マンディアルグ形而上下の愛に生き
「今日は何の日~毎日が記念日~」の「12月13日」の項を覗いてみたら、ピエール・ド・マンディアルグの忌日だという!
他に、今日が忌日の人は、銅版画家の長谷川清とか、画家のカンディンスキーとか、気になる人はいろいろいる。
小生、何も忌日の項ばかりに関心を抱いているわけじゃない。
← アンドレ・ピエール・ド マンディアルグ 著『薔薇の葬儀』(田中 義広訳、白水社)。「エロスと死、残酷と幻想、毒の禁忌、悪魔と愛――マンディアルグの世界は三島由紀夫や谷崎潤一郎との接近によりさらに豊穣な実りをもたらした」とか。
今日が誕生日という人に、女優の芦川よしみ(好きなタイプの人! 怪我、治ったのかな。そろそろ復帰とか)、同じく女優の樋口可南子さん(篠山紀信氏撮影、樋口可南子さんがモデルのヘアヌード写真集『ウォーター・フルーツ』、発売、即、買いました! 今も、振り向くと、画集の収まった棚に燦然と輝いております。蛸と絡む映画! でも、どうして旦那が糸井重里なのか…)、今は代替わりしてしまった(でも、仕事の日は今も、夜半からのこの番組が依然として我がBGMなのである)『ジェットストリーム』などで有名な故・城達也氏、ハインリヒ・ハイネ、『蒲団』『田舎教師』などの作家・田山花袋、漫画家の岡崎京子さんと多士済々。
この誰もが採り上げてみたくなる人物なのだが、今日は、ピエール・ド・マンディアルグ。
といっても、傍を掠めるだけ。
ピエール・ド・マンディアルグというと、そう、『オートバイ』(生田 耕作訳、白水社)である。というか、小生は案外と多作のこの作家のこの作品しか読んでいない。
なのに、何故、この作家に今日、言及するかというと、「オートバイ我が唯一のパートナー」という記事を書いたばかりだからである。
「オートバイ我が唯一のパートナー」なる雑文を書いたのは一昨日だが、昨日は仕事だったから、気分的には昨日、書いたばかりという感覚がある。
そこに、今日が『オートバイ』の作家マンディアルグの忌日だというではないか。
まるで小生にあて付ける…という表現は当らない、いずれにしても何か符合するところがあるような、奇縁を感じさせたのである。
本書は、出版社の内容説明によると、「早朝の大気を切り裂いて、若い女の乗ったオートバイが疾走する。夫を棄てて愛人の許へ愛車を駆り立てて行くレベッカ。愛の幻想に錯乱しながら、彼女は破滅に向かって驀進する。現代人の日常の奥に潜む狂気のエネルギーを詩的幻想に包んで作品化した、マンディアルグの大衆小説第1作」というもの。
ここまで書くと、それとも、映画通の方なら、とっくに映画『あの胸にもういちど』(ジャック・カーディフ監督、1967年)を脳裏に思い浮かべておられることだろう。
必ずしも映画ファンではない小生だが、マリアンヌ・フェイスフルとアラン・ドロンが共演したこの映画は観ている。しかも、体の事情があって、映画館で映画を観るのは苦痛な小生が映画館でも見た数少ない作品の一つ(テレビでも観た記憶があるが)。
小生の映画評は書評に増していい加減になりそうなので、例えば、下記のサイトを覗いてみてほしい:
「映画大好き!Cinema ChouChou - 『あの胸にもういちど』」(ホームサイトは、「BRIGITTEのお部屋」。「この友の会は個人的にとってもフレンチや女性ボーカルが大好きで数年前から始めたもの」だとか。)
小生、ハーレーダヴィッドソンというアメリカンタイプのバイクは好きではないし、この手のバイクが欲しいと思ったことは一度もないが(日本の風土には合わない。日本のライダーで恰好いいと思えた人もいない。似合わない。せいぜい、ただのファッションに過ぎない)、映画の中で、あるいはアメリカやオーストラリアという大地でのハーレーダヴィッドソンは、まさに現代の馬という感じがあって、惚れ惚れだった。
それにしても、この映画の題名、映画の内容と全く、そぐわないのでは。題名からしたら何かロマンチックな映画を期待してしまいそう。
この映画を観た時、小生は原作がマンディアルグだと意識していただろうか。
