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2007/01/30

ブグローの官能の美の徒(ただ)ならず

 ブーグロー(Adolphe-William Bouguereau 1825~1905)なる画家を最近、個人的に(再)発見した。既に、「草城の句境を知らず人は過ぎ」(や「会うことの叶わなざりしをただに知る」で若干の画像と共に簡単な紹介を試みている。

Slumber1

← ブーグロー……ダ・ヴィンチの画を想わせる。

  ブグロー(ブーグロー) については、定番の「ウィリアム・アドルフ・ブグロー - Wikipedia」や、前にも参照させてもらった、「アドルフ-ウィリアム ブグロー(ブーグロー) の超 甘美」なる頁を覗かれるのが、彼の世界を知るに一番、小生のような初心者には無難だし相応しいのかもしれない。
「ウィリアム・ブーグロー(ブグロー)は、1884年フランス美術アカデミー会長になり、印象派の画家達(セザンヌ、ルノワール等)を、サロン出品から落選させていた人物であ」り、「古典を尊重し理想を求めて、熟練した高度なテクニックを有し、かつ、19世紀後半のフランス美術界で強烈な権力を握っていた」人物である。
 さらに、「古代神話の主題から風俗画に至るまで美の極致と言えるほど、甘美で精緻な技術を駆使し、親近感を覚えてしまう現世的な美しい顔立ちで表現」した人物でもあるのだ。

Childhoodidyll19002

→ ブーグロー「Childhood Idyll」……こういう画風なら所有したいと思う人は古今東西を問わず多いだろう。

 が、小生のような絵画についても素養のないものが鑑賞しても、「一目見てラファエロ、ダ・ヴィンチ、ミケランジェロの要素がひらめく」画風である。
 通俗性がプンプン匂っていて、衒学性を事とするものは、彼の作品を好きだとは表立ってはなかなか口にしえないだろう。
 ある意味、絵画が古典的な表現ではなく、当代においてのリアルということを旨とするなら、彼において理想的であり且つリアルな女性像は臨界点に達していたと言えるのかもしれない。

 絵画において求めるものは、これ以上、何があるのって、逆に開き直られてしまいそうだ。
 なんだって、ゴッホやルノワールやセザンヌが登場してくる必要がある?!
 が、そこには写真というとてつもない武器が、表現手段が登場してきてしまったのだ。
 絵画が根底から問い直された時代がやってきていたわけである。

Danteandvirgilinhell3

← ブーグロー「Dante and Virgil in Hell」……こういう題材も描く。

 加藤思何理さんも指摘されているように、「この美しい作品(Bather 水浴する人)は、のちに、シュルレアリスムの画家で、精緻なデッサンを駆使し、細密な描写を得意とし、とくに後期の作品では古典主義的な様式を深めた サルバドール・ダリ(1904-1989)が、気に入って購入している」という(「画家 ウィリアム・アドルフ・ブーグロー」など参照)。

 写真の登場もあって絵画の存在意義が揺らぎだしていた頃、ブーグローらによって古典的な理想美の表現が完璧の域に達していた…。
 なんだか、当時の物理学などの自然科学の様相を連想させる。
 19世紀末、科学は最早完成の域に手が届こうとしていた(そのように感じられていた)。あとは細かな発見や細部の彫琢があるだけだろう…。
 が、一方では当時の古典的な自然科学では全く説明のつかない現象が次々と発見され、やがてアインシュタインの特殊相対性理論(1905年)などで自然科学は様相を一変する。
 量子論そして、ピカソとアインシュタイン!
(この辺りのことは、「科学の歩みところどころ 第17回 原子は実在するか」参照。文学においてもリアリズム表現でのダイナミックな展開があったことは言うまでもない。)
 ブーグローが亡くなるのは1905年であり、ダリが生まれるのは1904年というのは暗示的というより何か象徴的であるようにすら思える。

