蛍光で浮ぶケルトと縄文か
日曜日はまたまたスタジオへ行ってきた。いうまでもなく我がサンバエスコーラ・リベルダージ(G.R.E.S.LIBERDADE)の練習拠点である。
といっても、心を入れ替え初心に帰って練習しに行った…のではなく、これまで撮り溜めた写真を被写体となってくれた方々に貰っていただくために行ったのである。
去年までの三年分の写真をまとめて持って行ったのだが、手に提げたバッグの重いこと。
スタジオの受付脇で写真を並べつつ見返してみたのだが、僅か数年でも、チーム全体もだが、チームの面々個々の方の変化に感懐を覚えていた。
と言いつつ、自身こそ一番、齢(よわい)を覚えているのだが。
この辺りのことも含め、週末ジタバタ日記を書こうと思った…が、メモしておきたいことがあるので、火曜日辺り、時間が取れたら書くことにする。
→ 11月3日(金)、渋谷にあるNHKの傍を通りかかったら、凄い人だかり。見ると、不思議な生き物が愛嬌を振りまいている!
あるいは遅まきながらなのかもしれないが、相変わらずケルト文化への関心が沸き立ったままである。現に今も、「古(いにしえ)の先の先にも人のあり」にて書名だけ紹介しているが、ボブ・カラン著/アンドルー・ウィットソン絵『ケルトの精霊物語』(萩野 弘巳訳、青土社)や鶴岡真弓/鎌田東二編著の『ケルトと日本』(角川選書)などを読み続けている。
最近の拙稿では、「ケルト…エッシャー…少年マガジン」や「ケルトとはウロボロスの輪の積み重ね?」などでケルト文化関連の記事を書いている。
少しだけ遡ってみると、昨年末、「枯木立からケルト音楽を想う」や「「ケルト文化」補筆」にて、歌手のエンヤなどと絡めたりしてケルト文化に触れようと試みていたのだった。
小生らしく、まことに牛歩そのものなのだが、少しずつ、ケルト文化の奥のとてつもない深さと広がりを、というより際限のなさとしか言いようのない、このまま突っ込んでいくと底も先も見えないだろうという予感を覚えつつある。
さて、鶴岡真弓/鎌田東二編著の『ケルトと日本』(角川選書)を読んでいて、ケルト文化についての知見を得つつある。
小生自身、何処かで書いたと思うのだが、ケルト文化と縄文文化との共通性、あるいは何処かしら通底する何かを予感していたのだが、案の定だった。
上掲書では、かの岡本太郎が縄文式土器のその縄文の美しさ凄さ迫力を発見する過程で、ケルト文化に共通する精神を嗅ぎ取っていることを教えてくれている。
ケルト文化と縄文文化との共通性に付いては多くの方が既に(ネットの世界においても)言及されている:
「Tigreの遊び場~ベルギーから ケルトと縄文」
「縄文・弥生のハイブリッドシステムを忘れるな」
「縄文」
「古事記とケルト人 - 氣のネットワーク - 楽天ブログ(Blog)」
小生自身はというと、「「ケルト文化」補筆」にて、「周縁の地…というと、日本列島など、その典型の一つなのであろう。特に縄文文化などその最たるもので、縄文式土器の文様や妖しい土偶など、日本的なケルトに相当するのではと思われる。
が、これはまた、別の話ということに」と書いたまでは良かったが、例によって例のごとくで、中断したままである。
岡本太郎の縄文式土器との出会いの後、「梅原 猛などが学者の立場から縄文文化論を展開していくこととなった」のだった。
このことは、「岡本太郎著『今日の芸術』」などで若干、触れている。
ケルト文化への関心。
「オンライン書店ビーケーワン:ケルトと日本「ケルト的なるものと日本的なるものに通じる何かを探る、比較文学研究家らによる新たなケルト考への試み」なる頁の中で、書評士が本書より本書の編者でもある鎌田氏の言を引用されている:
「二十世紀末の今日、新たなケルト・リバイバルや縄文および神道リバイバルが興っているかに見える。しかし、それは、近代化の道程で辺境に追いやられ、敗北していった異端の伝統や異郷に対する単なる懐郷ではない。また、近代化の諸矛盾を突破する一方法としてのポスト・モダン的問題に引きつけたものでもない。そのような面が皆無とは言えないが、むしろ文明の構造を相対的、総合的に問い返す原初からのまなざしとして、ケルトや縄文や神道が一つの焦点になってきている」。
