 NHK-FMの「FMシンフォニーコンサート」で、ワーグナー作曲の「歌劇“タンホイザー”序曲」((管弦楽)東京フィルハーモニー交響楽団/(指揮)若杉  弘)を聴いた。
 学生時代のある時期、半年以上に渡って、この序曲(レコード)を毎朝……といっても、起きるのは正午前後だったが……を聴いていたのを思い出しつつ、聴いていた。小生はワーグナーの深みに嵌るほどには耽溺しなかった。どこか警戒感が働いていたような気がする。半端な性格が如実?!

 これも、仕事中ということもあり、断片的にしか聞くことができなかったが(まともに聴いても、右の耳から左の耳だが)、どうやら、少なくとも話の一部は、ドビュッシーとラヴェルとで、印象派の音楽の創始がどちらなのかで、識者の間で(ファンなどの間で?)争われているというものだった(不確実!)。
 
 ドビュッシーとラヴェルについては、それぞれ、小生には下記の拙稿がある:
青柳いづみこ、ドビュッシーを語る
ラヴェルのボレロから牧神の午後へ

 本格的に扱っているサイトというと、下記が筆頭に来る:
クロード・ドビュッシーとモーリス・ラヴェル Claude Debussy (1862-1918) et Maurice Ravel (1875-1937)

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→ ありゃ、カメラに気づいたのかな。

 ここでは、小生のうろ覚えの記憶に基づくメモよりも、ドビュッシーとラヴェルの異同を論じてくれている、青柳いづみこ氏の恰好なサイトがあるので、そちらに頼る:
青柳いづみこの執筆&インタビュー 連載「ピアニストは指先で考える」/「ムジカノーヴァ」 2003年10月号

「ドビュッシーとラヴェルは、ともにフランス近代を代表する作曲家で、ともに「印象派」のレッテルがつけられている。でも、この二人は、実際にはずいぶん違う。ドビュッシーが生まれたのは一八六二年、ラヴェルは七五年。十三歳も年が離れていたら、普通は同じジェネレーションには組み込まれないものだ。ドビュッシーは十九世紀末デカダンスにどっぷり浸かっていたし、ラヴェルの方は二十世紀初頭に活躍しはじめた世代に属する。」とあって、この理解が二人については、まずは前提に置かないといけないようだ。

「この傾向はぴったりドビュッシーとラヴェルにあてはまる。技師の家に生まれ育ったラヴェルは大の機械好きで、ラインの工業地帯を船で旅したときは、工場の騒音に感激し、いつかこれをモティーフに交響曲を書きたい、という感想を漏らした。反対にドビュッシーは自然が大好き。自然の物音を聴いていると、それが記憶の中に組み込まれ、あるとき音楽言語となって表出される、と書いている。ついでに言うと、ドビュシッーは自然の象徴である女性が大好きだったし、ラヴェルは(たぶん)ホモセクシャルだった。」とも。
 二人のタイプの違いが歴然。

 さらに、「だから、同じように水に取材したラヴェルの『水のたわむれ』とドビュッシーの『水の反映』でも、ラヴェルの方は人工の水、ドビュッシーは自然の水──といっても、単なる自然描写ではなく、それを眺めている作曲家自身の心象風景を映し出したもの──という風に全く異なった発想で弾かねばならないのだ。」と続く。
 もう、全文をそのまま転記したいくらい。

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← 覗き込んできた。

 昨夜はラジオで、ラヴェルの『水のたわむれ』を聴くことができたのだった(ドビュッシーの『水の反映』か、あるいは他の曲も掛かっていたかもしれないが、聴けたのはラヴェルのこの曲だけ。それも一部。それでも、『ボレロ』とはまるで違う曲の世界に、無知な小生は驚くやら感激するやら)。
 今、思いだしたが、ドビュッシーの曲も部分的に聴けた。初めてと言っていいくらい、楽しんで聴けた。何処か移入というか没入できない気味が今まであったのが嘘のよう。
 これも、この数ヶ月、自宅でも音楽三昧となっている成果?!
(今は、サティ、ガーシュイン、サンバヒット曲集、モーツァルトなどを聞き浸っている。その前はビル・エヴァンスやスクリャービン、ベートーベンなど。そう、今、たまたまエリック・サティーのCDを掛けっ放し。繰り返し繰り返し、聴いている。目覚めから、寝入るまで。惚れちゃったよ!)

