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2006/12/11

オートバイ我が唯一のパートナー

 小生は今年、辛い別れを経験した。
 といっても、人との別れ、ではない。
 オートバイとの別れ。
 おおよその経緯は、「馬橋パレード…オートバイとの別れ」にメモしておいた。
 まさに、メモ書きに終わっている。
 たまたま、上掲の記事を書いた日、つまり、8月19日は、819ということでバイクの日なのである。
 その日に合わせたわけではないのだが、偶然、8月19日にバイクを手放したのだった。

Silverwing_20501201

→ 「ホンダ シルバーウイング<600>」。我が最後のバイクは、このスクーターだった。

 その記事から、一部だけ転記する:

 小生がバイクの免許を取ったのは、1974年の夏。学生生活を送っていた仙台でのこと。当時、宮城県では(多分、全国共通だろうが)オートバイの免許は小型・中型・大型に分けられていて、小生はまずは小型に挑戦した。
 イタズラでも乗ったことの無い小生、少々苦労はしたが晴れて免許を取得。
 即座に中古の125ccバイクを買った。半年後の冬、大型に挑戦、一発合格!
 以来、上京した78年の春から81年の春までの3年間の中断を覗くと、ずっとバイクと生活を共にしてきた。共に歩いてくれる人生のパートナーには一度も巡り合えなかっただけに、オートバイは小生の人生のパートナーといって過言ではない。
 ずっと苦楽を共にしてきたのだ。
 免許を取って今年で32年。乗った期間は29年間だ。

 ということで、表題は、「オートバイ我が唯一のパートナー」としたが、実際は、「オートバイ我が唯一の人生のパートナーだった」ということになる。
 読み返してみたら、一部、間違いのあることに気づいた。

 免許を取得したのが74年の初めも初め、冬休みの時で、免許取得後間もなく、恐らく74年の冬休みの間には中古のバイク(オートバイ)を入手。記憶では2万5千円だったっけ。
 以来、ずっと乗っていたわけではないことは転記した文にある通りだが、免許取得後、仙台に居た間にもオートバイのない期間があった。中古で買ったバイクは、買ったその年の夏、つまり74年の夏には約2000㌔に至る(仙台、東京、三島、富山、新潟、仙台)というロングツーリングの最中に危険を感じるほどに不具合の度が増し、仙台に帰り着いて間もなく1万円(数千円だったかも)で手放した。

 76年か、恐らくは77年だったかに50ccのバイクをゲット。78年の春まで乗っていたが(78年の春、東京へ引っ越した際にも一緒だったのだが、東京の交通事情に恐れをなして東京では数日しか乗らないままに富山へ荷物として送ってしまった)。
 次にバイクに乗り始めたのは、82年に250ccのオートバイを入手した時からのこと。
 つまり、78年の春から82年の春までの4年間は(一時、自転車などを使っていたが)、オートバイとは縁が切れていた。ただ、82年の春からは、2年から8年の所有期間(車検期間)ごとに乗り換えつつ、06年の夏までは途切れることなく乗り続けていたのである。

 となると、都合、74年の夏(あるいは晩秋)から今年(06年)の夏(8月)までの、都合、約33年間から約6年間のブランク(バイクのない期間)を除くと、28年間のライダー生活ということになる。

 詳しくは、バイク乗り換え(買い替え)の履歴も含め下記を参照のこと:
My Hobby オートバイ

 オートバイのことなど、興味のない人にはどうでもいいことだろうが、小生には、実際上、唯一のパートナーだった。
 なので、簡単にでもライダー人生(半生と言うべきか)をメモしておきたかったのだが、学生時代以降の日記類や手帳の類は手元にない(あるいは紛失してしまった)。
 あるだけの資料を元に、メモすることも考えたが、それでも大事になる。結構な長文になるのは目に見えている。
 億劫でもあるし、時間を費やすことになるので、ついつい先延ばしになってしまったのである。
 人生のパートナーをただの一人ももつことのなかった小生だが、唯一、パートナーと言えるのはバイクだけなのである。
 まさに、文字通り、雨の日も風の日も台風の日も雪の日も、風邪の日も黄疸で死にそうな日も、窓際族の仲間入りとなった日、そして数年の窓際族時代も会社を首になった日も、嬉しいことがあった日も、悲しいこと辛いことがあった日も、失恋した日も、常に傍(無論、乗っていない間は、部屋ではなく、駐車場に止めている)にいてくれたのは、バイクだったし、バイクだけだった。
 人恋しい、一人が嫌いな小生だが、人といるのがもっと苦手だったりする。
 男の友も、女も、心を割って付き合う人は持てなかった。
 これは性分なのだろうから、自業自得だと納得している。
 今更、どうにもならないだろうし。

