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2006/11/16

秋の月…天頂の恵みし光湯浴みする

 某コミュニティ([mixi] )で「月」のトピック(コミュニティ)があり、その中の数あるスレッドの中に「月に祈る」という題のスレッドがあった。
 まあ、半分、仲間内のコミュニティなので詳しいことは書けない。

 そのスレッドに、小生、例によって即興で以下の句を呈しておいた:

天頂の恵みし光湯浴みする

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→ 14日、銀座4丁目の交差点で信号待ち。空が真っ蒼だった!

 句といっても、俳句とも呼べず、川柳というには軽妙さに欠ける。
 意味は、天にあって煌々と照るお月さんの光を、それこそ湯浴みするがごとくにたっぷり浴びる、という他愛もないモノ。

 月を巡っては小生は数々のエッセイを綴ってきた。
 以下、ホームページに載っている中から幾つか示しておく:

真冬の月と物質的恍惚と」(同じ頁に「真冬の明け初めの小さな旅」も載せているが、これも月明かりかどうかは不明だが、星明りと雪明りがテーマのようなエッセイである)

 月の光が、胸の奥底をも照らし出す。体一杯に光のシャワーを浴びる。青く透明な光の洪水が地上世界を満たす。決して溺れることはない。光は溢れ返ることなどないのだ、瞳の奥の湖以外では。月の光は、世界の万物の姿形を露わにしたなら、あとは深く静かに時が流れるだけである。光と時との不思議な饗宴。
 こんな時、物質的恍惚という言葉を思い出す。この世にあるのは、物質だけであり、そしてそれだけで十分過ぎるほど、豊かなのだという感覚。この世に人がいる。動物もいる。植物も、人間の目には見えない微生物も。その全てが生まれ育ち戦い繁茂し形を変えていく。地上世界には生命が溢れている。それこそ溢れかえっているのだ。
 けれど、そうした生命の一切も、いつかしらはその物語の時の終焉を迎えるに違いない。何かの生物種が繁栄することはあっても、やがては他の何かの種に主役の座を譲る時が来る。その目まぐるしい変化。そうした変化に目を奪われてしまうけれど、そのドラマの全てを以ってしても、地上世界の全てには到底、なりえない。
 真冬の夜の底、地上世界のグランブルーの海に深く身を沈めて、あの木々も、あそこを走り抜けた猫も、高い木の上で安らぐカラスも、ポツポツと明かりを漏らす団地の中の人も、そして我が身も、目には見えない微細な生物達も、いつかは姿を消し去ってしまう。
 残るのは、溜め息すら忘れ去った物質粒子の安らぐ光景。

真冬の明け初めの小さな旅
 降る雪だけではなかった。屋根から落ちる雪、雪降ろしで堆積した雪などが積み重なって、しかも、建物に面する雪の山は凍っていて、粗目(ざらめ)のような、それでいてツルツルに磨きたてられたような、形容の難しい様相を呈していた。
 不思議なのは、視界が完全に塞がれているにも関わらず、夜になり部屋の明かりが消されると、外がボンヤリとだけれど、明るく輝いているように見えることだ。分厚い雪の堆積を透かして外部の光が漏れ込む? だけど、真夜中だったり明け方だったりするのだから、外は暗いはずなのだ。
 なのに妙に明るい。雪が白いから、なんてのは子供にも納得できる説明ではなかった。雪の欠片の中に光が閉じ込められている。昼間とか、家の中が明るい時は、そうした真綿で包まれたような雪の光は大人しくしている。だけど、一旦、夜ともなり家々の明かりが疎らになり、やがてポツンポツンと凍えるように灯る電柱の蒼白な光しかないようになると、雪の中の蛍は命を燃やし始めるのだ。

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← やはり14日、台場とも隣接する有明地区で。青い空に浮ぶ雲の形が面白くて(信号待ちが長かったし)。

