貫之の渡りし川を空に見ん
「今日は何の日~毎日が記念日~」の「12月21日 今日は何の日~毎日が記念日~」を覗いて、今日という日を古今東西に渡って想いを馳せるのがこの頃の習いになっている。
さて、今日はとツラツラ眺めていたら、補足の項に「『土左日記』起筆」とある。「土佐日記(土左日記)」の冒頭に、以下のようにあるとか:
男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり。
それの年の、しはすの、二十日あまり一日の、戌の刻に門出す。そのよしいさゝかものにかきつく。

→ 19日、六本木ヒルズのけやき坂にて。毛利庭園が凄いらしい!
「土佐日記 - Wikipedia」とは、「紀貫之が土佐の国から京まで帰京する最中に起きた出来事や思いなどを書いた日記」で、「930年(延長8年)から934年(承平4年)土佐の国の国司だった貫之が、任期を終えて土佐から京へ戻るまでの55日間の紀行を、女の作者を装って平仮名で綴った」もの。
「この時代男性の日記は漢文で書くのが当たり前であり、そのため、紀貫之に従った女性と言う設定で書かれた」などなど、古典の授業が嫌いだった(というか、授業が嫌いだった)小生も、そういった知識を聞き及んだように記憶する。
小生が、学校という場を離れて「土佐日記」を読んだのは、大学生になってからではなかったか。
世の人が読む土佐日記なるものを弥一も読んでみんとて読んだのである。
概要は上に示したとおりだが、何ゆえ、日記を書こうと思ったのか(まあ、記録するってことは貴族ならやりかねないだろうが)、書くのはいいとして、何ゆえ、漢文で書かなかったのか。そのほうが、当時としては書きやすかったのではないのか、あるいは、漢文が日常的だというのは今日からの想像(思い込み)に過ぎず、実際には当時にあっても、その表記方法その他において標準規格があったのかどうかは別にして、女性のみならず男性も本当は平仮名で綴るのが当たり前だったのであり、ただ、平仮名表記(表現)は女性が為すことであり、男性は表向きは漢文表記するのが建前だったということなのか。
その辺りの文学的常識を小生は持ち合わせていない。
さらに、「日本文学史上、おそらく初めての『日記文学』であった」というのは、本当なのだろうか。実際には備忘録的に綴っていたのであり、ただ、何かの理由があって、そういった試みは表沙汰にはしないものだったに過ぎないのか、その辺も小生は知らない。
「文字・表記・音韻研究とコンピュータ ~たとえば『土左日記』研究~」を覗くと、「『土左日記』の国語・国文学研究に於ける特殊な地位」が示されている:
一般に、古典文学作品は手で書き写すことによってのみ世間に流布し、後世に伝えられてきた。
だから、誤写や場合によっては恣意的な改竄が加えられてゆき、ついには作者の書いた原本の面目を全く失ってしまう運命にある。
その中で、この『土左日記』は、唯一”筆者が書いた原本をほぼ完全に復元し得た”と言い得る作品なのである。
詳しくは当該頁を覗いてみて欲しい。

← 19日の夜、都内某所の公園脇にて仮眠。
この中の、「為家本」(藤原定家の子、藤原為家が、やはり同様に貫之自筆本を直接参照しながら書写したとされる本で、重要文化財に指定されているもの)については、「大阪青山歴史文学博物館 主な収蔵資料」にて、書写された本の画像を見ることが出来る。
「土佐日記」についても、「松岡正剛の千夜千冊『土佐日記』紀貫之」が興味深い詮索ぶりを試みている。
さすがに小生が抱くような疑問をより系統立てて探求している。
紀貫之が「土佐日記」を平仮名表記で試みるに当っての時代背景がまず示されている。「和漢並立の才能を誇る時代は、道真とともに後退しつつあ」り(菅原道真の左遷)、「紀家も大伴家も、のちの歴史が証したように、すでに藤原一族によって追い落としを迫られていた」時代だった。
