山口青邨…ひたむきに秋海棠を愛しけり
このところ、「今日は何の日~毎日が記念日~」を覗くことが増えている。特に忌日(何故か誕生日は素通り?!)。
「12月15日」の頁を覗く。
実は今日は目的があった。赤穂浪士の討ち入りの日が14日なのか15日なのかを確かめるためだった。
どうやら旧暦の元禄15年12月14日の出来事だが、討ち入りは翌15日だったようだ(当然、新暦1703年1月30日乃至は31日のこと)。
小生は今の地に居住する前は、高輪に住んでいて、歩いて10分ほどのところに泉岳寺があった。
(我が高輪居住時代については、ここには詳述しないので、次の拙稿などを参照願いたい:「岡本綺堂『江戸の思い出』あれこれ」「東京は坂の町でもある」「清正公信仰とハンセン病」「2.島崎藤村『春』を読みながら」)
→ 川瀬巴水『泉岳寺』(「川瀬巴水…回顧的その心性の謎床し」参照のこと。)
高輪には他にも歴史に記録される地があるのだが、浅学菲才の小生、両親が来た時も泉岳寺を訪れる。しばしば線香の煙が濛々と立っていたりする。
泉岳寺に行きがちだったのは、討ち入りが赤穂四十七士という、その47という数字に80年前後頃から、こだわりを覚えてきたから、でもある(47という数字へただならぬ因縁を感じる理由は、長くなるので別の機会に譲る)。
が、「12月15日」の頁をつらつら眺めていたら、山口青邨という俳人の忌日であることを知る。
小生、まだ、山口青邨(やまぐち せいそん、1892年5月10日 - 1988年12月15日)については通り一遍のことも知らない。
山口青邨のプロフィールについては、「ウェブもりおか:盛岡の先人たち:山口青邨」などを参照願う。
みちのく(岩手県盛岡市)の生まれであり、高浜虚子の門下であり、科学者(工学博士、鉱山学の権威)であり、句集に『雑草園』『冬青空』などがあり、盛岡で創刊の俳誌『夏草』を主宰し、写生文の第一人者としても有名なことをメモしておく。
← 青邨の愛した「秋海棠(シュウカイドウ)」(営利目的でない個人利用の許されている「植物園へようこそ!」より)。
自ら「雑草園」と呼んでいた、山口青邨のさまざまな思い出がこめられている自宅、「山口青邨宅 三艸書屋」(東京都杉並区和田本町にあった)が、北上の地に移築復元されていることも、ちょっと銘記しておく(「雑草園」参照)。
小生如きが山口青邨について語るべき何もありはしない。句集も所蔵していない。
ここは、ネットで見つかった同氏の句の数々を列挙しておく。
句を示し、その句を見つけた(掲げられていた)サイトを下に示す。
わが心やさしくなりぬ赤のまま
書を愛し秋海棠を愛すかな
「山口青邨」(ホームページは、「閑話抄」!)
草じらみ人につかんと立ち枯るゝ
「川越の歌と文学(3)」
夏の野のふたりの人のつひにあふ
「言葉俳句01-10」
初富士のかなしきまでに遠きかな
蕗の薹傾く南部富士もまた
くらがりに富士の図白し更衣
南部富士近くて霞む花林檎
南部富士けふ厳かに頬被り
こほろぎの漆光りの富士額
白菊は富士新雪を前に光る
稲雀むらがり飛んで富士を覆ふ
いろがみを貼りたる富士ぞ夕桜
初富士の朱の頂熔けんとす
木槿咲く籬の上の南部富士
「言葉で描かれた「富士山」 山口青邨」
雪降るやきのう蒲公英黄なかしに
「山口青邨句短冊 「雪降るや・・・」 [50810011] こもれび書房, com
雨の灯をいたはりあひて魚簗の番
橙に手をとゞかせて見たりけり
春雨に鳥の古巣の濡るゝまゝ
漸くに雨あがるらし松の花
縁臺を濡らして過ぎし夕立かな
をみなへし又きちかうと折りすゝむ
みちのくの町はいぶせき氷柱かな
降り出して明るくなりぬ杜若
暑くなる蓴の池を去りにけり
「二百字詰原稿用紙 私的俳句論(91) 山口青邨(1)」「二百字詰原稿用紙 20061207」「二百字詰原稿用紙 20061208」「(「二百字詰原稿用紙」)
くさぎの花 さかりににほふ 微笑仏
「山梨県身延町 くらしの窓口 公共施設 山口青邨」
合歓咲きて駅長室によき陰を
「So-net blog斜めからの発信」
遠山のくつがへるさま郭公なく
「文学と彫刻のまち盛岡」
逝く春の僧もまじれる野点はも
菖蒲葺く紅殻格子京に似て
藤蔓の橋の名残や梅雨の町
「日本の文学碑 坂口明生のホームページ」
