ラディゲにはのらくろ生きる我遠し
「今日は何の日~毎日が記念日~」を徒然なるままに覗いていたら、今日、12月12日が忌日である作家に「レイモン・ラディゲ」がいることを教えられた。
← ラディゲ著『肉体の悪魔 改版』(新庄 嘉章訳、新潮文庫)。初めて読んだ時、中身より、著者が16歳から18歳の頃に書いたということ、ジャン・コクトーに激賞されたこと、20歳で死んだことに痺れていた! 最後に本書を読んだのは何時だったろう。今、読んだら、どんな感想を持つだろう。
さらに今日は、『のらくろ』で有名な田河水泡の忌日でもある。
小生の漫画体験の原点は、まさしく田河水泡の『のらくろ』だった(ペンネームについてのエピソードが面白い!)。
物心付くころには「のらくろ」が我が家にあった。
百頁ほどの週刊誌大の冊子で、父が紐綴じにしていた。まるで古文書を保存するかのように。小生とは違って、父は几帳面なのである。
絵本や童話を読んだことよりも『のらくろ』のほうが自分には印象的である。活字の嫌いなガキだった小生は、絵の多い本に惹かれたのだろうか。
といって、『のらくろ』に夢中になったわけではなかった。
→ 「田河水泡・のらくろ館」
むしろ、何処か陰気な雰囲気を嗅ぎ取っていて、当時はまだ他に眺める漫画の本がなく、日が暮れて、外で遊ぶのも疲れ果て、余儀なく眺めていたような気がする。
そう、昭和の三十年代前半のことで、まだ、テレビも我が家にはなかったのだ。
その後、漫画の本を読むようになっても、依然として『のらくろ』は手放せなかった。
というのは、読むといっても、未だ買えなかったし、近所の貸し本屋さんで借りるのがせいぜいだったのだ。
常に傍にある漫画の本というと、『のらくろ』ということになってしまうのである。
万年二等兵か、せいぜいでもやっとのことで二等兵ののらくろは、陸軍の陰湿ないじめ体質の中で、のびのびと、そして気楽そうに日々を過ごすのだが、印象の中では、あくまで虐められる日々をサバイバルしているという感が強い(実際の漫画の内容は忘れてしまった)。
まあ、平成元年に90歳で他界された田河水泡のこと、「のらくろ」のことは別の機会に書くことがあるだろう。
今は、「日本漫画家協会・田河水泡のらくろ館」などを覗いて欲しいと思う。
← レイモン・ラディゲ著『ドルジェル伯の舞踏会』(堀口 大学訳、講談社文芸文庫)
レイモン・ラディゲ(Raymond Radiguet, 1903年6月18日 - 1923年12月12日)に話を戻す。
『肉体の悪魔』の作家、あとはというと、『ドルジュル伯の舞踏会』であり、これらを読むと、彼の文学のほぼ全貌が見渡せる(理解できるかどうか、消化できるかどうかは別儀!)。
夭逝の天才作家というとその筆頭にレイモン・ラディゲが挙がるのではなかろうか。
日本にしても、『たけくらべ』『にごりえ』の樋口一葉を初め、名前を挙げられないことはない(一葉については、拙稿「一葉忌」参照)。
でも、やはり、レイモン・ラディゲが極め付けだろう。
のちにラディゲに代わって小生が惹かれていくアルチュール・ランボーだって、37歳で亡くなっている。まだガキだった当時の小生にしたら、そこまで生きたら十分じゃないかってものである!
(ちなみに、『アンネの日記』の著者であるアンネ・フランクは15歳で亡くなったことを思うと、作品のレベルの高さからして、彼女こそ夭逝の天才であり妖精の天才でもあったと思う。数年前に完全版を再読して、つくづく痛感させられた。)
→ レオポルト・インフェルト著『ガロアの生涯―神々の愛でし人』(市井 三郎訳、日本評論社)。中学から高校に掛けて、何度、読んだことか。あまりにドラマチックな生涯。死後にその業績を知られる不遇な境涯。ガキの小生も、若くして不遇な死を迎え、死後、その天才ぶりが日の目を見る…はずであった! 今の小生は、波風の立たない日々をひたすら希(こいねが)うばかりです。
これは、小生の中の勝手な連想に過ぎないのだが、レイモン・ラディゲというと、すぐエヴァリスト・ガロア(Évariste Galois, 1811年10月25日 - 1832年5月31日)を連想してしまう。
なんの共通項もあるわけではない。一世紀も時代が違う。せいぜい共にフランス人であるということだけ。
そう、彼らは小生の中の、特に高校生の頃の小生のヒーローだったのである。
若い頃は少なからぬ人があからさまにか密かにかは別にして、英雄願望の念を沸々と滾らせているものではなかろうか。小生が若い頃は多くの人がそうだったような気がする。
ガロア理論などまるで理解できもしないのに、数学が好きだったというだけで、ガロアを英雄視していたのである。
「ガロアが彼の弟であるアルフレッドに発した最期の言葉は、「泣くな、20歳で死ぬには勇気が必要なんだ」とされる」というが、これが思春期の少年たる小生の琴線を叩かないわけがない!