何かの記事で書いたことがあるが、名家が没落する最後の頃に、白鳥の歌のごとく、文化的な華を咲かせる。大伴家は『万葉集』であり、紀家は『古今和歌集』などである。文字にしたものは、(時に不運にも痕跡を消し去られることがありえるが)、半永久の命を得る(ことがあるわけである)。
また、実権を奪われてしまった往年の名家は、文化の形で歴史に名を刻むしかないわけである。しかも、勅撰の歴史書(正史)には勝者の歴史しか描かれないことは(特に『古事記』に比しての『日本書紀』を見れば)、歴史の改竄は歴然としている(実際の歴史は改竄されただろう記述を、眼光紙背に徹する執念と研究と、消滅しきれななかった歴史の痕跡との照合の果てに読み取っていくしかないのだろう)。
が、文学系等の書は、歴史を描くことを断念することを前提にだが(それでも、和歌や詞書などに本音が漏れ出てくるが)、思いの丈を真率に描き示すことが出来る。勝者も歌を残すが敗者や左遷されたものも気持ちを書き残すことができるわけである。
さて、話を元に戻す。
紀貫之は「土佐日記」の平仮名表記の試みを通じて、何を企図したか。
松岡正剛氏によれば、「貫之の「日本語計画」」があるというである。
「貫之が仮名序を書いたことは、日本文芸における倭語から和語への進捗をもたらした」のだ。
これは、ある意味、どんな白鳥の歌より凄いことなのかもしれない。
あらゆる文書(正史も含めて!)の表記方法をいずれは紀家の末裔である紀貫之の編み出した(あるいは何処かに菅原道真の影響・執念もあるのか)平仮名一色に変えてしまおうという野心があったのかもしれない。
実際には漢字と仮名との併せ持った表記になったのだが。これは、実際、平仮名表記だけでは読みづらいし不便だという実際上の理由の結果なのだろう。
→ 19日の夜、銀座4丁目交差点。信号待ち。
さらに、漢詩から和歌への流れもある。それは中国(などの大陸)からの文化のうえでの独立・自立という自覚も大きくはあったのだろう。和歌(感じ仮名交じりの表記)こそに和のエッセンスが示される…。
「『万葉集』以来の勅選歌集を和歌でこそ編纂」するという天皇をも巻き込んだ壮大な試み。
その結実が『古今和歌集』であり、貫之の畢生の序文(仮名序)であったというわけである。
『古今和歌集』は、仮名序こそは貫之の手になるし編纂も彼の力が預かって大きかったが、「紀友則、紀貫之、凡河内躬恒、壬生忠峯の気鋭の4人」の編集になるものだった。
晩年が近づいて、貫之は、「都から遠く離れた土佐に行く」。いよいよ貫之は「日本語計画」の総仕上げに取り掛かるというわけである。
その所産が『土佐日記』というわけだ。
その辺りも含め、「松岡正剛の千夜千冊『土佐日記』紀貫之」を読んで欲しい。
というか、『土佐日記』を読んで欲しいというべきか。
小生も久々、挑戦しないとね。
「松岡正剛の千夜千冊『土佐日記』紀貫之」は、松岡正剛氏の「千夜千冊」の中でも力作の部類に入るのではなかろうか。結構、力が入っていると読んでいて感じる。
← 19日の夜半過ぎ(20日)、都内某所の公園脇にて休憩。裸木…。すっかり裸になっちゃって…。寒くないの?
松岡氏の掲げている貫之の歌をここにも掲げておく:
影みれば波の底なる久方の
空こぎわたるわれぞわびしき水底の月の上より漕ぐ舟の
棹にさはるは桂なるらしひさかたの月に生ひたる桂河
底なる影もかはらざりけりちはやぶる神の心を荒るる海に
鏡を入れてかつ見つるかな桂河わが心にもかよはねど
同じふかさにながるべらなり
参考資料:
『土佐日記』は、ネット上では、各種、読めるようだが、例えば下記:
「土佐日記原文」(「TheJapaneseClassics Tasuku's Home Page」所収)。
「図書カード:土佐日記」(お馴染み、「青空文庫」!)
各種サイト:
「土佐日記」(「土佐日記」や紀貫之についてのホームぽエージ)
「土佐日記の部屋」(土佐日記を楽しんで勉強するための部屋。口語訳も載っている)
「土佐日記」(音声解説がある!)
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