Theflagellationofchrist18804

→ ブーグロー「The Flagellation of Christ」……宗教画。宗教性が高いとは言いかねるが。

 文中に掲げる画像で見られるように、ブーグローも紋切り型の理想像のみを描いて事足りていた画家ではない。
 が、あくまで勤勉であり、積み上げた画風を彫琢することに精励したということなのだろう。

 写真の登場が絵画などの芸術に如何に影響したかは、既に書いたことがあるので、ここではパスする。
 ただ、写真技術の登場の衝撃度は、我々の想像を遥かに超えるものだっただろうことは、容易に分かるだろう。肖像画で生活の資を得ていた多くの画家が仕事を失っただろう。転職する? 
 でも、あくまで絵画表現に拘るなら、一体、どんな道がありえるのか?!
 あるいはありえたのか?!
 詳しくは、例えば、「芸術論’97 近代芸術の抵抗」なるサイトを覗かれるといいだろう。

 それにしても、「写真」といい、「撮影」といい、実に意味深な漢字を宛がったものだ!

Orestespursuedbythefuries18625

← ブーグロー「Orestes Pursued by the Furies」……嫉妬などの愛憎も描いたのだが。
 
 ブーグローはあくまで古典的理想美へ執心することで乗り切ろうとした。ただ女性の顔やスタイルにおいて当時の時代性が加味されていて、いい意味で時代に阿(おもね)ることも忘れてはいない。
(この点の分析は小生は未だ試みたことがないのだが、ブーグローは女性にしても理想美を追求したのだが、恥毛はもとより、腋毛も描いていない。欧米には女性にも髭が生えることがあるというが、髭など論外のようだった。ということは、当時の理想の女性像は、ある意味、今日の日本の女性の追求する理想像でもあった?)

Zenobiafoundbyshepherdsonthebanksofthear

→ ブーグロー……誤解して眺めると、危ない絵に見えたりする。

 一方、例えばクールベは?
「クールベの絵画の危機への対処は、神話や物語の世界を離れ、現実の世界を対象にすることで絵画のリアリティを回復しようとすることでした。クールベは絵画の図像をよりリアルなものにするために、写真を使いました。彼はあくまで古典的な絵画の枠組みを変えずに、そのリアリティを強化することをめざしました」という(「3. クールベの抵抗 」より)
 興味のある方は、上掲のサイトを覗いてみてほしい。
 ちなみに小生は、「クールベや始原の旅のあたたかき」にて違う観点からクールベを採り上げている(文中には興味を惹く画像も載せてある!)。

 ところで、古典的な理想美の危機は、写真の登場のみが齎したものというのは、時代相を捉えるにやや偏狭に過ぎるかもしれない。古典力学の完成(であるかのような完成)と危機、文学におけるリアリズム、音楽表現、舞踏などの芸術、経済・政治システムの変貌、遠因としての産業革命……。
今日のブログの本題はここから始まるといっていいかも!

 ちなみに、ブグローの描く女性像は、小生にとっての理想とはとても言えない。
 何故なら、描かれている女性はある意味、男性にとって都合のいい女性、そう、美しい庭園にあって、あるいは見事な館にあって、ある種、飾りとして、奥向きとして、そう、決して自己主張しない、そんな壁紙のような<綺麗さ>に留まっているからだ。
 それは、何処かの大臣がいう生むための装置に過ぎず、男女が交歓するのは互いに生きた人間としての夫婦間においてではなく、何処か専門の場所にまた別の都合のいい女(あるいは場合によっては男)を囲って楽しむ。
 性も、夫婦間においては生殖のときにしかありえない、日常の夫婦生活では疎ましいものなのである。