多分、記憶が曖昧だが、全く意識していなかったと思う。
この映画を観に映画館へ足を運んだのも友人に誘われてのことではなかったか(多分、友人は原作がマンディアルグであることを知悉していたものと、あとで振り返って気づいたのだが)。
実は、小生、マンディアルグの『オートバイ』を読んだのは、82年の4月(3月末だったかも)に東京でオートバイに乗り始めて以降のことだったと思う。
オートバイ熱に骨の髄まで浮かされてしまった小生、バイクを買う前年の81年から本も雑誌もオートバイ関連の本が大部分を占めるようになったのである。
文学熱、哲学熱の類いは81年の春までのフリーター時代に吹き飛んでしまった(→ この間の事情については、「我がガス中毒死未遂事件」にメモしてある)。
普通のサラリーマンとして健全な人間になろうと務めていた。会社で流行ることは可能な限り付き合っていた。ゴルフ、テニス、飲み会、スキー、卓球、女……。
でも、胸のうちに何か度し難いものが残り続けたのは、自分でも本能的に感じていたものと思う。
それがオートバイ熱という形で症状として現れたのではないかと思う。
オートバイに乗りたい。が、実際には、「オートバイ我が唯一のパートナー」でも書いたように、実にストイックな乗り方をしている。まるで自分が人生を楽しむことを拒否するような。
自分に楽しみなど与えてなるものかという乗り方。ひたすらロードを淡々と走るだけ。雨だろうがカンカン照りだろうが、とにかく終日、走り続ける。観光地へは行くが人とのかかわりは一切、持たない。風景を愛でるようでいて、風景など目に入っていない。
ただ、時間を不毛に蕩尽する、そのための道具としてオートバイがあるような。
一方、オートバイほどに形而上感覚を味あわせてくれるマシンはない。
形而上感覚とは、ぶっちゃけ、途方に暮れ呆然としているという感じだろうか。
「夜の底をどこまでも落ちていくような、それとも星と我とのみが対峙するような形而上感覚に覚えていた快感が、恐怖の的となってしまった。孤独が恐ろしくなった。狂気にギリギリ迫るような破れかぶれの姿勢がすっかり影を顰めてしまった」こともあったっけ。
今は、もう、形而上も下も麻痺してしまっているような。
一旦、ギアを噛ませる。するするとバイクは動き出す。
エンジンの力、ガソリンのパワーで走っているのだけれど、性能がいいから、そうしたメカニズムとは違う、異次元の力が直接、マシンに作用しているような感覚が襲ってきたりする。
ロードの彼方へ走り出したなら、そこあるのは奇妙な浮遊感。大地、というよりアスファルトやコンクリートの路面との接地面は、せいぜいが名刺大ほどのもの。
コーナリングで車体を傾けると、あるいは滑らかな路面を走り続けていると、ライダーズハイとはまた違う、得も言えぬ抽象的な感覚が体を満たす。
大袈裟に言えば、宇宙感覚とでも言うべきか。
淡々と、長々と、あくまで徒労感と疲労感との果ての、もう、これ以上走るのはうんざりだという感覚の果ての、痛点を越えた時点で初めて覚えることの出来る心的な宙吊り感覚。
映画『あの胸にもういちど』で、女が感じていたものは、恋人と会い期待する喜びの感覚ではなく、会えるまでのロング&ワインディングロードでの会えるまでのロードでの恍惚感なのであって、その恍惚感というのは、実際に会って舌を絡ませ、体を絡ませ、汗と汗を混じらせる感覚の喜びよりも時に万倍の喜悦だったりする。
女は男に会う前に行って(逝って)しまうという過ちを犯したのだ。
ロードにおいては、接して洩らさず、最後の最後のギリギリのところでの覚醒感が肝要なのだ。
人生はいつまでいっても、何処まで行っても途上である。
その途上感、決して到達することは有り得ない、頂上なき頂上への登頂を強いられている(あるいは敢えて求めている)極限感覚にこそライディングの齎す形而上感覚の醍醐味がある。
決して触れえぬ現実(愛や恋や肉体)と、それでいて、決して離れ去ることの出来ない柵(しがらみ)としての現実との、一歩、足を踏み外したなら死が待つという切羽詰る状況でこそまざまざと実感しえる相克の念。
