寅彦忌…海月(くらげ)なす湯殿の髪の忘れえず
「今日は何の日~毎日が記念日~」の今日、つまり大晦日である「12月31日」なる頁を開いてみた。
すぐに、「寅彦忌(冬彦忌)」の項に目が留まった。
他の項目も眺めて、画家のアンリ・マチスの誕生日だとか、『羊たちの沈黙』などで有名なアンソニー・ホプキンスの誕生日でもあるとか(珍しく、原作も映画も共に良かった!)、この前のフィギュア全日本で彼女としては悔しい結果に終わった村主章枝さんの誕生日だとか、画家のクールベ(三ヶ月ほど前に「クールベや始原の旅のあたたかき」にて扱った)や富岡鐵齋らの忌日であるとか、触れてみたい方々がいることに気づかされる。
← 正月を迎える縁起物を買いに出かけようとしたら、北陸の冬には貴重な青い空に月影が。画像では、よほど目を凝らさないと見えないけど。
でも、小生の嗜好もあって、やはり気になるのは、「寅彦忌(冬彦忌)」の項だ。物理学者・随筆家の寺田寅彦の忌日なのだ。
彼に付いて正面切って扱ったことはない。
「人間を定義する」や「人間を定義する(続)」にて、若干、触れている。
これらは、「喫煙四十年」という寺田寅彦のエッセイの中で、「しかし人間は煙草以外にもいろいろの煙を作る動物であって、これが他のあらゆる動物と人間とを区別する目標になる。そうして人間の生活程度が高ければ高いほどよけいに煙を製造する」という下りに興味が掻き立てられ、「人間を定義する」というテーマで自分なりにあれこれ綴ってみたもの。
「煙を作る動物」という定義に一旦は感心したものの、「煙を作る動物」とは、つまりは、火を使う動物の言い換えに過ぎないことに気づいて、というか、気づくのに手間取ってしまって、そんな自分に落胆したという、情けないオチが付いている雑文なのだった。
さらに今年の正月早々の頃に、「魔の雪」と題したエッセイを書いている。そこでは「雪」(さらには「形」)をキーワードに中谷宇吉郎や寺田寅彦らを扱っている。
先に進む前に、昨年の大晦日に何を書いたが気になって、開いてみると、「物語…虚構…世界…意味」だって! 結構、大仰なテーマを扱っている。
せっかくなので、一部を転記してみる:
言葉への詮索という形にしか人様には見えなくても構わない。自分としては言葉へのこだわりの営為を通じて、その言葉の風景や情景を思い浮かべ、できれば自らの体験として追体験することこそが大切なのだ。
言葉は言葉に過ぎない。まして現代のように映像が、絵画を含めた静止した画像(写真)や動画(録画)、さらにはリアルタイムの映像さえネットを通じて閲覧・鑑賞することができる中にあって、言葉に執心する姿勢はアナクロニズムに過ぎないように映るかもしれない。
小生は、末期の時の、普段なら胸の奥に仕舞われている魂の裸の姿を想う。末期を命が絶える時と限定する必要はない。ぎりぎりに追い詰められた瞬間と限定してもいい。その土壇場、その刹那、その喘ぎ。そうした瞬間が言葉になるはずもない。
路傍の花や草だって、今になってさえも枝に落ち残る枯れ葉の姿だって、小さな命の数々だって、その丸ごとを表現する言葉などあるはずもない。
自分の掴みきれない想いも、その壊れやすい形のままに表現することも叶わない。
けれど、それでも最後の最後の瞬間に人は何か言葉を発する。その言葉は神か仏へのメッセージや懇願でもあろうけれど、同時に胸の奥に潜む誰かへのメッセージであるに違いない。
語り得ないことを語る。叶わぬ思いを伝える。その矛盾の中に人はいるのだと思う。
このブログで小生が薀蓄を傾けている、言葉への詮索が好きなのだと誤解されている方が多いようだ。そのように思われてしまうのは、小生の不徳の致すところだ。
実際には、記事(日記)を書きながら調べ、調べながら日記を綴るというのが実情。
知らないことであり、関心を呼び起されたから、そのような営為を行なっている。
つまり、「自分としては言葉へのこだわりの営為を通じて、その言葉の風景や情景を思い浮かべ、できれば自らの体験として追体験することこそが大切なのだ」と常々思っている。
大切なのは、(追)体験することなのである。
細かな記述内容は、小生は、書いた傍から忘れていく。ただ、調べようとしたこと、知りたいと思った気持ち、調べつつ想像したり妄想めいたことを想ったり感じたりしたことは、ささやかなりとも自分の体験にしたいと思っている。
→ 表から裏へ向う道。植え込みにはミカンの木が1本。今年は豊作。しかも、柚子ほどに実が大きくて甘い!
