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2006/11/18

プルースト…明日の記憶文字にせし

 今日、11月18日は『失われた時を求めて』の作家・マルセル・プルーストの亡くなった日である(1871年7月10日 - 1922年11月18日)。
マルセル・プルースト - Wikipedia」によると、「プルーストはパリ郊外のオートゥィユにある母方の伯父の家で、医師の息子として生まれ」た。
「9歳のときに彼は喘息の発作を起こし死にかけた。彼は病弱で、光と雑音に対し時々神経過敏になった。そのため、後にオートゥールの大叔父の家の印象と交じり合って架空の村コンブレーのモデルとなる、イリエの村でしばしば長期の休暇を過ごした」という。
 また、「青春期は社交界のサロンに出入りし、交遊を広げた。この時期のプルーストは、小説を書こうとして果たせず、スノッブ(俗物)そして審美家として名声を博していた。サロンでの経験や見聞が『失われた時を求めて』の重要なモチーフになった」とか。


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→ プルースト著『抄訳版 失われた時を求めて』(鈴木 道彦訳、集英社文庫)

失われた時を求めて - Wikipedia」によると、『失われた時を求めて』は、「第一次世界大戦前後の都市が繁栄した時期・ベル・エポックの世相風俗を描くとともに、社交界の人々の俗物根性(スノビズム)を徹底的に描いた作品でもある」という。
 いつもながら素朴な小生は、プルーストが「ベル・エポックの世相風俗を描く」までならともかく、何ゆえ、「社交界の人々の俗物根性(スノビズム)を徹底的に描」く必要があったのかということに疑問を抱く。
 彼なら、もっと他に描くべき世界がありえたのではないのか。
 彼の俗世間での知見が基本的に社交界や「海岸の療養地、カブール」しかなかったから?

 まさか、であろう。
(それにしても、小説の中に登場する架空の街の名・バルベックは、カブールとベル・エポックをない交ぜにしたような気がする。)

 あるいは、プルーストは、雑駁な世間以外に描くに値するものはないと、思い定めていたのかもしれない。そうしtた猥雑さこそが懐かしい、切なる欲望の欲する世界だったのかもしれない。

「物語は、ふと口にした紅茶に浸したマドレーヌの味から、幼少期に家族そろって夏の休暇を過ごしたコンブレーの町全体が自らのうちに蘇ってくる、という記憶を契機に展開」するように(プルースト効果)、小説は内面世界、記憶を契機に蘇る世界ばかりを描いているようではあるが、「ドレフェス事件で熱烈な弁護活動に加担したこと」(「松岡正剛の千夜千冊『失われた時を求めて』(全13巻)マルセル・プルースト」より)などを思うと、決して内向き一辺倒の引きこもり的人物ではなかったことは明らかなのだ。

記憶と時間の問題をめぐり、単に過去から未来への直線的な時間や計測できる物理的時間に対して、円環的時間、そしてそれがまた現在に戻ってきて、今の時を見出し、円熟する時間という独自の時間解釈、「現実は記憶の中に作られる」という見解を提起して、20世紀の哲学者たちの時間解釈にも大きな刺激を与えた」というが、時間というと、カントなど哲学者たちの時間論もさることながら、なんといってもアウグスティヌスの時間に付いてのコメントを思い起こしてしまう。
 つまり、「では時間とは何か。私に誰も問わなければ、私は(時間とは何かを)知っている。しかし(時間とは何かを)問われ、説明しようと欲すると、私は(時間とは何かを)知らない」のである(『告白』中の言葉)。

 アウグスティヌスの時間論については、「第2章 時間論」が参考になる(ホームは、「勝手に哲学史入門」)。
 ここでは、上記の頁からアウグスティヌスの言葉を転記させてもらう:

 どうしてまだ存在しない未来のものが減じたり、なくなったりするのであろうか.またどうしてすでに存在しない過去のものが増すのであるか.それはこのようなことをなす魂のうちに3つのものが存在するからではなかろうか.すなわち、魂は期待し、知覚し、記憶する.そして魂が期待するものは、知覚するものを経て記憶するものに移ってゆくのである.
 それゆえ、だれが未来のまだ存在しないことを否定するであろうか.しかしそれにもかかわらず、未来のものの期待はすでに魂のうちに存在するのである.また、だれが過去のすでに存在しないことを否定するであろうか.しかしそれにもかかわらず、過去のものの記憶はなお魂のうちに存在するのである.
 また、だれが現在という時間が一瞬のうちに過ぎ去るのであるから、それが長さを持たないということを否定するであろうか.しかしそれにもかかわらず、知覚は持続し,それを経て将来存在するものがもはや存在しないものとなるのである.
 それゆえ、存在しない未来の時間が長いのではなく、長い未来とは未来の長い期待であり、また存在しない過去が長いのではなく、長い過去とは過去の長い記憶なのである.

