木枯しや散らす葉もなく闇に消え
今回は、タクシーエッセイ(レポート?)である。
師走である。年末なのだ。
午前の天気予報では夜にも降るはずと。
でも、とうとう、傘を差す必要も感じないような細かな雨滴がちょっと降っただけ。
→ 都内、芝公園近くで信号待ち。一番、激しい雨もこの程度。道行く人は傘の必要をまるで感じていない。予報とは大違いだ。
寒い。曇天。イルミネーションもなんとなく寂しげ。
無論、月影はない。
タクシーの営業は、週末である金曜日は大抵、他の曜日より忙しいと相場が決まっている。なので、タクシードライバーも、可能な限りは所定の営業予定日を変更してでも金曜日に振り替え、営業に出ようとする。
小生は変更するのが面倒なので、会社で決められた日程どおりに出社し営業。
昨日は営業の日になっていた。日中はまあまあ金曜日らしいかなという程度。夜も、確かに忘年会の会場などへ向うお客さんが増えている。駅へ、あるいは駅から店へ。
凄みを増してきたのは、やはり夜も夜半に近づいてから。
小生は、忙しさを予見して、郊外へと逃げようとしていた。できるだけ人のいないところへ。小生、人が多いところは苦手なので、普段もあまりお客さんのいないところを走っている?!
が、昨夜はそうは問屋が卸さなかった。都心を外れ、いよいよ山手線を越え、さらに山手通りをも越した時、道路の脇に人が立っている。夜陰だし、街灯の明かりも届かない場所に男性…らしき影。やや大柄…。黒人の方だ。
お客と見れば、相手構わず乗せる。
外人のお客さんは短距離が相場。
いいや、どうせ、近場だろうし、どこか目的地へお届けしたら、また郊外へ逃げよう!
と、ところが、向った先は六本木! ええ! 繁華街が苦手だから逃げてきたのに。
昔は、歌舞伎町、赤坂、麻布(十番)界隈、青山辺り、そして六本木と繁華街(の周辺)を流して回ったものだ。
昔、とは、不況に陥る前の、小生がタクシードライバーになり立てだった95年末から98年あるいや99年もだったか。
繁華街の周辺というのは、繁華街のど真ん中だと、確かにお客さんも多いのだが、車が渋滞していて、渋滞から抜け出すのに手間取ったりする。
それより、繁華街の周辺を巡って、そこから脇道へとことこと歩いてくるお客さんを拾って、さっさと目的地へ向ったほうが渋滞を多少は避けられ、効率的なのである。
でも、97年8月から始まり98年にはどん底に真っ逆様となった不況でお客さんが激減した。
小生はそれでも、都心での流しの営業に馴れていたので、上記の繁華街近辺をうろついて回った。
でも、ダメ。
それまで培ったお客さんを見つけるタイミングやポイントをほぼ全て失ってしまった。
不況は、その後のタクシーの規制緩和で更に追い討ちをかけられ、タクシー業界(少なくともタクシードライバーサイドについては)ドツボに嵌ってしまった。タクシーの台数ばかりが増える。
不況と泥沼に喘ぐ日々。
そして、未練がましい都心での夜の営業を徐々に、営業の拠点というか狙いを郊外へ移していった。
別に郊外のほうが仕事の効率がいいってわけじゃない。
空車のまま、無為に都心を走るくらいなら、郊外の何処かの駅などでマイペースで営業しよう、不況もそのうち終息するだろうし。
でも、とんでもなかった。タクシー(ドライバー)の不況は構造的なものになっている。仮に好況になっても、以前のような流しの営業は夢なのだろうと思い知る。
無線や、携帯電話を使ったり、仲間との情報交換などを有効に使う、情報を重視した営業への転換が求められる時代。
でも、小生は流しが好きなのだ(喋りが苦手だし)。
さて、先ほどの外人さんである。六本木へひた走る。
こうなったら、安全・的確・迅速(加えるなら快適だが、これは相手との相性もあるし、なかなか難しい)に目的地へ向い、営業を終えたら、さっさと苦手な(飽きてしまった)六本木とおさらばするんだ…。
ところが、である。ちょっとした異変があった。
まあ、ありがちな事情である。
それは、かの黒人さん、某店の前に着いたら、「ちょっと待っててね、おカネ、取ってくるから」といって、降りていく。
みすみす店内へ消えていく黒人さんを見送る。
← やはり芝公園にて。目にも鮮やかな紅葉の発色だったのに、小生が撮ると、こんな半端な色合いに。曇天のせいと思いたい!