 雨の日。それは通勤にバイクを使っていたから、雨の中を通学(通勤)し、雨の中を帰宅する、あるいは雨を突いて用事を済ませに出かけるのは当然というだけの意味ではない。
 サラリーマン時代、週末は必ずツーリングに出かけた。今日は晴れだし気分がいいから出かける、というわけじゃなかった。雨が降ろうが槍が降ろうが、断固、ツーリングへ出かけるのだった。
 終日、冷たい雨の中を走り続ける。
 小生の場合、ツーリングというのは名勝を愛でに行くのは口実で、食事とトイレ休憩以外は、ほとんど乗り続けている。一般道を日に500キロ前後、走る。走り続けている。
 夏の雨は冷たくない? とんでもない!
 どんな立派な合羽を羽織っていても、雨は透き間を突いて沁み込んでくる。縫い目を襟元を、裾の捲れを狙って、体を毛細管現象とばかりに、雨水が伝う。
 夏の日は、暑い風が体に叩き寄せてくる。走行風が体熱を奪っていく。
 まして、雨の日だと、衣服の中、深くまで浸透した雨を風が撃つ。体熱と共に体力も消耗していく。
 真夏でも炎天下を、あるいは雨の中を走り続けていると、意識が朦朧としてくることがある。
 綺麗な表現を使えば、ランナーズハイならぬライダーズハイな状態に陥っていくということだ。
 実際上は、ある種の過酷さに耐え切れず、神経が麻痺して、不快なのか快感なのか自分でも定かならぬ境位に落ち込んでしまっているということなのだろう。
 目的地から帰宅の途に着いて、さて、東京の我が自宅まで数百キロも雨の中、あるいは渋滞の一般道を走り続けなきゃいけないとなると、まともな意識の状態では絶望的な気分に襲われてしまって、走る気力も萎えてしまうのだ。
 ともすると、バイクを置いて、置き去りにして、何処かのバス停か駅から公共の輸送手段を使って帰りたい気分にさえ、往々にしてなってしまう。

Pic_0082

← 一番好きだったバイクは、「XJ650ターボ」。ターボだったので、愛称はター坊!

 台風が襲ってくる。台風の勢力からは逃れられる計算だったのに、ちょっとした計算間違いで(しばしば、間違う!)、台風と追いかけっこになってしまったり。
 風にバイクが体が揺さぶられる。その気もないのに、車線を跨ってまで蛇行する。下手するとガードレールまで揺さぶられていく。
 ぶつかる! 
 崖っぷちだ!
 路肩には砂が浮いている。雨の日の砂地は、まるで油の撒かれた鏡の面だ。そんな路面でハンドルを切ったなら、間違いなくタイヤは滑り、バイクも滑り、転倒に至る!
 ぶつかる寸前までブレーキを我慢する。バイクを可能な限り直立させた状態で徐々にブレーキを掛け、スピードを緩め、飛び出しそうな心臓を胸に収め、道路上の白線内にバイクを戻し、さも、何事もなかったように走り続ける。

[掌編「誰がために走るのか」参照。]

 雨の、あるいは雪の日のツーリングはその連続なのである。しかも、道は遥か。何処かの近場の宿に止まるという発想は小生には欠片もない! 人が怖いからバイクとのみ付き合っているのだ。
 それが何処であろうと、宿などに一泊してなる物か!
 