思うに、近代文明への危機意識とか、グローバリゼーションの荒波に飲み込まれそうな鬱陶しさ窮屈さ、そして科学・技術の限界などと言われたりもするが、しかし、だからといって過去を見直したり、見過ごされたもの打ち棄てられて来たものを掘り起こしたりするのはいいとして、過去の再評価という名の後退や過去という名の塹壕への退避であってはならないと思う。
目の前に病気の人がいる時に、直したいという気持ちはともかく、だからといって呪術やお祈りや神秘さを装うばかりであっては、直るものも直らない。
科学や技術という武器を手にした以上は、その営為を続け研ぎ澄ませていくしか、当面は道がない。
温暖化が進む、だからといって誰もが縄文人の生活を送れるわけもない。
それどころか、中国やインドのそれぞれ十億以上の民がアメリカ並み、あるいはそれ以上の生活水準を目指して猛スピードで経済成長を遂げつつある。
となると、環境技術も含め科学技術・研究開発を一層、進めていく方途を選ぶしかないのだろう。
また、鳥インフルエンザが今は、鳥から人への段階だが、やがて人から人への感染が始まり、感染爆発がいつ始まってもおかしくない状況がこの数年、続いている。
人感染が察知されたら、即座に遺伝子解析してワクチンを作るしかない。
縄文文化やケルト文化を再評価するとしても、加速度を増す現代科学や技術開発の突端に依存せざるをえない実情を軽んじたり、まして無視などできるはずもない。
日常は、科学文明の恩恵に浴し、あるいはその先兵となって働きながら、週末だけ、森へ分け入って、縄文文化やケルト文化への懐郷の念に浸っている、というのでは、単に週末の過ごし方にヴァリエーションを一つ持っただけに終わる。
この現実を踏まえつつ、一回性そのものである人生を生きるしかないその稀有さを思うこと、これが大切なような気がする。
「縄文・弥生のハイブリッドシステムを忘れるな」の中で興味深い記述を見つけた:
「大陸を隔てた反対側の周縁にはケルト民族がいる。妖精が今なお生きるケルト民族と日本人との共通点を見出したのは、「庭の千草」(アイルランド)や「蛍の光」(スコットランド)などのケルト・ミュージックを日本に持ち込んだ森有礼、そして小泉八雲 (ラフカディオ・ハーン)であった。」
鶴岡真弓/鎌田東二編著の『ケルトと日本』(角川選書)の中で小泉八雲には言及されているが、森有礼のことはどうだったか(まだ半分しか読んでいない。この先、出てくるのだろうか)。
明治の世に「「庭の千草」(アイルランド)や「蛍の光」(スコットランド)などのケルト・ミュージックを日本に持ち込んだ」のだとして、ケルト文化だと認識してのことだったのか、それとも、文化的背景はともかく、日本人の感性に訴えるものがあると直感してのことだったのか、その辺りのことを知りたく思う。
まず、元はといえばスコットランド民謡だった「蛍の光」がケルト音楽なのかどうか。
この点は、「米文学ブログ アメリカ英語の韻文・散文 ロバート・バーンズ ロックの源流」が詳しい。
「あなたが音楽好きの人で、米国のロック、フォーク、カントリー、あるいはケルト系の音楽、スコッチ・ウィスキーなどに興味があるなら、スコットランドの民謡作家としてのバーンズを調べてみると良いです」以下、興味深い記述で読んでいるだけであれこれ想念が湧いてくる。
さらに、「「蛍の光」という題名で日本では知られている別れの歌も、もとはスコットランド民謡です。"Auld Lang Syne" という原題はスコットランド方言ですが、標準英語に移せば "Old Long Since" 「ずっと昔の、良き日々」という意味です」とも書いてある。
ケルトとスコットランドとの関係に付いては、「スコットランド低地に住む人たちの中には、イングランドによるアイルランド侵略、あるい進出にともなって、同じように海を越えてアイルランド北部へ移住する人も沢山いました。そこでスコットランド民謡はアイルランドのケルト民族音楽とも融合したようです。ウィスキーの製法も伝わり、アイリッシュ・ウィスキーが造られるようになりました」とある。
さて、肝心の何ゆえ、あるいはどういう経緯があって、スコットランド民謡の「蛍の光」が日本の小学唱歌に採り入れられることになったのかについては、時間切れで調べきれなかった。
また、後日ということにする。
「蛍の光」については、これはこれで単独で採り上げるに値する興味津々の話がありそうだし。
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