 転記のついでに、「もしラヴェルが、作曲家にしては珍しく愛をテーマにした作品をほとんど書かなかったこと、人見知りで、ごく親しい友人意外には心を開かなかったこと、女性とのつきあいに障害があったらしいことを知れば、普通のロマン派の作品のようなアプローチはふさわしくないことがわかるだろう。もしドビュッシーが、モネや印象派の画家たちとは全くつきあいがなく、どちらかというとゴヤやルドン、モローなどデカダン的な、気味の悪い絵を好んでいたことを知れば、彼の作品をただの美しい風景画のように弾くのはピントはずれなことがわかるだろう。」なんてのも、興味深い。


エリック・サティ - Wikipedia」によると、「。「音楽界の異端児」、「音楽界の変わり者」などと称されるが、西洋音楽の伝統に大きな扉を開いた革新者とみなされている。ドビュッシーもラヴェルも、その多くの作曲技法はサティによって決定づけられたものだと公言しており、印象主義の大作曲家たちはサティへの尊敬の念をずっと忘れることはなかったほど、西洋音楽史上たいへん重要な人物である」とある。
 青柳いづみこ氏によれば、全く資質の違うドビュッシーやラヴェルらに影響を与えたというのだから、サティも絡めて論じてほしかった。
 一体、サティって何者なのだろう。
 素人の勝手な印象だと、あるいはシェーンベルクなどより深甚で決定的な影響を多くの音楽家に与えているのではないかという気がする。
 自在で自由で、いい意味で音楽でサーカスしているような感じを受けるのだ。モーツァルトに比するのは見当違いとしても、楽想を豊かに刺激し続けてくれるのではなかろうか。

 なお、ドビュッシーやラヴェル、サティなど全般の話に興味の湧いた方は:
印象派とフランス近代音楽

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→ 目と目があってしまった!

 さて、話はガラッと変わって。
青柳いづみこの執筆&インタビュー 連載「ピアニストは指先で考える」/「ムジカノーヴァ」 2003年10月号」の冒頭に、「日本人の生徒は、先生の言うことを素直にききすぎる、とよく言われる。欧米の学生はしっかりした自説を持っていて、臆することなく先生と議論を戦わせ、ときには喧嘩も辞さないとか──。」とある。

 実は、昨夜は、布袋寅泰さんやローリー寺西さんの話、そして生や貴重な秘蔵録音の演奏を聴くことができた。
 正直、小生は彼らの音楽に興味を抱いたことはなかった。
 けれど、昨夜の話と演奏を聴いて、偏見(固定観念)は一掃された。
 とにかく、マニュアルではなく、自分の耳と感性に徹底して忠実。

ローリー寺西」はロックのミュージシャンとされるが、アコースティックギターなどなかなかのもの。
 布袋寅泰さんもギタリストとして(も)有名で、昨夜は、ギター演奏技術の習得の話などを聴けたのだが、忘失したこともあり、話の内容を伝えることが出来ないのが残念。

 というわけで、タクシードライバーをやっていると、仕事しつつ音楽を堪能できますってのが結論、のわけないね!

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コメント

お楽しみですね、エリック・サティですか。一時盛んにCMなどでも利用されましたが、本当はそうしたものに最も合わない芸術かもしれません。職業ピアニストがドビュシーやラヴェルなどと並べて挙げるのはその作風と哲学に反するかもしれません。そうした好事家や高度な職人性や否定するところから始まる訳ですから。すると前者を印象主義と呼び、後者を新古典主義と呼び、サティーをダダイズムと呼んで終わってしまう。

何々イズムこそが邪魔になりますが、それをも包みこむにはジョン・ケージを待たなければいけませんし、エーコ流に「開かれた芸術」を定義しなければいけません。

謂わば、何かを云う対象であったり、影響云々測る対象でもなく、歴史の道端に咲いた徒花のようなものかもしれません。ただこの脱イズム化が進んだ今日でも、我々はどうしてもそうした引き出しに区分けして、扱えるようにします。

アナーキストのジョン・ケージが、シェーンベルクの弟子であり、二人並べて20世紀の最も重要な作曲家とする考え方もある事も書留めておかなければいけないでしょう。

投稿: pfaelzerwein | 2007/01/08 21:35

pfaelzerwein さん、コメント、ありがとう。

ラヴェルの「水のたわむれ」は、小生には嬉しい発見でした。無知なので、大抵の曲(作曲家や演奏家)が新鮮。
サティも、CDを聴いて、ああ、あの曲がサティだったんだという始末。でも、やはり新鮮です。融通無碍っていう感じがあって、聴いていて心地いい。

幸か不幸か小生の場合、紋切り型に分けても、すぐにどの引き出しに入れたか忘れてしまうので、たとえば曲を聴いても、とにかく耳を頼りにするだけ。
メモするときは、文献に頼るけど、妄想に更けるときは、得られた知識をシャッフルして楽しむ。

ジョン・ケージやシェーンベルクも、追々聴いたり調べたりしていくことになるでしょうね。
それにしても、学生時代に聴いたシュトックハウゼンの曲が未だに耳に付いて離れない。
困るのは、何という題名の曲だったのか分からないこと。

投稿: やいっち | 2007/01/09 01:58

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