丸山真男…音の日は沈黙の声耳にせん
[本稿は、ココログがメンテナンスで更新が出来なかった日、「ameblo版 無精庵徒然草」にてアップさせていた記事(の転記)です。 (06/12/09 記)]
「今日は何の日~毎日が記念日~」によると、今日は「音の日」だとか。
「日本オーディオ協会が1994(平成6)年に制定」したもので、「1877年、エジソンが自ら発明した蓄音機で音を録音・再生することに成功し」、「オーディオや音楽文化・産業の一層の発展を図り、音について考える日」なのだとか。
→ 中野雄著『丸山眞男 音楽の対話 』(文春新書)
小生は、このところ、音楽三昧である。
ほんのしばらく前までは、「車中では音楽三昧?!」などに見られるように、音楽は営業の車の中での楽しみに限定していた。
だからこそ、車中では好きな曲などが稀に架かると、それはまさに干天の慈雨であり、渇いた喉、渇いた心、渇いた魂に沁みる一滴の寒露だった。
それが、自制の念を忘れたわけではないのだが、つい、図書館で書籍と共に音楽CDを借りてしまった。
一旦、借り始めると病み付きになるのは目に見えている。
案の定、とっかえひっかえの毎日(というか、実際は図書館へは週に一度か二度しか足を運ばないのだが、図書館へ足を運ぶ度という意味だと理解願いたい)となってしまった。
今も、ショパンとスクリャービンとビル・エヴァンスのビアノ(CD)を借りていて、在宅の間はほぼ終日、どれかを架けている。
そう、「週末は音と本とに三昧だ 」、というわけである。
というか、在宅している間は、音と本(と居眠り)三昧だ、と言い換えるべきか。
但し、読書と執筆と居眠りが趣味であり、在宅している場合でも、食事や洗濯、買い物などの雑用以外の時は読書か執筆か居眠りに興じている小生、CDを聴くといっても、CDに聴き入るというより、要するにナガラでの聴取になっている。
若い頃は、読書や執筆の際は、部屋の中が静かでないと我慢ならなかった自分。
年を取るに従い、多少は外が煩くでも神経が苛立つことはなくなったが、それでも、読書や執筆の(あるいはパソコンに向う)際には、テレビは勿論だがラジオも聴かない(そもそも、自宅にはラジオがない!)。 また、テープもCDも一切、シャットアウトだった。
それが、今じゃ、何かしらの曲を流しながら、音の満ち溢れる中で読書し執筆し居眠りする。
そう、小生、居眠りする際も音楽は消す。車中にあっても、睡魔が訪れたなら、あるいは訪れているような感じがあったなら、即、ラジオはオフにしてしまう。
(車中での居眠りの際には、ラジオをオフにするという習慣は今も続けている。)
さて、小生は今、自宅ではこの日曜日から、トーマス・マン著の『ファウストゥス博士 』(『トーマス・マン全集6』(円子修平訳、新潮社)版)を読み始めているが、少なくとも最初の百頁の大半は音楽の話である。主人公が音楽の魔に取り憑かれ、ついには楽譜からあれこれ揣摩憶測するようになってしまう。実際のコンサート(演奏)を聴く体験の乏しい中での想像なので、ある意味、頭が先走ってしまっての音楽<体験>なのである。
ところで、車中では、今週の月曜日から中野雄著『丸山眞男 音楽の対話』(文春新書)を読み始めた。
まだ、冒頭の50頁ほどを読んだだけなのだが、改めて丸山真男の凄みを感じている。彼は音楽に造詣が深いってものではなく、まかり間違えれば音楽の研究者になりかねなかったほどに音楽研究に打ち込んだ人なのだ。
レコードなどの所蔵枚数が多いとか、コンサートへ足を運ぶ回数が多いとかではなく、政治思想の研究者として費やした時間より、あるいは音楽研究に勤しんだ時間のほうが多いほど。
筆者の中野雄氏の丸山氏との対話もまさに音楽の対話がほとんどで、会えば音楽談義に終始したとか。
丸山真男の研究は、彼の政治思想などの研究スタイル同様(実際に政治活動に関わることも含めて)現場主義であり研究の対象の素材に迫る姿勢が基本。
つまり、LPなどで曲を聴く、コンサートへ足を運ぶのは当然として、彼は楽譜をも徹底して研究したのだとか。難解で、本人も説明が至難だったというワーグナーの楽劇の楽譜も徹底して研究したという。演奏者が参考にしたら助かるほどのものだとか。
そうしたどの頁も彼の手での書き込みで一杯の楽譜が自宅には山のようにあったのだとか。
その丸山真男は、音楽は再現芸術だと強調していたと、中野氏は言う。
レコードなどで再生して聴くから…という意味もあろうが、上記したように、楽譜という生の素材を丸山は念頭に置いている。作曲者はどういった楽想を思い浮かべていたのかを、演奏で聴いて判断するのではなく、あくまで楽譜にまで立ち戻って研究しなければおさまらない。