一方、レイモン・ラディゲの『肉体の悪魔』を初めて読んだのはいつなのか、覚えていない。
そもそも最初に読んだ時は、小説の中身に感銘を受けたわけではなかったような気がする。
徹底した心理描写にガキだった小生が付いて行ける筈もなかった(あるいは…、今も?)!
解説の中で、「14歳の頃、『肉体の悪魔』のモデルとされる年上の女性と出会い」、「自らの体験に取材した長編処女小説『肉体の悪魔』の執筆にとりかか」った点に、頭の中は女のこと、セックスのことしかなかった小生は、もう、圧倒されたのである。
単純に羨ましかったというべきか。中学生の頃は、ただ通学のために歩いているだけでチンコが鉄の棒になってしまう。学生服の裾で、あるいはズボンのポケットに手を突っ込んで、高鳴る(高く成る)得物を隠しつつ歩いていた。
ませたガキがポケットに手を突っ込みがちなのも、まあ、似たような理由があるものと想像する。
← 先週の金曜日、夜半過ぎに小憩を取った公園の脇にあった謎の家。…って、小生の撮影が下手で怪しい雰囲気が醸し出されただけなのだが…。いつか、こんな家に住んでみたいもの。
『肉体の悪魔』は、今回は言及しないが(観ていないし)、映画化もされている。
この頁を覗いてくれた方のために、ラディゲが生まれた家やの愛したマルヌ川の画像を載せているサイトを示しておく:
「フランス5日目 10/18 パリ、ロワール地方」(「秋のフランス大周遊」の中の「フランス日記・5日目 旅行記」も参照)
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コメント
はじめまして、アンナと申します。
ラディゲを読んだ最初は中学の頃で、「乾いた象牙のコマが触れ合う音」を理解するには幼すぎたようです。
とはいえ、ラディゲもそれほど年が上だったわけでもないのですが。
その後ランボーに移行したのも同じで楽しくなりました。
映画もみましたが、フェラール・フィリップは私の目には年が行き過ぎていて(好みの顔でない、という理由も?!笑)本とは印象がかわってしまってイマイチでした。
それにくらべるとレオナルド・デカプリオのランボーはイメージどおりでした。ヴェルレーヌ役もびったりで楽しめました。
因みに三島由紀夫が書いた「ラディゲの死」いいです!
長々と失礼しました。
投稿: アンナ | 2006/12/16 06:01
アンナさん、こちらこそはじめまして!
来訪、コメント、ありがとう。
ラディゲを中学の時に読んだってのは、それだけでびっくり。
今から振り返ると、ラディゲと中学や高校生とはそんなに年齢が違うわけじゃない。
でも、中学の時だと、1歳2歳の違いは随分大きな違いを感じさせたものでした。高校生など大人に見えたような。
映画『肉体の悪魔』、小生は観ていない。
フェラール・フィリップは相当な美男子だったようですが、そこは好みがあるね。小生は、『太陽がいっぱい』のアラン・ドロンには参ったね。
『太陽と月に背いて』も観ていない。レオナルド・ディカプリオもデヴィッド・シューリスもはまり役という感じで評判のいい映画のようですね。
三島由紀夫が書いた「ラディゲの死」、これも読んでいません。三島が若い頃に書いたらしいけ。彼も夭逝の天才に刺激を受けたのでしょうね。若くして(綺麗な肉体のうちに)死にたいという美学(?)があったのかも。
いろいろ刺激をくれて、嬉しいです。
投稿: やいっち | 2006/12/17 10:53
管理人さん、返信ありがとうございました。
恥ずかしい間違い発見。
フェラール・フィリップって誰?(笑)
ジェラール・フィリップですね。
ディカプリオも「ィ」抜きだし。ほんとにもう・・・・
私の趣味ではありませんが、アラン・ドロンの若い頃って
ほんとうに美しい。「太陽がいっぱい」もそうだけど、
「山猫」とか。青い目に黒い髪。ラテン系だけど、あまり見かけない
顔だちです。
だから「太陽・・・」のリメイク「リプリー」はちょっとねえ。
マット・デイモンではイメージが・・・
投稿: アンナ | 2006/12/18 05:13
アンナさん、わざわざ訂正、ありがとう。
映画をあまり観ない小生は、いろんなサイトで映画評を読んで、映画を、というより自分なりに映画を想像している。
映画で男性の俳優には、かならずしもファンになっている人はいない。ボンド役を卒業してからのショーン・コネリーとか、マーロン・ブランドとか、「ゴッドファーザー」のアル・パチーノ、「タクシー・ドライバー」のデ・ニーロなど。古い?
アラン・ドロンも「太陽がいっぱい」の中のドロンがいい…。ってことは映画の魅力がプラスしているのかな。
投稿: やいっち | 2006/12/18 12:03