自分でも、ちょっと懐かしいので、「物語…虚構…世界…意味」から、今度は、虚構を作るということを巡っての記述の一部を転記しておく:
物語とは何だろうか。虚構作品を敢えて綴る意味とは何だろうか。
小生は虚構作品を織り成す場合は、自分の実体験とは離れた位相に自分が立っていることを感じる。いつかあんなことがあったと思って、それをネタに書こうと思っても、一端、一行か二行も文字を連ねてみると、そこには既に活字の持つ独特な存在感が小生を圧倒してしまう。
ほんの数行が己の存在を誇示し、小生の思惑など吹き飛ばし、虚構の世界特有の時空の論理が全てを差配する。たまにこんなストーリーを展開しようと思ったことがあったとしても、虚構の空間にはその世界特有の風が吹いている。その風が自分を何処へ運んでいくのか分からない。下手すると現実の世界よりも混濁した、圧倒するような現実の出来事の洪水よりも咀嚼の叶わない、ただたた文字通り風の吹くまま気の向くままの果ての異境の世界に紛れ込んでいくのかもしれない。
想像のあまりの高みに舞い上がって、ひと時は高みの見物の快感に浸っても、いつかは降りる瞬間がやってくる。降りる…と言いつつ、実際には吹いていた風が気まぐれにもパッタリと止んで、真っ逆さまに落ちるだけ。想像の翼は乗せるには都合がいいけれど、降りる時まで翼に乗せてくれて丁寧に地上世界へ、つまりは現実の世界へ滑るように戻してくれるほど優しくはない。
それでも、数行の書き出しからの虚構の旅は、その翼に乗らないことには全く始まらない。終わりの時、着地点を約束されない旅。想像の高みは、時の勢いで上っていったとしても、そのあとのことはまるで見えない旅。
物語が綴られていく。物語は活字の連なりの中で命を持っている。命を途絶えさせるわけにはいかない。生命力というエネルギーの流れに揺られ流されていくしかない。時代も世界も見えない以上は、自分の意思よりも願いよりも身の安全よりも、とにかく今は流れていく。舵などない。舳先がどっちにあるかも分からない。同舟する人も居ない。せいぜいが生命力の枯渇した己の心だけ。
一昨年、少々過剰なほどに掌編作りに熱中しすぎて、昨年、今年と、やや虚構世界に遊ぶことを逡巡してきたように思う。
来年のことを言うと鬼が笑うというけれど、文を書くとは恥を掻くことだと思うし、鬼ごときに笑われたって、今更、どうってことはないのだ。
あれれ。寺田寅彦のせめて周辺くらいは巡るつもりだったのに、思いっきり脱線している。
でも、「教授 松下貢--中央大学松下研究室」の文中にあるように、「寺田寅彦が注目していたのはまさしく「複雑系」そのものであ」り、「カオス・フラクタル・非線形物理やそれらの発展・延長線上にある「複雑系の物理」の視点」を大切にしていたのだ、少々の蛇行や道草など、笑って見過ごしてくれるだろう。
← 寺田寅彦著『柿の種』(岩波文庫)
この文を綴っている最中に<発見>したのだが、小生には、「寺田寅彦著『柿の種』あれこれ」という雑文(読書感想文)もあるのだった。
この中で、小生は『柿の種』から若干の転記を試みている。
その転記文をここにも再転記しておきたい:
脚を切断してしまった人が、時々、なくなっている足の先のかゆみや痛みを感じることがあるそうである。
総入れ歯をした人が、どうかすると、その歯がずきずきうずくように感じることもあるそうである。
こういう話を聞きながら、私はふと、出家遁世の人の心を想いみた。
生命のある限り、世を捨てるということは、とてもできそうに思われない。
(大正九年十一月)風呂桶から出て胸のあたりを流していたら左の腕に何かしら細長いものがかすかにさわるようなかゆみを感じた。女の髪の毛が一本からみついているらしい。右の手の指でつまんで棄てようとするとそれが右の腕にへばりつく。へばりついた所が海月(くらげ)の糸にでもさわったように痛がゆくなる。浴室の弱い電燈の光に眼鏡なしの老眼では毛筋がよく見えないだけにいっそう始末が悪い。あせればあせるほど執念深くからだのどこかにへばりついて離れない。そうしてそれがさわった所がみんなかゆくなる。ようやく離れたあとでもからだじゅうがかゆいような気がした。
風呂の中の女の髪は運命よりも恐ろしい。
(昭和十年九月)
さりげなくだが、こういった文章が寺田寅彦のエッセイには随所にある。
小生が、つくづく残念に思うのは、彼の専門的な論文を読めないこと(彼は物理学者なのだ!)、読んでもまるで理解できそうにないことだ。
