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2006/11/26

悲しいってわけじゃない、ただ…

 悲しいってわけじゃない、ただ…

 だだっ広い世界にポツンと一人、放り出されている。
 一人って、自分で言っているけど、自分が一人なのかさえも分からない。
 自分では自分の姿が見えないから。
 迷子になった心が疼いている、ただ、それだけのことなのかもしれない。
 誰かに触れたい。誰かに触れて欲しい。
 何の拘りもなく、ただ、触れ欲しい。触れてみたい。
 たった、それだけのことが、どうしようもなく難しい。

Yoppikame

→ ヨッピさんに戴いた『カメの日向ぼっこ』です。オイラがちっちゃなカエルなら、カメの甲羅で日向ぼっこするんだけど…。

 誰のせいでもなく、私は、やはり、独り、闇の中でポツンと、いる。
 通り過ぎた電信柱に貼られたチラシ、それとも白い壁にペイントされた落書き。
ガード下の薄暗い壁の剥がれ切れないでいる広告。
 私は、そういったものほどにさえ、確かに生きているとは感じられない。

 何を今更と、思う。

 生きていることに何の感懐も抱かずに来たことは、分かりきったことではなかったか。
 心が、分けのわからない淋しさに引き裂けんばかりだったとしても、それだって、やっぱり、今更、何を事々しく喋るんだって、言われかねない、自分に。
 引き千切れて、何処とも知れない遠い空に飛び去った心の欠片。
 闇の壁に頬を擦り切れるほどに押し付けて、そうして寂しさを誤魔化して、それでも、やりきれないものは、やりきれない。
 闇の底に、吐いて、吐いて、もう、吐くものは何もないほどに吐いてみても、胃の腑は裏返りさえしない。闇の穴を埋め尽くすには、俺程度の悲しみじゃ、足りないってこと。

 そう、世界は私には、あまりに茫漠としている。

 世界は決して混沌となど、していない。
 だって、道端の草も、何処かの庭先に零れて垂れる柿の木の枝も、遠くに見える団地のベランダに干された洗濯物も、それぞれに意味があることが理解できないことはないんだから。

 ただ、そうした意味の数々は、私には届かない、私に触れることはないってだけのこと。

 都会の雑踏を足早に歩く。私にはゆっくり歩くような心のゆとりなど、ないから。サッサと歩いて、その場を、行過ぎる。すぐそこにあるショーウインドーの中に飾り付けられた衣裳も、そこここにある居酒屋も、私には立ち入ることの永遠にない世界であることに気付きたくないから。
 まるで用事があって急いでいるような振りをして、行過ぎて、さて、部屋に帰って、私はしばし呆然とする。何の用もない部屋の片隅に蹲って、天井から吊り下がる照明の傘に積もった埃に、ふと、気が付く。今日の自分の発見は、それだけ。

 私がここにいることに気付く人は、誰もいない。もしかしたら窓の外のカーテン越しに揺れる影だけは、私に何事かを囁いてくれるかもしれない、なんて、思って、でも、カーテンを開ける勇気など、私にあるわけもない。
 窓の外の影が揺れるのは、私の心が揺れているから、ただ、それだけの、つまらないお話。そう、部屋の明かりを、未だ点けていなかったんだ。だから、外の空間が内より明るいって、それだけのこと。

 神様がいて、世界を眺めている、そんな気がすることが昔、あったような。

 でも、夜の町を歩けば、何処までもお月様がついてきてくれる、そのようには、私に寄り添ってはくれない。神様は、この世界のあらゆるものに対して平等に接しているんだ。
 神様から見たら、私は、地球の裏側の誰かと同じ一人の人間。遠い昔に死に果てた誰かと同じ人間。いつの日か生まれるかもしれない誰かと同じ人間。 

 それどころか、主を見失って町を彷徨う野良犬と比べたって、私が格別、偉いわけでも愚かなわけでもない。
 否、風に舞う木の葉と比べてさえ、私は見るべき何物でもない。
 それほどに神様の目は、地上を、世界をとことん平等に見つめている。私が私である必要など、何もないのだ。土や埃や風に成り果てたって、気付かないに違いない。

 ああ、私は触れたい。何か、生きるモノに。触れて欲しい、血汐の滾る何物かに。
 人間に触れたい、触れて欲しいなどと贅沢は言わないから。
 気が遠くなるほどに脳髄は動いてくれない。心が朽ち果てて、まるでそよとも風の吹かない夏の日の昼下がりのようだ。
 寂しさの果ての眩暈のする白い一日。
 気が狂わないでいるためには、悲しさを粉微塵に砕いてしまうしかない。それが叶わないなら、せめて凍てついた心を終日、爪で引っ掻いていよう。
 私が生きている実感とは、ガリガリというその感覚のこと。

 私とは、透明すぎる闇なんだ。

                                         (01/11/18作)

 思う、故に、時折、我、在り(2)

 青い空を見る。青い海を見る。その狭間を海鳥たちが舞い飛ぶ。遠くには幽かに不二なる山の優美な姿も望める。
 空には白い雲。海辺には寄せては返す波。浜辺に沿って緑なす松の並木が何処までも続いている。そして頬を撫ぜる潮風と、その香り。

