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2006/11/22

聞くと聴くどっちつかずで日々揺れし

 黒田 恭一著『はじめてのクラシック』(講談社現代新書〈874〉)を今日、読了した。
 昭和六二年に刊行されたもの。最近、自宅でも音楽付いている小生、聴いたかどうかは別にしてクラシックに関心を持ち始めた中学生の頃の気分(初心と言えるのかどうか、あやういけれど)に立ち返って、というわけではないが、車中で先週来、読んできていた。
 別に小生如きが感想を綴ることもない。

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← 武満徹著『音、沈黙と測りあえるほどに』(1971 新潮社)

 ただ、本書を読んでいて、どうしても気になることがあった。
 あまりに瑣末なことなので、気になっていたし、本書を読了する直前までずっと気障りでもあったけれど、まあ、「はじめてのクラシック」という書名だし、初心者、それも若年層の読者をも意識してのことかなと思っていた。

 それは、「きかれる」とか、「きく」という言葉がずっと一貫して「きく」という平仮名で通されていること。
 初心者、あるいは初学者が読むことを意識してのことなのだろうか…。

「クラシック音楽をきく」という場合、大抵の書き手は、あるいは本(文章)では、例外なく(とまで言うと過度かもしれないが)「聴く」という表記を選ぶ。
 なのに、本書では、たとえば「ききて」という場合でも平仮名で「ききて」なのである。
 常識から考えても、「聞き手」か「聴き手」という表記を選ぶものではなかろうか!

(余談だが、今、この文章を「100%シリーズ第18弾。モーリス・ラヴェル「ボレロ」を種々の演奏形式・編曲により収録したオムニバス盤」という触れ込みのモーリス・ラヴェル作曲『ボレロ』を聞きながら書いている…。)

 しかし、本書は、平易な表現や表記を心がけているのだとしても、クラシックの入門者相手を意識していても、教養や年齢までも若年層や初学者を想定しているわけでもない。
 むしろ、ある、必ずしも若いとは言えない年代になって、ふとクラシックに関心を抱き始めたけれど、どう奥深いクラシックの世界に分け入っていけばいいのか分からない人を対象にしている。
 なので、殊更に難しい表記をしないのは当然としても、ごく普通程度の表記は、敢えて避ける必要もない、はずなのである。
 むしろ、普通なら「聴く」か「聞く」(ここでは、「訊く」や「効く」「利く」などは除外しておく)と表記すべきところを「きく」と書かれると、逆に平仮名の地の文と混ざって読みづらかったりするし、次第に「きく」という言葉の混じる箇所に差し掛かると、目障りになってくる。

 が、本書をほぼ読み終える段になって、著者の意図が示されていた。
 著者が「きく」と表記していたのは、意図があってのことだったのだ。
 しかも、その意図は、本書の入門書としての主張にも無縁ではなく、むしろ深く関わっているとさえ言えるのだった。

 本書は全部で9章の構成になっているが、最後の9章の題名は「「聞く」か「聴く」か」(副題は、「または、音楽の美妙さについて」)となっている。
 著者も言うように、そして小生もだが、「聴く」と「聞く」とは使い分けている。
 興味のない話、重要さを強くは感じない事柄だと、英語で言う「hear」の「聞く」であり、大事な話、大切に思う人の話しだと「listen to」の「聴く」を使いたくなるわけである。
 よって、好きな曲だと「聴く」であり、嫌いな曲、つまらない曲だと「聞く」(か「聞き流す」)になる、というわけである。

 余談だが、ネット検索していたら、「the sound of silence  ~沈黙の音を聴こう~ 」というサイトに遭遇。
 その中に、「「聴く」と「聞く」の違い-the sound of silence」という頁があって、傾聴に値すると思った。
 ……でも……、最近、更新されていない。

 そういえば、故・武満徹著に『音、沈黙と測りあえるほどに』(1971 新潮社)という本があったっけ。

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→ 黒田 恭一著『はじめてのクラシック』(講談社現代新書〈874〉)

 音楽の場合は(大概、無条件に!)「聴く」であり、普通の場合は「聞く」と表記する。
 本書によると、「聴く」の「聴」の旧字体だと、「くわしくききとる」という意味合いがあるのだとか。

 さて、クラシック音楽も特別視しないで、「きいて」楽しみ、この曲は「いい!」「凄い!」と感じることが大切だと黒田氏は言う(書いている)。
 クラシックに限らず、初めて何かの曲を「きいて」感激した時は、「聴いて」いたのであって、薀蓄も音楽の世界へ分け入る方法・段取りもどうでもよかったはずだ。
 感動だけが全てだったわけである。
 
 著者は職業柄、コンサートへも年に百回も行く。同時に(本書は古いので)レコードなども数多く「聞く」。あるいはCDも(本書を書いた頃はCDの出始めで、「コンパクトディスク」と表記されている)も多数、「聞く」。

 一方、クラシックの曲を書いたモーツァルトやベートーベン、ハイドン、ヘンデルの時代は、生の演奏しか想定していなかった。
 音楽というのは、常に一回性のもの、一期一会のものだった。
 演奏する人が居て、聴き手が居て、両者は同じ空間を共有していた。
 それが宮廷のような特権的な場なのか、それとも、街中の何処か、つまりアウトドアなのかは別にしても、いずれにしても、その場限りのものだったわけである。
 その場に臨在し、その場で聴き、その場で感動し、演奏が終われば、演奏としての音楽は終わる。消えていく。
 無論、聴き手の胸か脳裏か心には感動の余韻が鳴り響くのだろうとしても。