再現芸術とはいっても、可能な限り素材に迫りたい。
丸山はあくまで素材に拘るわけである。
[本書・中野雄著『丸山眞男 音楽の対話』については、フルトヴェングラーの話題も含め、ブログ「教育の原点を考える クラシックのすすめ(教育編)」が参考になります。再現芸術という話題に付いては、「丸山真男…音の日は沈黙の声耳にせん|ameblo版無精庵徒然草」に寄せられた、pfaelzerweinさんのコメントが参考になります。 (06/12/09 記)]
ということで、「音の日 」の今日、丸山真男を採り上げるのは、タイムリーというわけである。
音楽論というと、小生がすぐに思い浮かべるのは、なんと云ってもショーペンハウアー である。
彼の全集は一通り読んだし、彼の主著である『意志と表象としての世界 』は少なくとも3回、読んだ(全て違う人の翻訳で。西尾 幹二、斎藤 忍随、磯部 忠正ほか)。
ショーペンハウエルに言わせると、音楽とは「意志を直接に表現した時間の芸術」なのだという。学生時代、(ショーペンハウエルがあまり評価していなかった)ワーグナーや、バッハ、ブラームス、ベートーベン、ビートルズ、などを聴きながら(当時は、ナガラではなく、聴き入っていた)沈黙の宇宙に流れる闇の大河を感じていたものだった。
音楽に付いての論はあれこれ読んだし、世に数知れずあるのだろうが、音楽そのものが示されていると感じさせてくれたのは、著作では、ショーペンハウエルの主著において以外になかった。
音の不可思議。
以下は、小生が3年前に綴ったエッセイ(抜粋) である:
海の底の沸騰する熱床で最初の生命が生まれたという。命に満ち溢れた海。海への憧れと恐怖なのか畏怖なのか判別できない、捉えどころのない情念。
命という、あるいは生まれるべくして生まれたのかもしれないけれど、でも、生まれるべくしてという環境があるということ自体が自分の乏しい想像力を刺激する。刺激する以上に、圧倒している。自分が生きてあることなど、無数の生命がこの世にあることを思えば、どれほどのことがあるはずもない。ただ、命があること自体の秘蹟を思うが故に、せめて自分だけは自分を慈しむべきなのだと思う。生まれた以上は、その命の輝きの火を自らの愚かしさで吹き消してはならないのだと思う。 そうでなくなって、遅かれ早かれ、その時はやってくるのだ。
宇宙において有限の存在であるというのは、一体、どういうことなのだろう。 昔、ある哲人が、この無限の空間の永遠の沈黙は私を恐怖させる、と語ったという。宇宙は沈黙しているのだろうか。神の存在がなければ、沈黙の宇宙に生きることに人は堪えられないというのだろうか。
きっと、彼は誤解しているのだと思う。無限大の宇宙と極小の点粒子としての人間と対比して、己の存在の危うさと儚さを実感したのだろう。が、今となっては、点粒子の存在が極限の構成体ではないと理解されているように、宇宙を意識する人間の存在は、揺れて止まない心の恐れと慄きの故に、極小の存在ではありえない。心は宇宙をも意識するほどに果てしないのだということ、宇宙の巨大さに圧倒されるという事実そのものが、実は、心の奥深さを証左している。
神も仏も要らない。あるのは、この際限のない孤独と背中合わせの宇宙があればいい。自分が愚かしくてちっぽけな存在なのだとしたら、そして実際にそうなのだろうけれど、その胸を締め付けられる孤独感と宇宙は理解不能だという断念と畏怖の念こそが、宇宙の無限を確信させてくれる。
森の奥の人跡未踏の地にも雨が降る。誰も見たことのない雨。流されなかった涙のような雨滴。誰の肩にも触れることのない雨の雫。
雨滴の一粒一粒に宇宙が見える。誰も見ていなくても、透明な雫には宇宙が映っている。数千年の時を超えて生き延びてきた木々の森。その木の肌に、いつか耳を押し当ててみたい。
きっと、遠い昔に忘れ去った、それとも、生れ落ちた瞬間に迷子になり、誰一人、道を導いてくれる人のいない世界に迷い続けていた自分の心に、遠い懐かしい無音の響きを直接に与えてくれるに違いないと思う。
その響きはちっぽけな心を揺るがす。心が震える。生きるのが怖いほどに震えて止まない。大地が揺れる。世界が揺れる。不安に押し潰される。世界が洪水となって一切を押し流す。その後には、何が残るのだろうか。それとも、残るものなど、ない?
何も残らなくても構わないのかもしれない。 きっと、森の中に音無き木霊が鳴り続けるように、自分が震えつづけて生きた、その名残が、何もないはずの世界に<何か>として揺れ響き震えつづけるに違いない。 それだけで、きっと、十分に有り難きことなのだ。
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