週末あれこれ日記(写真持参篇)
早いもので、今年も立冬の候を迎えてしまった。
早い。早すぎる。小生の足を以てしても追いつけない早さだ。
念のために説明しておくと、「立冬(りっとう)は二十四節気の1つ。11月7日ごろ。および、この日から小雪までの期間」だという(「立冬 - Wikipedia」からの受け売りである。人は、これを転記とも言うが…)。
季節の変わり目を思い知らせるようとでもいうのか、折からの強風が列島に吹き荒れている。北陸でも標高の高いところは雪になるかも、なんて昨日の天気予報で言っていた。
ちょっと昨年の記事を覗いてみたら、「満腹の立冬」などといった訳の分からない題名の季語随筆を綴っている。
どうして、「立冬」と「満腹」とが一緒に題名に登場するのかと、ズラズラ読んでいったら、なんのことはない内容だった。
なんだか、同じことを今日もやっちゃいそう!
先週の土曜日は図書館へ。遠くはないので普段なら歩きなのだが、小生にしてはちょっと忙しかったこともあり、愛用の自転車を駆って颯爽と。
お蔭様で自転車通勤にも慣れてきた。汗もあまり滲んでこない。でも、気温がこれだけ下がれば、汗が出るほうが余程なのかも知れない。
ただ、自転車通勤で往路も復路も疲れきってグッタリ、ということはなくなっている。
これで体重も少しは減ってくれたら嬉しいのだが。
松田道生著『カラスはなぜ東京が好きなのか』(水谷高英/挿画、平凡社)やドビュッシーの「サラバンド」「舞曲」、ムソルグスキーの組曲「展覧会の絵」(いずれもラヴェル編:リッカルド・シャイー指揮、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団)なども入っているラヴェルのボレロ(CD)などを返却(「古(いにしえ)の先の先にも人のあり」参照)。
代わりに、本は、内井 惣七 著の『空間の謎・時間の謎―宇宙の始まりに迫る物理学と哲学』(中公新書)を借りてきた。
「空間とは何か、時間とは何か。この最大級の謎の解明には物理学と哲学が取り組んできた。絶対空間と絶対時間を主張したニュートンと、それに対抗して「時空の関係説」を唱えたライプニッツから出発して、最新の宇宙論にいたる物理学の成果を哲学者の目から見ればどうなるか。宇宙の始まりに迫る量子宇宙論へといざない、物理学に隠されていた時空の哲学の潮流を解きほぐす。直観的な理解を助ける図表を多数収載」というもの。
著者の内井 惣七氏は、小生は初耳の方。科学哲学プロパーを志してきたというから、日本では稀有といっても大袈裟ではない存在かもしれない。
新書版なので、車中の友にすべく借りたのである。
同氏の『推理と論理―シャーロック・ホームズとルイス・キャロル』(ミネルヴァ書房)なんて、「ホームズの「逆方向の推理」の特質を鮮やかに解明して、論理学者ホームズを浮き彫りにしたかと思えば、ルイス・キャロルの作品『不思議の国のアリス』や『鏡の国のアリス』に盛られた論理や哲学の話題を軽妙洒脱に解説して、いつしか読者を現代論理学の高みへ誘う」というから、いつかは読んでみたい。
CDについては、予約していた『ホセ・フェリシアーノ・ベスト・セレクション』。そしてアントニオ・カルロス・ジョビンを物色していて見つからなかったのだが、「グラミン銀行…ユヌスさん銀行の任呼び覚ます!」なる記事の中で話題にした、「風とケーナのロマンス」「コンドルは飛んで行く」「花祭り」「灰色の瞳」などの曲が入っているということで、『Folklore』(東芝EMI、1994)とを借りてきた。「風のサンバ」や「インディオの道」も入っている。
『Folklore』の演奏者は、インディ・スマック、クリスティーナとウーゴ、アタウアルパ・ユパンキ、リカルド・ゴンサーレスなど。
「ライト・マイ・ファイアー」などで有名なホセ・フェリシアーノは、「落ち葉のコンチェルト」や「カリフォルニアの青い空」などで有名なアルバート・ハモンドなどと共に、秋も深まり落ち葉の頃となると、聴きたくなるアーティスト。
ところで、小生、演歌(歌謡曲)ファンなのに、この類いのCDをあまり借りないのは変?