ちなみに、俳人・物理学者・政治家であった故・有馬朗人氏に「寅彦忌地軸傾け夕日入る」や「コーヒーの渦を見つめる寅彦忌」なる句がある。
こういう句は、寺田寅彦が物理学者であり、しかも、カオスやフラクタルなど非線形への関心を抱いていた先見の目を持った物理学者だったという側面を理解していないと、作れない句だろう(また、味わいが摑み切れない句でもあるだろう)。
「コーヒーの渦を見つめる」だけなら、小生だって、その移り変わる文様の面白さに見入ることはある。が、見つめるのが寺田寅彦ということで、句の味わいに奥行きが出てくる。
「地軸傾け夕日入る」なんて、俳人・物理学者の有馬朗人氏と寺田寅彦との組み合わせがあって初めて生まれえた句であろう。
[ 表題の「海月(くらげ)なす湯殿の髪の忘れえず」は、『古事記』の中の一節、「国椎く、浮ける脂のごとくして、くらげなすただよえる時に、葦牙のごとく萌え騰る物により成りませる神の名…」を少しだけ踏まえています。「水母・海月・クラゲ・くらげ…」を参照のこと。 (07/01/01 記)]
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コメント
「柿の種」は知りませんでした。青空文庫をちらりと覗いたところではなかなか面白そう。芥川の「或阿呆の一生」や「侏儒の言葉」と通ずる匂いを感じましたが、これは読了しなければ判りませんね。
いずれにせよ断章形式は忍耐強くない私の偏愛するところ。正月休みに餅でも食べながら読んでみます。
投稿: katoushikari | 2006/12/31 11:08
katoushikari さん、コメント、ありがとう。
擦れ違いだったようですね。
「柿の種」に限らず、寺田寅彦のエッセイは好き。理系・文系の枠を超えた自在な発想と観察に脱帽です。
寺田寅彦は、何か文学的意図や野心といったものではなく、日常の観察の中で自然とああいった記述が生まれてくるところに凄みがあるのだと思う。
今、中勘助の作品集を読んでいるのですが、「銀の匙」が名品なのは自明のこととして、今回、「犬」というなかなかの作品を<発見>しました。
もう少しで川端康成の「眠れる美女」や谷崎 潤一郎の「鍵」などの作品に比肩しえるような隠微さがあって。
「伊豆の踊り子」や「雪国」も、川端康成が「眠れる美女」の作家だと知った上で読むかどうかで読解がまるで違ってくるね。
投稿: やいっち | 2006/12/31 11:24
やいっちさん、今年もいよいよですね。
どうか良いお年をお迎え下さいね。
来年も宜しくお願いします。
投稿: 吾亦紅 | 2006/12/31 17:19
「眠れる美女」はいいですね。確かに淫靡そのもの(ガルシアマルケスが「これこそ私が書きたかった小説」と言ったそう)。
「雪国」のたらっとした雰囲気も好きですね。「伊豆の踊り子」はあくまで初初しい青春文学ですが。
「掌の小説」のいくつかにも感心した記憶があります。
「犬」、松岡正剛の「千夜千冊」の記述で題名のみ知りましたが、未読。読むべき本がまた増えました(笑)。
私は今、久しぶりにジャンコクトーを読んでるところ。
それはともかく、良いお年を!
(雪の大晦日と正月が羨ましい。。)
投稿: jean katou | 2006/12/31 17:45
吾亦紅さん、新年を迎えての挨拶になりました。
せっかくの縁を今年は一層、大切にしたいと思います。
本年もよろしくお願いいたします。
小生の句を載せてくださっていることに感謝します。
投稿: やいっち | 2007/01/01 00:06
jean katouさん、コメント、ありがとう。
>「眠れる美女」はいいですね。確かに淫靡そのもの(ガルシアマルケスが「これこそ私が書きたかった小説」と言ったそう)。
「作者七十七歳にして川端の『眠れる美女』に想を得た今世紀の小説第一作」だというマルケスの『わが悲しき娼婦たちの思い出』という小説。既に図書館で予約済み。正月早々にも読めるかも!
「雪国」は、若い頃はピュアな作品として、ある種の結晶として読んでいたけれど、年を経るごとに、この作品の端倪すべからざるものを痛感してきています。
「犬」…。読んで後悔はしない。特に前半が隠微。しかも、書き手が二枚目の作家ということが一層、ジェラシック。
コクトーは久しく読んでいません。思い出させてくれましたね。
ということで、謹賀新年!
投稿: やいっち | 2007/01/01 00:13