 けれど、19世紀から次第に主張する女性が登場し始めた。

 今日、イプセンがどの程度に読まれているのかどうか、あるいは演劇の素材として採り上げられているのか知らないが、小生は、ノルウェーの劇作家ヘンリック・イプセン(Henrik Johan Ibsen、1828年3月20日 - 1906年5月23日)の『人形の家』(をあるいはモーパッサンの特に『脂肪の家』など)をどれほど繰り返し読んだことか。
 19世紀は大英帝国の時代だったが、それはまた、ヴィクトリア朝的価値観がヨーロッパで大きく広まっ」ていた世紀でもあった。
 そうした旧弊で閉じた世界が揺るぎ始めていた時代でもあったわけだ。女性の側からすると、揺るがし始めていたということでもあろう。

 ブグローの画は、その意味で、自己主張することのない、たまに怒るとしたら、「Orestes Pursued by the Furies」なる画に観られるように醜い嫉妬に顔をゆがめる形で(男性には思いがけない形で)噴出する感情的な爆発などの際でしかないような女性像の終焉をも意味していたように思える。
 神話に仮託しているが、実のところ、女性には家庭に人形として(女ではなく、あくまで聖母として)収まってもらい、自分はというと外で羽目を外すのが当然という現実が投影されているような気がする。
 つまり、女性は少女から聖母へ、そして老女へと家庭の背景を流れ行く。
 閨(寝屋)は、永遠に降ろされたカーテンの向こうの闇のこと。

 嫉妬というより、ホントは押さえつけられている女性差別という現実への憤懣が嫉妬という形に集約されているのかもしれない。
 ブグローの描く女性像が小生にとっての理想とはとても言えないのは、要はブグローの画にある女性は生きていないから、という理由に尽きるのである。


[ブーグローの絵画作品は、本ブログでも参照させてもらった「Mike's Adolphe William Bouguereau Page 1 of 4」や「アート at ドリアン ブーグロー・ウィリアム」などで豊富な画像の形で出会えます。特に後者「アート at ドリアン 西洋絵画史」には、随分とお世話になっている。これからも!]

[ 文中、あれこれ書いたが、ブグロー(の絵画や仕事など)については、他に語るべき側面が少なからずある。
常に理想を追い求め、曖昧さを許さなかった画家」なる頁(ホームページ)を覗くと、「Bouguereau は貧しい人たちを称揚することが好きでした」など、教えられることが多々あることに気づく。
ジプシーの母親が、彼女の腕に彼女の幼い子供を抱いて、ほとんどただ空だけの背景で高尚な平面の上に立ってい」る「Young Gypsies」という画や、「幼い子供がストーンブロックの上に座り彼女の手を伸ばして金を嘆願している」、「The little beggar」という絵は彼の世界の一端を静かに物語っているようだ。

 さらに、「ウィリアム・ブーグロー研究」なる頁を覗くと、ブグローブーグローがいいのか…)関連の書籍が紹介されていて参考になる。 (07/02/04 追記)]

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コメント

国見弥一 様
はじめまして。トラックバック有難う御座いました。
『無精庵徒然草』は、以前より何度か拝見しておりましたので大変嬉しく、また光栄に思います。

今後とも何卒宜しくお願い致します。

投稿: Usher | 2007/02/03 23:52

Usherさん、来訪、コメント、ありがとう。
TBだけして失礼しました。
Usherさんのサイト、小生の至って(好きだけれど)苦手な音楽の分野をはじめ、いろいろ勉強になります。
これからもよろしくお願いいたします。