真冬の満月と霄壤の差と

 天頂の月は何かを小生に伝えようとしている…、そんな予感はある。
 けれど、感性の窓が曇ってしまった小生は、もしかしたらドアを叩いているかもしれない誰かの問いにさえ応じることが出来ない。億劫なのだ。立ち上がるのも面倒臭いのである。魂という言葉に格別な感を覚えた昔が夢のようだ。
 光は、地上世界を照らす。けれど、照らしているのは地上世界だけではない。光は四方八方を遍く照らし出している。なのに、若い頃は、己の魂を光が直撃しているかのような錯覚を覚えていた。我が魂のうちを眩しほどに浮かび上がらせて、誰の目にも己の無力さが露になっているかのように感じて恥じるばかりだった。天は我を見下ろしているのだと思った。
 そして思いたかったのだ。
 が、天は、光は遍くその輝きを恵んでいる。己をも彼をも海をも山をも、あの人をも。空を舞い飛ぶ鳥をも、地を這う虫けらをも、そしてやがては地の底に眠る命のタネたちをも。
 照らし出されているのは自分だけではない。だから、自分は主役ではないのだ …と思えばいいのか。思ってもいいのか。

有明の月に寄せて/月影に寄せて

 若い頃には、それなりの自負もあったはずなのに、そんなものは、風に吹き飛ぶ埃のように、とっくに打ちのめされ、ここにいる自分がいかにちっぽけな、それこそ吹く風に命運の全てが任されてしまっている…、どうしようもない泥沼の深みに嵌り、自力では到底、抜け出す望みなどない…、だからといって、絶望の淵で呻吟して誰かに救いを求めるほどの声を張り上げる気概もあるはずもない。
 悲鳴の声さえも、弱々しく擦れがちなのである。
 有明の月というのは、季語でもあるのだろうか。小生は、そんなことも知らない。
 ただ、明け方になって、すっかり影の薄くなった有明の月を、何処かの曲がり角を曲がった瞬間に行き逢う。自分の薄くなった存在感そのままに天の鏡に映し出したかのような、ぼんやりした掠れがちの月。強烈な太陽光の照射に掻き消される一方。あの、心の隅々を照らし出し、残る隈なく心を赤裸にさせた月がまるで嘘のようだ。
 狐に抓まれた面持ちさえする。

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→ 渡辺 信一郎 著『江戸の女たちの湯浴み―川柳にみる沐浴文化』(新潮選書)

十三夜の月と寒露の雫と

 未だ小生が若い頃、夜の町を歩くのだ好きだった。当てもなく仙台の町を歩き回った。職質を受けたこともあったものだった。東京などに比べれば、小規模な町かもしれないが、それでも、人が一人、足だけで歩き回るには、たっぷりすぎる世界を与えてくれた。
 小生がアパートに篭ることができず、炙り出されるようにして外に出るのは、決まって月の晩だったのだと、今にして気が付く。
 月を背にして、あるいは月を斜めに、時には月を追うようにして、どこまでも歩いた。夜の町には、人影など一つとしてない。月を追いかけて歩くと、自分の影さえ、ないも同然である。
 そんな時、例えば小生は、自分の手を匕首か何かのように感じる。その匕首を眼前の茫漠たる闇の海に突き立ててみる。勿論、何の手応えもあるはずはない。しかし、刃は時には、紺碧の闇に擦れて焔を上げるような気がしたのだ。
 あるいは、月夜に誘われ彷徨ったそんな時、例えば、小生はそっと手を杯の代わりに差し出す。すると、その手の平に月の光が注がれる。その光をグイッと飲み干す。命の光が自分の中に取り込まれたような気になる。
 そうだ、オレが欲しいのは命なのだ。誰からも孤立して、誰彼と心を分かち合う能もなく、これから何十年、恐らくは死ぬまで無為な時を過ごすであろう自分に欲しいのは、命、それが叶わぬなら、せめて、命の影。

 いよいよ秋も深まり、月影が冴え渡ってくる。
 小生の仕事は徹夜が習い。晩秋ともなると夜が長い。その長い夜を、月影を追いつつ、それとも追われつつ見果てぬ向こう側に向って渡っていくのだ。

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← ティントレット「湯浴みするスザンナ(The Bathing Susanna)」 (Tintoretto 1518-1595) (「Art at Drian」より)。本文とは湯浴み繋がりだけ!