 ここにはアンリ・ベルグソンの純粋持続やウィリアム・ジェイムズの意識の流れやジェイムズ・ジョイスらを予感させる源泉がある。

 ちょっと大仰な話になった。
 アルツハイマー病という怖い病気がある。
「45~65歳に発病する大脳の萎縮性疾患で、痴呆に伴う失語、失行、失認がみられ」るもので、「神経細胞脱落による萎縮」といった症状が見られるという。

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← 明日の記憶

明日の記憶」という映画が一頃、話題になった(「明日の記憶-Asita no kioku- - 映画作品紹介」参照)。
 ストーリーは、「広告代理店に勤める佐伯雅行は、今年50歳になる。ありふれてはいるが穏やかな幸せに満ちていた。そんな彼を突然襲う〈若年性アルツハイマー病〉。
「どうして俺がこんな目に……なんで、俺なんだ!!」。こぼれ落ちる記憶を必死に繋ぎ止めようとあらゆる事柄をメモに取り、闘い始める佐伯。毎日会社で会う仕事仲間の顔が、通い慣れた取引先の場所が……思い出せない……知っているはずの街が、突然”見知らぬ風景“に変わっていく」というもの(「MOVIE 明日の記憶」参照)。
 難しい哲学論はさておき、記憶の喪失などの障害がいかに人格そのモノに脅威を与え、人格を破壊するに至る可能性を持つものか。
 症状が悪化すると、幻覚や嫉妬妄想さえも生じるというのだ。嗅覚、味覚も狂い始め、言葉も思考も想い出も薄闇の中に消えていく…。


 小川 洋子 著の『博士の愛した数式』(新潮社)も記憶に新しい作品である。
「記憶が80分しか持続しない天才数学者は、通いの家政婦の「私」と阪神タイガースファンの10歳の息子に、世界が驚きと喜びに満ちていることをたった1つの数式で示した…。頻出する高度な数学的事実の引用が、情緒あふれる物語のトーンを静かに引き締め整える」といった内容。
 小川洋子ファンならずとも魅了されたのではなかろうか。

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→ 小川 洋子 著『博士の愛した数式』(新潮社)

 人格。人間性。若年性痴呆の恐怖。しかし、年老いていくと、誰しもそうした症状へのプレッシャーと戦うことになる。あるいは、そうした症状の渦中にある人を身近に持つようになる。

 体が弱り、若い人のように街中で誰彼に注目されることもなくなり(特に若い頃、美貌だったりハンサムだったりすると、その反動か、老いて容貌に陰りを自覚すると、寂しさの感も一入となるらしいが)、擦れ違っても、誰も目もくれなくなっていく。
 そこにいるのにいないかのような存在。

 足腰が弱ると、外出も億劫になる。引きこもりがちの生活になってしまう。
 一旦、引きこもり生活が老年になって始まると、一気に気力も萎え、記憶力も萎えてしまう。
 何事も覚えておく意味がなくなるのだ。
 だって、周りの誰も自分に注目するわけもないし、周囲に関心を抱く意味が、意義が感じられないではないか、というわけである。

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← 荻原 浩著『明日の記憶』(光文社)

 そう、何も脳などの肉体的・器質的損壊だけじゃなく、単に容貌(容色)や体力の衰え自体が、世の中からの埋没・後退・消滅を意味しかねないことをつくづくと感じる。
 老年の頃を迎えると、あるいは近づくことを感じると、ある意味、記憶の喪失に匹敵するような寂しさを(明瞭な記憶力と感受性で以て)日常的に痛感させられる。
 若さが持て囃される風潮が高まると、下手すると二十歳を過ぎただけで、もう、社会の第一線から離脱したような錯覚に苛まれる恐れもある。

 すると、年齢を問わず、生きて記憶と印象の波からはぐれ阻害され、社会から遺棄されているかのような毎日を送ることになる。
 立派な施設の中に暮らしていても、壁が綺麗で窓が透き通っていて、廊下が磨きぬかれている、その一つ一つさえもが嫌味に感じられてしまう。
 高齢化社会に生きるとは、そうした(少なくとも可能性としての、社会からの遺棄という形での)記憶の剥奪との戦いを生きるということなのかもしれない。
 否、もっと言うと、徹底した消費社会とは、人間性を消費し蕩尽する社会なのであって、生きながらにして人間性を磨耗させ、やがては消滅させる脅威と直面しつつ生きる社会に他ならないのかもしれない。
 
 老いることだけではなく、肉体の病に苦しむと、ベッドの周辺の狭い空間が生活の全てになってしまう。
 さらに追い詰められていくと、最後に残るのは、脳裏に浮ぶ思い出の数々だけになってしまう。記憶の中のイメージ、記憶を契機に広がっていく、あまりに鮮烈な時空間に残酷ささえ覚えたりする。
 つまるところ、切羽詰ったなら、人間には想い出しか寄り縋るものがないのではないか。
 その言葉と物との焦点としての思い出が消滅していくとしたら、記憶の死ほどに惨いものはないのかもしれない。

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コメント

プルーストの「失われた時を求めて」を高校の時に読んだことを思い出しました。とても、読み通すに根気のいる小説でした。時間の問題など少しも感じ取れませんでしたね。

投稿: kounit | 2006/11/22 21:20

kounitさん、来訪、コメント、ありがとう。
プルーストの「失われた時を求めて」は、読み通すには根気は要るかもしれないけど、文章の流れに乗っていけば、そう、波に身を任せるようにして漂っていけば、いつかは対岸に辿り着くような。
この小説に時間論を求めているわけではなく、描かれている世界そのものが眼前に(但し脳裏の中の)生々しくあるにも関わらず、その全てが失われた世界であり、失われた時なのだということを感じさせてくれる。
そう、まさに過ぎ去るものでしかありえない時の不可思議と痛切な懐かしさ、取り返しの付かなさの感を感じさせてくれるのです。
その意味で、最高の時の書だと思うのです。

投稿: やいっち | 2006/11/23 01:45

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