投稿: やいっち | 2007/02/04 04:15

はじめまして○トラックバック(・・・が、何かもよくわからないブログ初心者なのですが)が付いていたので、ここに飛んでみました。
「ブグローの女性は、生きていない」「男性にとって都合の良い女性」という指摘の部分、興味深く読みました!
私が知ってたブグロー作品は、「ヴィーナスの誕生」と「アモルとプシュケ(ファーストキス)」(←題名違うかもしれません)でした。どうも、整った顔立ちと白くて柔らかそうな肌色、バラ色のほっぺたが、可愛いなと感じているのですが、彼女たちが言葉を発するイメージはたしかに浮かんできません。
西洋絵画の画家はほとんどが男性であったし、男性の理想とした(というより都合の良い)女性を描いているのはブグロー以外にもいるような気がします。なかなか的確な具体例があがらないのですが、私が一番「男性の理想の(都合の良い)女性」を描いた画家として思い浮かぶのが、ロセッティです。《ベアタ・ベアトリクス》《レディ・リリス》といった作品相互の関連性を考えたとき、ロセッティは自分の妻の中に、男性を滅ぼすリリス(悪魔)を見ていたのではないかと考えられるからです。 他の時代の作品にも、そうした男性にとって都合の良い女性像を描いた作品はあるのかもしれませんが、どうも19世紀の、特にイギリス絵画に、そうした作品が多く見られるのは、なぜなのでしょうか・・・?当時、イギリス史上最も娼婦組織が流行したことと関係があるのかなとも思っているのですが。
ブグローに戻って考えれば、今のファッション雑誌が、「メチャモテ系ファッション特集」(笑)のように、「いかに男の子にウケるか」を意識したファッションが流行し、受容されていることも、何かこうした絵画の受容と関係がある気がします。
長々とすみません、またブログ拝見させていただきますっ♪

投稿: なっちゃん | 2007/02/06 17:58

なっちゃんさん、来訪、コメント、ありがとう。
忙しい中、ブログも楽しまれているようですね。
突然、アクセスが増えるとびっくりしますね。
小生も、最近、「三橋節子」関係の記事がアクセス急増して、アレレ、でしたが、この画家についてのテレビ番組が日曜にあって、日曜から月曜日にかけて、小生の記事へのアクセスが増えたのでした:
http://atky.cocolog-nifty.com/bushou/2006/01/post_055f.html
ブグローは時代の転換期にあっての最後の幸福な画家だったのかもしれません。女性を聖母か処女としてのみ理解して、ひたすら美化するか、男性には理解し得ない突発的な嫉妬などの怒りの表情との二極化でしか描けない。
19世紀のイギリスなどの絵画に「男性にとって都合の良い女性像を描いた作品」が目立つのは、その時代において、男性の見る女性観が揺らいできたこと、同時平行しますが、女性の進出が(少なくとも欧米の一部では)始まりかけたこと、産業革命以降、経済的な基盤が豊かになりつつあったこと(前時代よりも広範な社会層が活躍できる余地が生まれてきたこと)などがあって、一方には女性(当然、男性や自然も)を新しい視点で描く画家が増え、その対比でブグローのような画家も懸命に古い価値観を墨守していたということでしょう。
イギリス…大英帝国。19世紀はまさに大英帝国の世紀だったとって過言ではないでしょう。
その価値観は、ヴィクトリア朝に象徴されるものです。
(「ヴィクトリア朝 - Wikipedia」でネット検索してね。特に、その頁の中の「宗教と道徳」項に注目)
ヴィクトリア朝は、簡単に言うと偽善的価値観の極を行っていたようなもの。価値観が揺らいでいただけに、支配層は懸命に古い価値観を保とうした。
つまり、節度、礼節、威儀、貞淑、……。
一方では、現実には、「売春、児童労働、および、今日では労働者階級の搾取や帝国主義による植民地の搾取と考えられる活動にほとんどの基盤を置く経済」です。
つまり、「当時、イギリス史上最も娼婦組織が流行した」わけですね。
なので、絵画においても、ブグロー的な絵画が望ましくあったけれども、片方において、伝統からは全く容認できない絵画が次々と生まれていたのだと思われます。
ロセッティはその両極に挟まれて苦しんでいたような気がします。いい意味で女性に表情が描かれ始めているし。
バーン・ジョーンズのほうがやや古典的で伝統的で穏和な画風かなという気がします:
http://www5c.biglobe.ne.jp/~wonder/sub718.htm