 さて、現代においては、あるいは昔に増してライブを聞く機会に恵まれている。
 が、それ以上に恵まれているのは、録音された状態の音楽を聞く機会に恵まれていることが顕著な昔との違いだろう。
 我々は、その気になれば、好きな曲は好きなだけ、何度でも聞く、聞き返せる。
 それどころか、好きな「さび」の部分だけをピックアップすることも繰り返すこともできる。
 さらには、DJ(ディスクジョッキー)のように、録音されたLPなどで遊ぶこともできる。

 あるいは、勉強しながら、食事しながら、車を運転しながら、町を歩きながら聞くことができる。
 
 われわれは音については(も?)潤沢であり恵まれている、はずなのである。
 が、だからこそ、音楽を大概は「聞いている」のであって、「聴いている」と言えるかどうか微妙なような気がする。
 だからこそ、副題の「または、音楽の美妙さについて」に繋がるわけである(美妙!)。
 
 小生にしても、上記したように、本稿をモーリス・ラヴェル作曲『ボレロ』を聞きながら書いているのである。
(余談だが、『ボレロ』を聴いていて、ふと、スタンリー・キューブリック監督の映画「2001年宇宙の旅」を連想してしまった。何処か、この映画で使われていた、リヒャルト・シュトラウス(1864 - 1949)の『ツァラトゥストラはかく語りき』か、それともジェルジ・リゲティの『ルクス・エテルナ』の、いずれかの曲の雰囲気に通じるものを感じたからなのだろうか。それともキューブリックの映像空間をイメージしたのか…。)

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← 『2001年宇宙の旅』(出演: キア・デュリア 監督: スタンリー・キューブリック、ワーナー・ホーム・ビデオ)。小生が映画館でも観た数少ない映画の一つだ。

 本書でユニークな指摘があった。
 それは、CDなどを借りる(買う)なら、好きな曲は選ばないほうがいい、というのだ。
 えっ、好きな曲だから買ったりするんじゃないの? そうでない曲をどうしてわざわざ買う必要あるの?
 著者によると、好きな曲は何も買わなくたって、自然とそういう曲を聴く機会を持つのだし、わざわざ手元に置く必要などないというのだ。
 むしろ、必ずしも知らない、あまり聴いたことのない作曲家(演奏家)の曲を敢えて聴いたほうが音楽の世界が広がる、というわけである。

 そういえば、小生、最近こそ、図書館でCDを借りるようになったが、それでも、実は好きな演歌や歌謡曲などは借りないことにしている。
 自宅では書くこと、読むこと、寝ることに徹しているからということもあるが、車中での音楽三昧の楽しみを深く味わうという意味もあった。
 好きな曲にしたって、ラジオから何時、流れてくるか分からない(新聞も持っていないし、ネットで番組情報を確認することもしない)。

 だから、たまに、好きな曲が流れてくると、それこそ、干天の慈雨であり、渇いた沙漠に沁み込むように音楽という賜物が、玉露が心に沁み込んでくる。
 それに、以前にも書いたが、車中では、ラジオから流れてくる音楽に付いては、ジャンルを問わず聞くようにしているので、奥深さはともかく、小生の聞いている音楽の世界(音楽体験の幅)は、なかなかのものがある(ような気がする)。

 とにもかくにも、ハンドルを握りながらではあるが、音楽に、曲に、一心に「聴き入っている」のである(お客さんが乗っていない場合に限るのは当然である!)。

 自宅では、リラックスしているせいもあるが、大概は本を読みながら、あるいはこうしてネットに向いながら、あるいは就寝前などにCDを回しておいて、部屋に音楽を満ち溢れさせる(ボリュームはさすがに控えめにする)。
 だから、自宅では音楽には最適の条件に近いはずなのだが、「聴く」というより「聞く」(それどころか、湯水のごとく「聞き流す」)という状態に留まっているのである。
 
 これが音楽環境に関し、贅沢の極みの実態なのだろう、か。
 でも、やはり、車中で思いがけない時に流れてくる、昔、聞き浸った曲が流れてくる、その感激にはどんな完璧な音響空間も敵わないと思うのである。

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コメント

僕のように楽譜が読めない人間はクラシックを「聞く」のでしょうか、「聴く」のでしょうか?
僕にとってクラシックへの衝撃はラインスドルフの指揮するベートーヴェン第九を「聴いた」こと、はじけるリズム、強打されるティンパニー、躍動する音楽がここにはあり、この指揮者が地味という評価はあたらないと思いました。
今日、ケネディ大統領の追悼でラインスドルフの指揮したモーツァルトの「レクイエム」が世界初発売されて早速買ってきました。
ラインスドルフは言ったそうです「音楽とは心です」と。

投稿: oki | 2006/11/22 22:53

楽譜が読めるかどうかは直接は関係ないと思います。音楽(曲)をきいて楽しめれば、それは聴いていることになる、それだけのことです。
また、音楽を楽しむに王道は不要で、とにかく聞き込むことだろうと思うのです。
そう、「音楽とは心です」でいいのではないでしょうか。

投稿: やいっち | 2006/11/23 01:48

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