タクシーはお客さんに背を向けて営業している。運転手は運転手席、お客さんは(三人、四人という複数でないかぎりは)後部座席。
話も、お客さんに背を向けてする。
でも、これが形なのだ。別にお客さんに失礼しているわけではない。
このことは、実は、タクシードライバーはお客さんを信頼して営業しているということを意味する。後ろにどんなお客さんを乗せているか分からないのだ。
(歌舞伎町を敬遠するようになったのも、何度となく、893の筋の方を乗せたから。ヤクなんかの物騒な話を後部座席でどうどうとしていたっけ…。)
無論、言うまでもなく、お客さんの立場からすると、運転手ってどんな人か分からないという不安もあるだろう。
今は、東京タクシーセンターの指導や、会社での指導・教育もあり、また社会規制が若干強化されたこともあって、劣悪なドライバーはいないはずだ(小生に実態を把握するノウハウはないのだが、会社としても、事故・違反は勿論、お客さんとトラブルを何度も起こすドライバーは敬遠するようになっている。東京タクシーセンターに通報され、ドライバーはもとより、会社の評価も同時に下がる仕組みになっているからである)。
ある程度のドライバーの品位は確保されているものと思っていいのではないか(なんたって、タクシー会社の名前のみならず、ドライバーの名前が表示されているのだ。それにしても、長引く不況が怖いが)。
まあ、大概はドライバーとお客さんとは初対面である。
ドライバー側としても大過なく営業をこなしていきたいのである。無難な対応(というと、情けないようだが、それさえ、結構、難しい)に終始する。
余計なお喋りは(少なくとも運転手の側からは)しない。最近は携帯電話の普及のせいなのだろう、一人のお客さんであっても、ドライバーとお喋りを楽しむという人が激減した。
ノルマをこなすというスタイルの仕事に疲れている。サービス残業の横行。今更、赤の他人とお喋りはしない、する元気もないという人がこの数年、増えたことを痛感する。
さて、先ほどの、「おカネを取ってくる」という男性。店に消えていったきり。後部座席を見ても、バッグなど、何も担保する品物がない。
そのままバックレられても、どうする術もない。
無論、降りていく際に、彼の顔や服装は見ている。
→ 国立霞ヶ丘競技場(国立競技場) 。近くの広場。国立競技場では、「FIFA トヨタカップ クラブ選手権」が開催される。この広場脇の路肩に車を止めて、小生、安眠!
店に消えていって数分が経つ。店の前には、客引きの黒人さんが二人。
もしかして、さっきのお客さんって、この二人のうちのどちらかだったのでは、と思えてくる。
弱気の虫。
確かに顔も服装も確かめたけど、店の客ではなく、店に入り、服を普段着から制服に着替えたのかもしれない。
そして、何食わぬ顔で店の前に立ち、客引きしているのかもしれない、なんて猜疑心の虜になりそう。
タクシーの非常灯(前後左右にある、普段はウインカーとして点滅させる4つの黄色のランプ)を点滅して店の入り口を見遣る小生と目を合わせないのは、実はこっそりこっちの様子を伺っているのではないか。
黒人さんの顔。段々、どんな顔だったか記憶が曖昧になってくる。
店先の二人や、店先を行き来する人たちの顔を見ているうちに、記憶に残したはずの残像がぼやけてくる。ダブってくる。
数千円という料金。
今は夜半前。
数千円というカネは取りはぐれたら惜しいけど、金曜日、夜、週末、年末、忘年会、あのタクシー待ちの人の数を思うと、さっきの客を見限り、この数千円を捨て、他の客を探したほうが効率的なのではないか。
待っている時間も惜しい。稼ぎ時の今という時間がドンドン過ぎ去っていく…。
狭い道。他のタクシーと擦れ違うのもやっとの道。
もう、十分も待ったろうか。
判断、決断の時が迫っている。
小生、おカネを自宅に取って来ますと言われ、待っていて逃げられたことは一度ならずある。一番、印象的なのは、昔、「わたしは泣いています」などのヒット曲を放ったリリーに似た女性。彼女、知能犯だった(多分、累犯と察せられる。その詳細は、機会があったら書くかも)。
釣銭を間違え、五千円、余計にお釣りを渡したことも。
あああ、どうしたものか。
待つべきか。普段の日、それも郊外だったら、あるいは暇な日だったら、暇つぶしに十分が三十分でも待つのだけど、今日の今日という事情を考えると、待つのは辛い。時間が勿体無い。無為に過ぎ去っていく時間が惜しい。
よほど、店内へとも考えたけれど、顔もおぼろ、服装も変えられているかもしれない、そもそも店内に入れるとは思えない(貧乏な小生、入店するおカネもない)。タクシーを置き去りにするわけにもいかない。