実は、CDは、大概、読書の際に聞くことが多いのである。音楽のみに聴き入るということはない。
で、読書の際、日本の曲だと(楽器だけの曲ならともかく)歌詞が耳に入ってくるので、本の記述を追えなくなってしまうのだ。
でも、追々、日本のCDも借りていく。村田英雄、島倉千代子、春日八郎、三橋美智也、 高橋真梨子、竹内まりやや加藤登紀子、チェウニ、牧村三枝子、松田聖子(引退宣言前までの)、都はるみ(引退・復帰前までの)、森昌子(結婚前までの)、天童よしみ……。
→ 牧村 三枝子
金曜日の暇なのか忙しいのか分からない仕事に、神経ばかりがやたらと磨り減ったようで、土曜日はグッタリしてしまって、ほとんど本も読めずにブログを書くとダウン。
夜半になっても、起きる気になれず、そのままロッキングチェアーの中で夜明かし。
日曜日の未明になって、ようやく腰を上げてブログ記事を書いた。
書き終えたら、夜が明けていたどころか、六時半。
今日(日曜日)はスタジオへ行く!
慌ててベッドへ。
土曜日の朝に帰宅して、今頃(日曜日の七時頃)になってベッドに入ろうかという気になる。
その前に、改めて持参する予定の、撮り溜めた写真類を確認。
03年からサンバの世界の末端(のそのまた端っこ)に居座って今年で四年目。
今年は一切、撮ってもプリントアウトしていないが、昨年までは失敗した画像も含め、全部、現像(印刷)し、簡易なアルバムに収めてある。
一体、何枚、あるものやら。一つのパレードで、少なくとも百枚。枚数は、パレードごとに段々エスカレートしていったから、年間で初年度の03年は五百枚以上。翌年はそれより多く、昨年はデジカメが二台になったこともあり、年間でプライベートのものも合わせると千枚近いかも。
← チェウニ『とまどいルージュ』(テイチクエンタテインメント)
小さな冊子の中にそれぞれのパレードごとの写真を収めてあるのだが、日曜日、いざ、手提げバッグに収めてみたら、その重いこと。
写真も、数があると分量もだが、重さも凄い。
手提げのビニール袋は、一枚はだめで二枚…も危ういものを感じ、とうとう三枚重ねにしてしまった。
それでも、途中で破れるのではと心配だったものだ。
昼までにはスタジオに着きたかったが、目覚めたのが11時前で、慌てて食事を済ませたが、着いたのが正午を40分も回っていた。
いうまでもないが、行き帰りの電車の中では読書。自宅ではなかなか本を読む時間が取れないだけに、電車の中というのは、小生には貴重な読書空間であり読書タイムなのである。
今回は、今週からの仕事の際、車中で詠むつもりで借りてきた、内井 惣七 著の『空間の謎・時間の謎―宇宙の始まりに迫る物理学と哲学』(中公新書)を持参。
待ちきれなくて、読み始めてしまったのである。
図書館で書棚を物色していて本書を見つけたとき、日本には珍しい科学哲学プロパーの人の本で、しかも、記述も(小生には手ごわい部分もあるけれど)読んで面白い。
話題そのものは小生ならずとも、ガリレオだ、デカルトだ、ニュートンだ、であり、アインシュタインや現代の宇宙論に続いていくのであって、ものめずらしいわけではないが、その扱い方、視点がユニークなのだ。
過日、ガリレオの本を読んだこともあって、科学の高度な内容が、数式を使わないで論じる時代の困難ぶりと、同時に今に通用する、あるいは今も解けてはいない課題も(今の観点から見て)混沌とした中ではあるとしても、高度な議論が展開されていて、興味が尽きない。
それんしても、ガリレオもだが、ライプニッツの天才ぶりは桁外れだ。
今世紀中に彼の業容の全貌が見えるのだろうか。
今世紀中にはライプニッツ全集が揃うのだろか。
{「松岡正剛の千夜千冊『ライプニッツ著作集』(全10巻)ウィルヘルム・ライプニッツ」が読み物として面白い。)
→ 『役者魂!』の主題歌「みんなひとり」(作詞・作曲・プロデュース:竹内まりや 歌:松たか子)。過日、ラジオで偶然、聴いた。正直、松たか子の歌で初めて気に入った曲だ。
ライプニッツの議論は、今世紀は勿論、来世紀になっても、その時代の先端を行く学者が参考になるものであり続けているのだろう。
小生は高校生の時、デカルトにゾッコンとなったのだが、デカルトにはスピノザが、パスカルが、さらにはライプニッツが付き物だった。が、デカルトも凄いのだが、ライプニッツの思考の深さを直感して、直ちに撤退(逃避)してしまったものである。
閑話休題。
ん? 何故、写真をスタジオへ持参したかって?
