中島敦の命日…遥かなる島より子恋う敦かも
3日の日曜日からトーマス・マン著の『ファウストゥス博士』(『トーマス・マン全集6』(円子修平訳、新潮社)版)を読み始めた。年内には読みきれないだろうが、ま、じっくり腰を据えて長編世界を堪能するつもり。
今日(12月4日)は、『山月記』などの作家・中島敦の命日である。昭和42年(1942年)に亡くなられている。
高校から大学にかけての頃、気になってならない作家だった。
彼の人生や作品を思うと、何も言葉が出てこない。
ここでは彼を紹介するサイトを幾つかと、数年前に綴った小生の彼に付いてのメモ書きを示しておく。
→ 『中島敦全集〈1〉』(筑摩書房)
中島敦論あるいは書評:
「狼疾について―――中島 敦論 宇 藤 和 彦」
「松岡正剛の千夜千冊『李陵・弟子・名人伝』中島敦」
「中島敦 - Wikipedia」(情報がちょっと物足りない。)
中島敦作品:
「中島敦全作品目録と本文および解題」
「青空文庫 作家別作品リスト:中島 敦」
中島敦についての思い出話:
「中島敦 - ウラ・アオゾラブンコ」
(深田久弥、氷上英廣、中村光夫、吉田健一その他の方たちの中島敦を巡る思い出話を読むことが出来て興味深い。)
汽船(ふね)は此の島を夜半に発つ。それ迄汐を待つのである。
私は甲板に出て欄干(てすり)に凭った。島の方角を見ると、闇の中に、ずっと低い所で、五つ六つの灯が微かにちらついて見える。空を仰いだ。帆柱や策綱(つな)の黒い影の上に遥か高く、南国の星座が美しく燃えていた。ふと、古代希臘(ギリシャ)の或る神秘家の言った「天体の妙なる諧音」のことが頭に浮かんだ。賢い其の古代人は斯う説いたのである。我々を取巻く天体の無数の星共は常に巨大な音響――それも、調和的な宇宙の構成にふさわしい極めて調和的な壮大な諧音――を立てて回転しつつあるのだが、地上の我々は太処よりそれに慣れ、それの聞えない世界は経験できないので、竟(つい)に其の妙なる宇宙の大合唱を意識しないでいるのだ、と。先刻(さっき)夕方の浜辺で島民共の死絶えた後の此の島を思い描いたように、今、私は、人類の絶えて了ったあとの・誰も見る者も無い・暗い天体の整然たる運転を――ピタゴラスの云う・巨大な音響を発しつつ回転する無数の球体共の様子を想像して見た。
何か、荒々しい悲しみに似たものが、ふっと、心の底から湧上って来るようであった。
(↑ 拙稿「中島敦著『南洋通信』」より中島敦の文を一部、抜粋。悲劇に満ちていたと看做されがちな中島敦だけれど、人の子の親であった彼の一面を覗いておくことも大切かと思う。)
← 中島敦著『南洋通信』(中公文庫刊、中央公論新社)
ワープロ(今はパソコンであるが)に向かって書く際に心掛けていることは、画面の向こうには無際限の世界が広がっているということ、無辺大の世界に自分が今、たまたま生きているのだということ、際限のない宇宙の中で、自分はほんの束の間の生を受け、生きているという意識を意識しているだけなのだということ、ただそれだけである。
画面を通して姿なき茫漠たる宇宙、巨象より遥かに巨大な宇宙のほんの僅かな肌に触れているだけの、その微かな現実感を頼りに天の海・星の林に漕ぎ出している。
どんな小さな世界でも、それは世界であり、宇宙を映す窓が開いており、どんな広大無辺の世界も、視点を変えれば塵や芥の豊穣さに優るとは限らないのである。
そのことは自分のちっぽけな心についても言えることであって、己が狭隘な心しか持たないからといって、それはそれで一つの小宇宙であり、そんな小さくて頑なな宇宙も宇宙の示す相貌の一面に他ならないのだと思う。
中島敦の世界から、余計な世界へ飛んでしまったけれど、彼の世界は人生とか人間とかに静かに心豊かに対面させてくれるのだ。ここにこんな人生があった。それを彼は描き切った。その充実した読後感を味わえるなら、それに増す僥倖はないのだと思う。
(↑ 拙稿「中島敦『李陵・山月記』雑感」より小生の文を抜粋。)
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コメント
私は現在「魔の山」の難所を押さえて着々と攻略していますので、『ファウストゥス博士』の方はやいっちさんに抜かれそうです。それでも一月かけると聞いて安心しました。前三分の一強の凝縮度の高さに到底飛ばすことが出来ませんでした。後半はそれに比べると早くなると予想しますが、他の作品との違いを感じています。
因みにマンがこの作品を書きながら、五回実演を聴いた作品はベートヴェンの15番弦楽四重奏と故柴田南雄氏の著書「日本の音・西洋の調べ」(青土社)1994刊にあります。
自然科学的な観測描写も素晴らしいのですが、美学的な話題もなかなか紛らわしいです。また気が付いたことがあれば途中報告として記事にしてください。楽しみにしています。
投稿: pfaelzerwein | 2006/12/04 02:53
pfaelzerwein さんの「魔の山」の読み、楽しみにしています。
小生、『ファウストゥス博士』は、ゆっくりじっくりのつもり。
長編を読む楽しみ、あるいは楽しみ方は経験で体得しているつもりなので、ワインを、あるいはウイスキーを楽しむように日々、時にちびりちびり、あるいは時にガバッと呷るようにしていくつもり。
傍ら、車中では丸山真男の音楽の本(中野雄氏著)を読んでいる。丸山氏の音楽への傾倒ぶりはただならぬものがある。
昨日はワーグナー(とヒットラー)の記事を読んだ。
ドイツ、ワーグナー、マン、ヒットラー。
惜しむらくは、上掲書にはショーペンハウエルへの言及が期待できないこと。ワーグナーやニーチェがショーペンハウエルに耽溺したっていうのに。
とにかく、淡々とやっていきます!
投稿: やいっち | 2006/12/05 09:43