ちょっと大袈裟に表現したら、不条理の感覚を覚えたりする。このまま、人生が終わってしまうのではないか。人生って、本当のところ、赤裸々に実態を露わにしたら、こんな無為と徒労の繰り返しなのではないか…。
そんな無為な、ドキドキの時をどれほど過ごしただろうか、ついに店から出て来ました。先ほどのお客さんだ。
彼のほうから小生のタクシーのほうへやってくる。
先ほどのお客さんだと、安易に書いたけど、実は小生、驚いていた。
お客さんが降りていく際、現認したはずの顔や服装の印象とはほとんどというか、まるで違っていたからだ。
あれ、この人だったっけ。印象では、店の前で客の呼び込みをしている黒人の男性のほうが近いし、似ているような気がするのだが。
でも、その方が小生の顔を見、近づいてきて、窓口に立った。窓を開けると、「すみません」と言って、5千円札を差し出す。
清算を済ませる。
待ち時間のおカネをもらいたいほどの気分。
でも、待つのもタクシーという仕事の一部なのだ。
ちゃんと清算できたことでありがたいと思わなくっちゃいけない。
← 国立競技場。木立越しに黄色の看板が写っている。「FIFAクラブワールドカップジャパン2006」なる文字が見えるだろうか。
これは、小生の推測、憶測に近い推測だが、男性にしても、すまなさそうな顔をしていた。つまり、待っていてくれたことに感謝していたような気がする。チップだって求められることを覚悟していたのではないか。
少なくとも、アメリカだったら、料金に倍するチップを貰わないと、割に合わない。
師走、週末の金曜日の夜半近い時間帯、忘年会シーズン、その貴重な時間が何十分も失われたのだし。
その間に、営業を一回はこなせる。新たな数千円のお客さん(あるいは時間帯を考慮すると、1万円のお客さん)を喪失しているのは確実である。
だが、ここは日本だ。東京だ。ニコニコ現金払い。しかも、すっきりメーターが示す料金さえいただければいい。
ああ、六本木。そんな思いを幾度となくさせられた町。
車の中でゲロして、その後始末のため2時間をふいにしたり、すっかり寝込まれてしまい、やはり起きてくれるまでの時間を途方に暮れつつ過ごしてしまったり、チケットでとサインしてもらったけれど、会社では使えないチケットで自己負担になってしまったり(これは何度も。こうした客は、降りる際にこちらが確かめる暇を与えず、さっさと降りて夜陰に紛れていく。酔っていたのが嘘のような素早い足取りだ)。
悪いことばかりじゃない(先ほどのお客さんにしても、最終的にはメーターが示す料金を払ってくれたのだから悪いことってわけじゃなかった。ただ、気の小さい小生が勝手にドキドキしただけの話なのだ)。
夜の青山通りを走る羽目になったが、それも、黒人さんのお客さんを六本木へお連れしたばっかりに、あちこちでお客さんを乗せて、気がついたら夜半過ぎの青山通り(表参道近辺)へ来てしまったのだ。
タクシー待ちをする人影の多いこと。
気の小さな小生、お客さんが少ないのも辛いが、多すぎるのも怖い。そんな青山のど真ん中であるお客さんが降りられると、そこへ何人(何組)もの人が寄って来る。
ボクちゃん、気が弱いの、来るなら一人で来て! って、叫びたい気分。
いっそのこと、タクシーを置き去りにして逃げてしまいたい!
気が強かったら、お客さんを選り取り見取りって見地に立てるのだろうけど、我輩はダメ。萎えちゃう。
幸い、降りたら、他の誰か、近くにいた人がドアを叩き(まだ、清算も済まないうちにドアの脇に、しかも、ドアに手をかけて立っていた)が乗り込んできてくれた。
青山から渋谷へ。そこで降りていかれたら、渋谷にはさらに多くの人影。
ああーん、ボクちゃん、多勢に無勢は、ダメなんだってば。
大体、1対1でも、腰が引けている我輩なんだってば。
小生、人影の透き間を狙って車を止めようとしたけれど、乗っているお客さんの都合を優先しなきゃいけない(当然だ!)。
ああ、数知れないタクシー待ちの人の渦の中にボクちゃん。
清算している最中に、ドアの脇に立っている。女性だ。すぐ脇には他の男性(連れじゃなさそう)もいたが、女性に譲ったのだろうか、先を争ったりしない。
→ 草木も弥一も眠る丑三つ時。路肩に車を止め仮眠を摂る。葉っぱも落ち尽くした枝越しに謎の明かり。落とす葉っぱもないと吹く風も手持ち無沙汰になるのかな。
木枯しや散らす葉もなく闇に消え
渋谷から女性は、空車のタクシーを捜し求めつつ、表参道から渋谷まで歩いてきてしまったのだとか。
確かに上りも下りにも空車のタクシーは見かけなかった。時間が夜半過ぎだものね。
ラッキーだったということから、雑談に花が咲いた。
花は咲きっぱなしのチューリップ。
どんな話をしたかは、内緒!