 絵のような美しさ。それとも写真のように木目細かな像。心地よさ。

 なんだか、倒錯したような表現だ。眼前に広がる光景を愛でていれば、それで十分じゃないか。何を殊更に人の手で描き叙する必要があろうか。
 言葉や描像で示すのが、余計だと言うなら、音楽はどうだろうか。情景をより豊かに、情緒に満ちて眺め入ることができるではないか。

 でも、やはり、眼前の世界を描き切りたい、しっかりと把握したい、理解したい、手中にしっかりと確保したい。それには、結局は言葉に行き着いてしまうのである。
 言葉の曖昧さ。それを思わない者はいないだろう。そんなことを言うつもりなどなかったのに、言いたいこと、脳裏に浮かぶこととは、言葉は決してピッタリとはサイズも形も合わない。何かしら、ぎこちないのだ。
 その食い違いが、また、何とか、誤解や不正確さを訂正しようとさせ、すると、その言い直しがより一層の齟齬を生み…、そうして泥沼に嵌り込んで行く。

 もう、言葉など、邪魔なだけなのだ。そこにある情景で、満足なのだ。

 が、言葉は勝手に浮かんでくる。
 爽やかだとか、メローな気分だとか、何処かで聞いた表現ばかりだ。陳腐、極まりない。でも、浮かんでは、心を乱し、そしてやがて消え去っていく。
 それなら、言葉は言葉で勝手に戯れているがいいのだ。

 人は、一人で居る限り、対話など要らない。明確な表現も不要。そもそも言葉などなくたって、ここに閉じ篭っている限り、単に生きている限り、困ることもない。 心のうちに浮かぶ哀切なる情念も、その波の満ち干きに身を任せていればいい…。
 緑なす木々の放つ、心に染み入る生命感。他人のいない世界での、心安らぐ世界。たとえ、今、感じている感激を誰と分かち合うことが出来ないとしても、そんなことの何が問題なのか。

 遠い世界にいるはずの誰か。その人と、悲しみも歓びも伝え合うことも、慰めあうことも出来ないとして、もう、そんなことはいいではないか。ここに一個の世界がある。ちょっと孤独ではあるけれど、真率な思いが募って溢れ出しそうだとしても、情の流れ出すに任しておくがいいのだ。
 カモメだろうか、海鳥の鳴く声がする。悲しいような、それとも歓喜に咽んでいるような。鳥達は決して一羽では空で戯れない。鳥達は宵闇に何処からか現れて、ブーメランの形に、あるいは幾重もの山の形にと変幻を繰り返し、やがて何処へともなく飛び去っていく。あいつらは、何羽もが集まって一塊になっている。もしかしたら、奴等は集団になることで、一個の生き物なのかもしれない。

 そもそも、一羽でいる鳥は、何か不自然なのだ。せめて二羽、揃っていないと、様にならない。

 海の底を回遊する魚達も、集団をなして泳いでいる。一匹一匹がいる、などと思うのは、人間の勝手な思い入れなのであって、やっぱり奴等も群れでこそ生き生きしている。群れを成して、その形を自在に変貌させることで、自分達が仲間であることを誇示している。
 たまに、群れからつい離れた魚は、それに気付くと慌てて群れに戻る。それは一匹だと外敵に狙われやすいからでもあろう。が、きっと群れの中でこそ、平安が得られるのだ。群れの中でこそ、己の居場所を見出せるのだ。その個体の前か隣りか、斜め前か後ろの中に挟まって定位置を確保することで、その一尾も十全の命を得るのだ。
 蟻の群れ。魚の群れ。鳥の群れ。動物の群れ。

 さて、人間はどうなのだろう。

 きっと、人間ほどに集団を意識している動物はないんじゃなかろうか。絶えず他人の存在が脳裏に浮かんでいる。他人の目を意識している。だからこそ、一人を望む時もあるってことじゃなかろうか。
 そんな時、人間の言葉って何なんだろう。それは生まれた時の、オギャーという泣き声の延長なのに違いない。息をすることそのものなのに違いない。幼児の話す言葉は、まるで息を吐くようにして吐き出される。むしろ、歓びの叫び、悲しみの吐息、喋れる快感の誇示、離れている誰彼への愛憎に満ちた呼びかけなのだ。

 笑い顔は泣き顔に似ている。泣くように笑う。笑うように泣く。下を向いていると、泣いているのか笑っているのか、見分けがつかない。笑うって、泣き叫ぶことの極まりなのだ。
 そして言葉を発するというのは、生きていることの証し、息していること、息しえることの証しなのだ。
 というより、もう、音声を伴う伴わないを別にして、話す言葉は生きていることの表現そのものなのだ。
 そう、だから言葉は肉体表現そのものなのである。言葉は肉体なのだ。身体そのものなのだ。仲間の肉体への呼びかけ、それが言葉なのだ。言葉が変容するのは、言葉が姿かたちを変えるのは、他人を意識している証拠なのだ。言葉の原風景としての吐息は、母への、仲間への挨拶なのだ。

 受肉された吐息、それが言葉なのだ。
                                        (02/01/15作)

 以上、ホームページからの転記です。
 最近、気のせいか訃報が多いような気が…。
 だからなのか、ふと、旧稿が懐かしくなって…。

 これを、旧稿を温めるって言うのかな。
スクリャービンの交響曲を聴きながら転記作業しました。)

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