それは、モデルとなってもらったチームの面々にもらってもらうため。
実は、我がチームは浅草サンバカーニヴァルで去年三位となった(前年は屈辱の五位)。それで、おめでとうの意味もあるし、小生、チームの面々に断りもなく撮っていることもあり、お詫びとお礼とお祝いの意味も兼ねて(随分、名目が多い!)、被写体になってもらった方々に提供するつもりだったのだ。
自分が持っていても、宝の持ち腐れになりそうだし。
が、生来の無精もあり、昨年来、ほとんどスタジオへ足を運んでいない。
パレードには大体、追っ駆けで会場へ足を運んでいるのだが、パレードに参加していない小生、チームの控え室に足を運んで写真を渡す、というのも気が引ける(小生、極めて気が小さいのである)。
いつか渡そう、もらってもらおうと思っていたのが、とうとう今年度の浅草パレードも終わってしまい、機会を逸してしまったのである。
いかにも小生らしいといえば、そのとおりなのだが。
そこでチームのメーリングリストに入っている小生、そのメーリングリストに向けて、次のスタジオ練習の際、スタジオに写真を持っていきます、もらってくださいとメールした。
要は、約束をしたというわけである。
これなら、足の重い小生も動かざるを得ない。
そう、気の小さい小生、約束を破るなんて(たとえ、相手方がまるで期待していないとしても)到底、できない奴なのである。
(ところが、メーリングリストにメールしても、配信がされない。なので、メンバーのうちの一人にメールして、代理で投稿してもらうというトラブルもあった。)
写真は、プライベートのものを引っこ抜いたりしたので、千枚程度を持っていったのか。
半分は、画像に日付が入っている。その日付でいつのパレードのものか判断してもらおう。日付が印字されていない分は、会場の受付のテーブルで手書きで裏面に書き込もうと思っていた。
確かに、日付が印字されているモノは少なからずあった…が、なんと、ホントに、5日とかと時間といった最小限のデータだけ。
これじゃ、何月か分からない。
どころか、何年のものかも分からない。
結局、受付のテーブルにドッカリ、座り込んで、全部にボールペンで手書きで年月日を記入するはめになったのだった。
とうとう、スタジオでの練習が終わり、会場を明け渡す四時過ぎまでに書ききれなかった。腕が上がってしまったし。
でも、サンバの音を生で聞くことができた。さすがにダンサーらの踊りはほとんど見れず。
← 天童よしみさんの新曲「痛快!紅頭巾~明日への道標~紅頭巾参上」(「こぶしdeねっと - 天童よしみ」より)
さて、持参した写真のうち、どれほどの枚数がもらってもらえたのか、カウントしていないので、分からない。
被写体となった方々は自由に、というスタンスだったのである。
撮影の多くは、小生の傾向なのか、不思議なことに(!)ダンサーの方たちがメインである。
幸い、練習の合間に立ち寄ってくれて、多くを貰ってもらえた(昼休みに間に合っていればもっと!)。
小生は、サンバの世界に案内してくれた方を最初はメインで撮っていたが、チームのメンバーの一員に加わってからは、自分の勝手で撮っているとはいいつつも、できるだけ満遍なく撮るようにしてきたつもりだ。
といっても、ダンサーが多いのは無理からぬものがある。要は、コース上で単独でパフォーマンスする方たちをターゲット(犠牲?)にするのだから、歌手やダンサーやスタッフらを多目に撮る傾向になってしまう。
それでも、バテリア陣の画像も結構、多い。パレードごとに往路復路で撮るので、それなりの数はあるのだ。
ただ、今度、気付いたことがあった。
というより、もっと早く気付くべきだったのだが、チームのメンバーは入れ替わりが激しいということだ。しかも、ドンドン世代交代している(らしい)。
03年度の写真の被写体となってくれた方の中には、それどころか昨年、カーニヴァルに出場された方でさえも、今年はまるで来なくなっている、あるいは消息の知れない方が多いのである。