あれこれお喋りしているうちにあっと言う間に目的地へ(こういう時って時間が経つのが早いのね!)。
そのお客さんの営業が終わった時点で、今月の小生のノルマ(足きりの額)も目出度く達成。
お客さんを下ろし、しばらく走ったところで、お八つタイム。
今月もギリギリの期限で足きりのノルマを達成できたのだ。危うかった。
ホッとして、お八つも美味しい。用意しておいたチョコレートケーキとペットボトルのお茶で自分を祝ってオメデトウ!
そんなこんなも含めてタクシー稼業なのだ。
(そうそう、こんなドタバタな営業だったけど、ラジオで新たなアーティストの話を彼女、つまり首藤久美子氏の演奏(琵琶)共々聴けた。もう、日記の文章が長くなりすぎたので、この話題に付いては、機会があったら、別途、メモするかも。)
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コメント
タクシーエッセイ、興味深く拝読しました。
ともすると自分の狭い世界での価値観に留まって、他の価値観を持つ人がいる世界を拒絶してしまいがちになります。それは私だけに限らず、多くの人が歳を重ねるごとに強くなっていく傾向かもしれません・・・。
不特定多数の方と接する職業ならではの視点でのお話を読みながら、そんなことを私は考えておりました。
また、タイトルにお使いの木枯らしの句がとても素敵で、情景がまざまざと目に浮んで、空間スリップをしたような感覚を受けました。
「散らす葉のない木枯らしは 空に啼く」
見よう見まねの不調法なものですが、木枯らしの句を拝見してこんな言葉が浮びました。平野の田んぼや草原に立った時の、ひゅうぅぅ・・・と木枯らしが空を鳴らしていく音です。(もしかすると鳴っているのは電線かも)
今年の冬はまだまだ暖かくて、冬になった感じが薄いですが、もう落ち葉のシーズンも終わりですね。木枯らしが最後の枯葉を叩きつけるように散らしていく音が好きで、その音を聞くと、ああ冬だなあと思います。でも今年はその音を聞く機会がなくて、ちょっと残念でした。
投稿: 縷紅 | 2006/12/16 17:34
縷紅 さん、こんにちは。コメント、ありがとう。
狭い価値観。運転手もお客さんも誰でもがそれぞれの価値観や常識の中で生きている。短い時間、一つの空間を共有している。
愛称が合うか合わないかって結構、大きい。こちらの善意が通じるかどうかは微妙な時がしばしば。
この稼業をやっていて、人と人とが向き合う、1対1の凄い仕事だとつくづく感じています。背を向けていても、神経は(運転上の安全そのほかは当然として)お客さんに向いている。
時に無口に運転することがあっても、それは安全第一だからこそのこと。路上を走っていることの危険性を熟知するからだからこそのこと。それだけ真剣なのだということを分かってほしい(車の運転なんて、誰でもできること。楽して商売しているという思い込み。政治家も役人もこの仕事の困難さをまるで理解していない。不況の際の首切りされた中年の恰好の受け入れ口だと思っている。そんな風潮の中でタクシー業を理解してもらうってのは、無理は承知な願いなのだろうけど)。
「木枯し」という季語の織り込まれた名句に、「凩の果はありけり海の音」(池西言水)があります。嗜みのある方だと、ははーん、この句を踏まえていると、見透かされているのかもしれない。
でも、小生の句「木枯しや散らす葉もなく闇に消え」も、ささやかなりとも小生らしさが醸し出されているものと思うけど。
不況で走っても走ってもお客さんが見つからないという不毛感(徒労感)を詠い込んでいるとまでは深読みする必要はないのですが(自分のや自分の気持ちを木枯しに喩える人も少ないのかな)。
「散らす葉のない木枯らしは 空に啼く」(縷紅)
都心では葉っぱが落ち尽くした裸木が目立っている。路上の落ち葉も週日だとビルの管理関係者らが掃除するけど、土曜日の深夜の官庁街だと、散った葉っぱが路上に吹き溜まる一方。都会では見られないはずの落ち葉道が束の間、生まれる。
木枯しは、木々の葉っぱを落とし尽くしたら、今度は、そうした葉っぱを玩んでいるようです。
木枯しや吹き溜まる葉と戯れし
投稿: やいっち | 2006/12/17 11:20