玉虫の羽のみどりは推古より
手裏剣の如く蜂飛ぶ牡丹の前
母の忌の五月つごもり紅粉の花
「俳句カレンダー鑑賞 7月 創立45周年記念墨跡集」(「手裏剣の如く蜂飛ぶ牡丹の前」は九五歳の句だとか)
立葵いつもの如く帰省子に
「夏の花、立葵」
人も旅人われも旅人春惜しむ
水引の紅にふれても露けしや
菊咲けり陶淵明の菊咲けり
「日本の文学碑 坂口明生のホームページ」
薄雪の滝と名づけて野菊添えん
「鰍沢町ホームページ-文学碑」
銀杏ちるまったゞ中に法科あり
「急性心筋梗塞 尾池和夫」
妻も吾もみちのくびとや鰊食ふ
「うっかり類想・うっかり類句(文藝春秋、1999年6月号) 尾池和夫」
凍鶴の一歩を賭けて立ちつくす
「株と思索と短歌のサイト 凍鶴の句」
みちのくの淋代(さびしろ)の浜若布寄す
「俳句の雑学」(「淋代は青森県八戸から北方約四十キロ。太平洋岸にある部落」だが、「生まれの青邨が美しい地名に惹かれて詠んだ空想の句」で、「淋代では若布は採れないと」か…。)
夕紅葉鯉は浮くまゝ人去りぬ
栗の花かぶさり咲ける札所はも
月とるごと種まくごとく踊りけり
巫女下るお山の霞濃くなりて
「山 口 青 邨 - Seison Yamaguchi -」
こほろぎのこの一徹の貌を見よ
外套の裏は緋なりき明治の雪
菊咲けり陶淵明の菊咲けり
たんぽぽや長江濁るとこしなへ
「山口青邨展」
月上がるまで紅や鶏頭花
「山口青邨句短冊 「月上がるまで・・・」 [50810010] こもれび書房, com
以上が、ネット上で見つかった山口青邨の句の全て、というわけではなかろうが、これだけ列挙すれば、詠み手次第で傾向は分かるかもしれない。
写生文が得意であり、観察を大切にする俳人とのことだが、「みちのくの淋代(さびしろ)の浜若布寄す」などはフィクションというか遊び心がタップリ入っている。
優れた俳人とは、どういう人のことを指すのだろう。
最低でも一句、人口に膾炙する句を持っている人、ということになるだろうか。
俳人の句集に寄り添い、あるいはいずれかの句を(短冊などの形、あるいは句碑で)目の前にして、感懐を持つ。また、感じざるをえない。
が、俳人が俳句に関心を抱かない人の口辺にも、何かの風景や道端の草花、青い空にぽっかり浮ぶ雲、路傍のお地蔵さん、見捨てられた苫屋などを観た時、ふと、浮んでくる句がある。
そのような句が一句でも作れたら俳人の本望なのではなかろうか。
小生のような詩心を持たない野暮天でさえも、芭蕉の句は、意味が分かろうが分かるまいが、正確な理解、深い理解があろうがなかろうが、小生の脳天を痺れさせる(まして、もっと感性のある人なら、想像を超えて感銘を受けているのだろう)。
だからこそ、いつか知らず、俳句の世界に誘い込まれていったのである。俳句に興味を持った頃を思い返してみても、身近には誰一人として俳句を嗜む人はいなかった(あるいは、居ても、気づかなかった)。
芭蕉の句の魔力が鈍感な小生をも引きずり込んだのである。
その取っ掛かりは幾つかの句である。
山口青邨には佳句が少なからずある。
しかし、人口に膾炙する句が彼にあるかどうか。
今は弟子筋か門下生もいる。句碑も全国に少なからずある。それでもこの先、長く忘れ難き俳人としてあるかどうかは、親しみやすい、あるいは一読(一詠)脳裏に刻まれる句があるかどうかに掛かっているのだろう(門下生の頑張りにもよるのか)。
それにしても、俳句は(世界一短い)詩なのだろうか。
句によっては、詩情を感じることは否めない。でも、だからといって、句が詩の一種だと看做していいものか。
それとも、(世界一短い)詩とは短歌(和歌)のことであって、俳句は詩とも違う、単独で屹立している全く独自の言語表現芸術であり、まさに句は句だとしか言い様がないのだろうか。
言うまでもないが、長さ(語数の多寡)を云々しているわけではない。例えば、ジャン・コクトー詩の「私の耳は貝の殻海の響きを懐かしむ」(堀口大學訳)なんてのもあるくらいだし。
「鴉啼いてわたしも一人」や「わけいってもわけいっても青い山」の、俳人というべきか僧侶というべきなのか、種田山頭火のことは今は忘れておく。
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