 さて、上掲した句「天頂の恵みし光湯浴みする」だが、書き付けてから、ちょっと湯浴みという言葉が気になった。
 まあ、意味合いは、「湯につかって体を暖め、洗うこと。入浴。沐浴」(大辞林 第二版)とのことだから、見当外れな具合には使っていないようで安心した。
(間違っても、「湯呑み」と勘違いされないように!)
 
 ネット検索してみたら、「人生の鱗 其の五 湯浴みの女 名古屋大学 武田邦彦」というエッセイが見つかった。
 明治10年に腕足類の研究のため日本にやってきたモースが、日本では机の上に置きっ放しの小銭には目も呉れないことに驚いたとか、やはり日本にやってきた欧米人が、「道路の脇に簡単な桶を置いて妙齢のご婦人が裸になって湯浴みをしているのにビックリした」こと、しかも、「日本人を見ていると女性が湯浴みをしているのに、何となくそちらの方を見ない。ときどきちらっと目をやっても女性が気になるほどには、そして女性に失礼にならないように気を配っている」ことに感心したこと、などが書いてある。
 文中、女性が湯浴みする(興味深い)画像が載っている!

 さらにネット検索を続けたら、渡辺 信一郎 著『江戸の女たちの湯浴み―川柳にみる沐浴文化』(新潮選書)なる本を発見。
 内容は、「多くの古川柳と絵図をもとに、江戸の女たちの湯屋の利用と入浴の実相、女性の行水や腰湯、髪洗いの実態を明らかにした沐浴文化論。湯気の向こうに江戸の女たちの姿態が、生活が見えてくる」だって。
 ああ、こういう本、大好き、読んでみたいな……。
 はて、どこかで聞いたことのあるような題名。
 なんのことはない、小生、既に手にとって読んでしまっている!

伊勢参(いせまいり)」と題した季語随筆の中で、以下のカスタマーレビューを紹介している:

 近世日本の庶民は、混浴の銭湯に平気で入り、裸体を恥じなかったと、日本を訪れた西洋人らの記述から生まれた俗論が跋扈しているが、本書では、川柳を資料として、男たちが混浴でそれなりに興奮していたこと、娘たちがそれなりに恥じていたことを明らかにする。そして読物としても優れている。日本人は性に対して無感覚だった、の類の俗説を、穏やかに退ける好著である。
                        小谷野敦

 小谷野敦氏!
 小生は同氏の本『江戸幻想批判』(新曜社刊)についての感想も書いたことがある。同一人物と見て間違いないはずである。

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→ 小谷野敦著『江戸幻想批判』(新曜社刊)

 小生、『江戸幻想批判』の中に掲げられている湯屋の絵図などを見て、当時、以下のような駄句を捻ったものだった:

  絵図なれば覗き放題し放題 
  春の風煽るだけ煽って知らん顔 
  春風を懐(ふところ)溜めて舞う心地 
  春風や妖しく吹いて消ゆる影

 いずれも、小生の頭の中がいかに軽やかで風通しがいいかを示している好句の数々である!

 ついでながら、「伊勢参(いせまいり)」でも紹介しているが、「江戸浮世風呂」なるサイトは小生の大好きな場所。

 書いているうちに何を書きたかったのか分からなくなってしまった。
「月影」の話題のはずが、「湯浴み」になり、ついには「浮世風呂」に至ってしまった。
 これ以上、小生が本性を晒さないうちに、本稿を終えてしまおう!

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