 正月の帰省にバイクを使ったことも4回だけあった。
 そのうちの3度は雪だった。
 計算上は、日中、日の高いうちに中部山岳の高い部分を越えて、日の落ちる頃には日本海側の道路を走っているはずだったのだが、小生の得意な計算間違いで、雪中を強行突破するしかなかったことも。
 あるいは、道路上に雪がないからと安心していたら、カーブを曲がった途端、日陰ということもあって、溶け残っていた雪の塊の中にまともに突っ込んでしまって、キンタマが思いっきり縮こまってしまったことも。
 路肩に雪のある中央高速を80キロほどの速度で安全に淡々と走っていたら、山梨の終わり、そろそろ長野という辺りで(?)、うねるカーブのどこかが凍結していて、ズルズルと滑り始め(というより、スルスルーとか、ツツーという感じだったか)、ブレーキは当然、禁物なので、凍結面上はバイクの走るままに任せ、危ない領域は越えたかなという地点に来たところで、ブレーキを踏み締め、ガードレール寸前で止まったこともある(何度となく)。

 一番、ひどかったのは、雪の関越自動車での遭難未遂だった(これは、いつか、その日の日記が見つかったら、レポートにするつもり。いつになるか分からないので、以下、概略をメモしておく)。
 
13_603

→ 一番、長く乗ったオートバイは、「ホンダ パシフィックコースト」。本田総一郎氏の命日に入手したこともあって、愛着があった。このバイクで関越自動車道での雪の遭難未遂に遭った!

 国境の長い関越トンネルを抜けると、それまでの快晴、雪なし(路肩には溶け切れない雪の塊はあったが)が嘘のような雪国。雪は激しく降っていて、鉛色の空、積雪は路肩で60センチほどだったか。
 だが、道路面に車で踏み固められた圧雪。
 トンネルを抜けた時刻は、昼過ぎだったか(そう、計算上、昼間のうちに山間部を越えてしまうつもりでいたのだ)。
(雪道、凍結面での走行と転倒は、仙台時代にさんざん経験して馴れている?!)

 圧雪の高速道路を全くのノーマルタイヤで走る恐怖。百メートルも走らないうちに滑って転倒。バイクはガソリンや装備も含め300㌔という重量。一キロの間に十回以上、転倒。
 雪は降り頻っている。車は延々と続く渋滞(正月前で且つ、湯沢近くだったので、帰省の車のみならず、スキーへ向う車が多かった)。
 そんな転倒走行を50㌔だったか60㌔だったか、続けたのだった。少なくとも500回は転倒している。
 しかも、やっと出逢った(!)料金所がまた、難関だった。自動車道から料金所へ至る道が上り坂(緩やかな坂だったけれど)。しかも、圧雪。夕方に近い時間になっていたので(そう、60㌔ほどの雪の自動車道をバイクで6時間ほどを費やして走っていたことになる)、降り積もった雪が凍結してしまっている。
 なので、緩やかでなだらかない曲がっている料金所への坂道が滑って上れないのだ。
 無論、バイクを降りて、手で体で押して上っているが、300㌔という重量のバイクを凍結面を押して上るのは絶望的に難儀なことだった。
 しかも、小生、自動車道での数百回にわたるバイクの転倒・引き起こしで疲れきっている。体力などカラッケツになっている。でも、歯を食いしばって夕暮れの坂道を押して歩いたのだった。
 辛い状態は、なんとか料金所を突破できてからも待っていた。
 やっと高速道路を出ることが出来た。どこかのバイクの店で救援を助けを求めようと思った、のだったが。
(長くなったし、もっと書くべきことが多いので、この遭難未遂帰省ツーリングは別の機会に譲る。)

 バイクとの日々については、メモ書きするだけでも、長いリストになってしまう。
 バイクと過ごした日々、唯一の人生のパートナーであるバイクだけが知っている自分の心情、ストイックなまでのバイクツーリング。
 何ゆえのストイシズムなのか。
 その点についてこそが、肝心の眼目なのだが、下手に書き始めると、一冊の本程度は軽く書けてしまうあれこれが思われ、手が出せない。

 
帰省日記拾遺(2) [2005年05月09日(月)]
高速道路での2人乗りバイク走行

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受信: 2006/12/14 17:48

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