→ セリーヌ 著『夜の果てへの旅』(生田 耕作訳、中央公論新社)
「松岡正剛の千夜千冊『マダム・エドワルダ』ジョルジュ・バタイユ」を覗くと、松岡正剛のマンディアルグと会った際のエピソードが読めて楽しい。
マンディアルグ『オートバイ』論ということで、「異端者の哀しみ ~マンディアルグ『オートバイ』論~ 松浦綾夫」なる頁を参照のこと。
「故・生田耕作は終生あらゆる権威に毒づき(その道の権威とされる詩人・飯島耕一のシュルレアリスム解釈を根本的にエセだとののしり、博覧強記で鳴らした西洋文学の泰斗・篠田一士を繊細な神経を欠いた大食漢=多読家に過ぎないと一蹴した)、編著書の猥褻性をめぐって京都大学を辞任し、サバト館という自らが偏愛する作家の本だけを出す出版社の社長を20代の女性に任せ、セリーヌ、バタイユら異端作家の紹介にのみ全力を傾注した」というのは、啓発されてしまった。
そういえば、小生、随分と故・生田耕作のお世話になっていたのだった。訳書を読む際には、特に若い頃は不明にも、翻訳が誰の手になるかはあまり気にしなかったものだ。
バタイユ、そしてセリーヌ!
セリーヌ 著『夜の果てへの旅』(生田 耕作訳、中央公論新社)は、我が青春の書である。この本を読ませてくれただけでも、この作家を教えてくれただけでも、生田 耕作には感謝しきれないモノがあったということだ。いまさらながら、ではあるけれど。
セリーヌ論を書く余裕も力もない。下記を参照のこと:
「ものよむひと(仮) 『セリーヌ最後のインタビュー』&『夜の果てへの旅』冒頭」
言及することが出来なかったが、下記も興味深い:
「発見記録 マンディアルグとエルンスト」
マンディアルグ著『レオノール・フィニーの仮面』(生田耕作訳)は未だ読んでいない。フィニとマンディアルグとの机上の出会い。
マンディアルグ著『大理石』(フランス・澁澤龍彦訳・1971年人文書院) は、「最初の長編小説にして最高傑作。作者の(そして訳者の)イメージ愛好が全篇に満ちた作品」だって!
余談だが、今回、マンディアルグのことをあれこれ調べていて、一番、驚いたのは、彼が亡くなったのが91年だということ。小生の中では、その頃には既に過去の作家になっていたのだ。小生の不明を恥じるばかりである。
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コメント
はじめまして。私の拙いブログにトラックバックを頂きありがとうございます。マンディアルグやバタイユ...と私も好きな作家のお話が、とてもアカデミックな高尚な佇まいで綴られている、素敵なサイトですね。お気に入りに登録させて頂きました。「映画大好き!Cinema ChouChou」をご紹介下さり恐縮しております。ありがとうございます!生田耕作氏は私もとても好きです。最近は映画を優先していまい読書量が減りましたが本棚には生田氏の翻訳ものや書籍が並んでいます。
「レオノール・フィニの仮面」も好きです。この様な方々の繋がりを想像するのも楽しくて好きです♪また、拝読させて頂きますね。これからも、どうぞ宜しくお願い致します。
投稿: chouchou | 2006/12/13 15:59
chouchouさん、来訪、コメント、ありがとう。
TBだけして失礼しました。
小生、文学も映画も苦手、ことに映画となると、ほとんど手の届かない分野です。
映画『あの胸にもういちど』は観たけれど、chouchouさんの映画評のほうが読まれる方にも参考になると思われたので、リンクさせてもらいました。
今回、こうした記事を書いて、一番の予想外の収穫は、生田耕作氏の業容を再認識する結果となったこと。
こういう方がいたってこと、銘記しておきたいと思いました。
「レオノール・フィニの仮面」は、今回の調べて存在を知った始末。欲しい、読みたい! と叫びたい気分。
貴サイト、楽しいし奥が深いサイトですね。また、お邪魔します。
投稿: やいっち | 2006/12/13 19:35