投稿: やいっち | 2007/02/07 14:03

やいっちさん、初めまして。ブグローで検索したら、こちらのブログに辿り着きました。随分前の記事に対するコメントで、申し訳ないのですが。でも、なっちゃんさんとの会話でちょっとそれは違うんじゃないのかなと感じた部分があり、
私もコメントさせていただきます。確かに、やいっちさんやなっちゃんさんなど、絵画に大変高度なリアルさや何かしろの濃いものや強烈さを求めるような方達にとっては、ブグローの絵は甘美に過ぎ、それゆえ通俗的で女性を理想化して
描き過ぎた感じでお人形さん的で面白みがなく映るのかもしれませんが。それゆえ、ブグローの絵に対し、辛口の評価になるのかもしれませんが。

でも、私はブグローの絵に生命を感じますし、彼の描く
女性達が男性に都合のよい女性像なのでは?、そして彼の絵が近年注目を浴びてきているのが、そのような女性象を求める男性達が多くて、また多くの女性達もそれに迎合しているからではないか?とでも言うかのような指摘には、私は疑問を感じます。あまりそのような、安易な、まるでフェミニズム的な解釈をしていただきたくないと思います。
私や私の他にも、ブグローの描く、静かで優しくて温かな
感じの母子や愛らしかったり、清らかだったりする天使達が好きだという女性達も多くいますよ。

私はブグローの描く、静謐で優しく清らかで美しい絵画には、心を洗われる感じで、わずらわしい現実から一時、開放してくれ、心に潤いを与えてもらっています。私の中では、芸術とは心に潤いを与えてくれるものと捉えていますので。
私にとってはブグローは、そのような願望を十分に満たしてくれる、素敵な画家です。レオナルド・ダ・ヴィンチや
ラファエロなどの模倣というような指摘もありますが、上手く言えませんが、私はブグローはブグロー独自の世界をきちんと描き出していると思います。それからやいっちさんが、ブグローの時代には、新しい女性を描く画家達が次々と
出てきている野に、彼はいつまでも古い彼の女性像に固執
し続けたという意見にも、反論があります。

彼が大切にしていたのは、彼の中の古い女性像というより、
失われた古典世界への憧れ、ロマンチシズムではないでしょうか? だからそれが古臭いんだと言われてしまうと、
何も言えませんが。でも、私は古いものが必ずしも悪くて、
新しいものが必ずしもいいとは思いません。
時代の流れとは別に、自分独自のスタイルを護り続ける画家がいてもいいと思います。ブグローの時代は、新しい画家
達の潮流が大きく生まれていた、転機の時代だったのかもしれませんが、でもそういう画家がいる一方で、ブグローの
ような画家もいてもいいんじゃないかなと思います。
私は、やっとブグローが正当に評価される時代になってきたと思っています。長文・乱文失礼致しました。

投稿: 裕子 | 2008/05/07 21:21

裕子さん

貴重な意見、ありがとうございます。

ブグローについて小生の、あるいは偏っているかもしれない見解だけでなく、全く違う評価をされている方の意見も表明していただいたことで、ブグローの絵を御覧になられる方々が改めてじっくり鑑賞され、それぞれなりの理解を深める契機になってくれたらと思います。

ブグローの絵に付いて小生は理屈を捏ねているようですが、フェミニズム的な解釈や思想・観点から評価した結果ではなく、まず最初に絵を観ての直観・印象から、つまりブグローの画はこんなに技術面も含め素晴らしいのに、何故か「ブグローの画にある女性は生きていない」と感じてしまう…という違和感が先にったからなのです。

では、こうした素晴らしい、温かな世界が描かれているように見えるのに、どうして作品の中の女性たちが「生きていない」「自分の感情がない」かのような印象を受けるのか、ここから小生なりのささやかな探求が始まっているのです。
文章の組み立ての上では、話が逆になっていますが。

いずれにしても、絵をどう受けとめ鑑賞するかは人それぞれだと思います。
裕子さんの意見に、よくぞ言ってくれたと快哉を叫んでいる人も多いのでは。

投稿: やいっち | 2008/05/07 23:15

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