また、写真はフジの店に依頼しているのだが、03年、つまり三年前の写真は、色が褪せ始めているような気がする。
無論、小冊子のような簡易なファイルに収めてあるし、その冊子も朝夕を問わず日光など当るはずもない(水気もない)。
この画像が褪せていく、という焦りも、(もっと)早めに渡しておくべきだったと反省する理由である。
尤も、小生の撮影の腕が悪くて最初から写りがよくなかったということもある。
言い訳すれば、小生は常に観客の側から撮っている。
絶好のポジション(コンディション)で撮れたことは皆無に近い。
自慢じゃないが(自慢にはならないが)、コース上で撮れたものは数枚もあるかどうか。
多くの観客が犇く後ろで長い足を伸ばし、手を伸ばし、デジカメを高く翳して、モニター画面で映っていることを核にしつつ、ようやくのことで撮っている。
ダンサーの中にはポーズを決めてくれる人もいるけれど、小生を知らない人も多く、どこのおっさんが追っ駆け、やってるよ、なのである。
しかも、ダンサーに限らず、サンバパレードなのであって、動き(躍動)こそが命なのだ。
それを写真に収めるなど、ある意味、矛盾しているともいえる。
一瞬の撮影の中に動きと躍動感を切り取れたらと思うけれど、それを小生に求めるのは、ちょっと無理というもの。
さて、とうとう、持参した写真の裏面に年月日を記入するという仕事もやり遂げることができないうちに、時間切れとなってしまった。
少しは被写体となった方たちに持ち帰ってもらった(中には、小生が写真を手にモデルの方のころに参じて、半ば強制的に渡した相手もいたっけ)。
これまたいうまでもないことだが、チームの専属の(専門の)カメラマン(記録係)がいて、パレードごとに、ビデオを撮っているし、写真もバンバン、撮っている。
その意味で、小生の写真は記録画像としての値打ちがあるとは言えない。
それだったら、コース上で専門に撮ってくれている方に任せておけば十分である。
それでは、何ゆえ、小生が撮る?
単にブログに載せるため?
単に撮りたいから?
理屈を言えば、沿道の観客の中の一員からはこのように見えるというレポートのためだが、やはり、パレードが生き物であり生ものなのだということは重々分かっていつつも、画像というメディアに記録することで初めて、見えてくるものがあると思うからでもある。
パレードの様子をビデオに、写真に撮る。記録に残っている。それで、十分だが、ブログという媒体を通じて、一瞬にスポットを当てることで、何かが高まると思う。
一瞬の輝き。向上。緊張。
ま、この点は前にも若干、書いたことがあるが、これからも、追々、探求していくことになるだろう。
後日談。帰宅し、重い荷物にグッタリし、夜半までロッキングチェアーに体を埋め、夜半になってやっと動く気になり、持ち帰ったアルバムなど整理していたら、棚にはまだ他にアルバムがあった!
プライベートのアルバムだと思っていたのが、違っていた。
というわけで、後日、改めてスタジオへ持参することになりそうだ。
その際には、昼の食事休憩に間に合うように持って行かないと。
練習時間中では物色する暇もないだろうし。
さて、夜は、疲れた体に鞭打って、ブログ「蛍光で浮ぶケルトと縄文か」を書き上げた。
ケルト文化と縄文文化、あるいは世界の辺境・辺縁や古層に埋もれつつも残っている文化。
けれど、安易にそうした文化を称揚するのは危ういことを、さすがに鶴岡真弓氏はしておられる。
相当な覚悟と自覚がないと、そうした文化に直面し、まして現代にあってその文化を生きるなど、できるはずもないのだ。
単なる異境への憧れであってはならない。ある意味、「ロハスな暮らし」とは対極にある文化なのかもしれないし。
という感懐を抱いたところで、土曜日、そして日曜日のあれこれジタバタな我が週末は力尽きたのだった。
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