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2006/11/04

アントニオ・カルロス・ジョビンから西条八十の周辺

 昨日、祝日(金)は仕事だった。日中はそこそこに忙しかったものの、夜に入って暇になり、夜半を越すと、もう身を(車を?)持て余すほどに暇になってしまった。
 本は、室内灯を灯しても薄暗い車内では読むのが辛い。
 となると、頼りになるのはラジオであり音楽である。

 昨日も、幅広いジャンルの音楽を聴いたが、中でも印象に残ったのは、何故かNHKラジオ深夜便の「ロマンチックコンサート」で聴いた「アントニオ・カルロス・ジョビン&リュシェンヌ・ドリール」だった。

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→ アントニオ・カルロス・ジョビン『イネーヂト』(キング)。「ジョビン自身が最も気に入っている作品だと語った名盤。“未発表”という名の傑作」で「1995年に限定盤2枚組として発売されたものを1枚に再編集した作品」だとか。

 特にアントニオ・カルロス・ジョビンが何処か懐かしいような、でも新鮮でもあるような、不思議な感懐を抱きながら聴いていた。
 あるいは、彼の歌とは自覚しないで折に触れて聴いたことがあったからだろうか。

 それとも、ブラジル音楽、広くは南米音楽特有の人懐っこさのようなものが自分のような鈍感な感性の者にも染み入るからなのだろうか。
 無論、ボサノバという音楽ジャンル自体が不思議に和むような耳にも体にも心地好いってこともあるのだろうが(そのボサノバを生み出したのがアントニオ・カルロス・ジョビン!)。

アントニオ・カルロス・ジョビン - Wikipedia」によると、「ブラジルの作曲家・編曲家・ミュージシャン」であり、「20世紀のブラジル音楽を代表する作曲家」であり、「1950年代後半、ジョアン・ジルベルト、ヴィニシウス・ヂ・モライスなどとともに、ボサノバという音楽ジャンルを創生したと言われている」のだとか。
 さらに、「ジョビンの音楽的ルーツは、1930年代から活動していた、ブラジル近代音楽の父とも言うべきピシンギーニャ(Pixinguinha)やブラジル屈指の作曲家、エイトル・ヴィラ=ロボス(Heitor Villa Lobos)(共にショーロの音楽家)の影響を強く受けている。彼にはまたフランスの作曲家クロード・ドビュッシーなどクラシックの音楽家からの影響も大きいと言える」ともある。
 なるほど!

「エイトル・ヴィラ=ロボス」については、過日、触れたことがあるが、そのヴィラ=ロボスの影響を受けていることも、カルロス・ジョビンの音楽に親しみを感じた一因なのかもしれない。
 それに、ショーロの音楽については、サンバ・エスコーラ(チーム乃至クラブ)の一員である小生、少しは聞いたことがある。CDも持っているし。

 アントニオ・カルロス・ジョビンというと、なんといっても、ヴィニシウス・ジ・モライスとの共作である「イパネマの娘」だろう。この曲は、音楽ファンならずとも有名だし、すぐにどんな曲か思い浮かばなくとも、ちょっと聴けば、ああ、あの曲か、ということになるだろう。
 夕べ聞いた数々の曲の名は聞き漏らしたが(途中、寝入ってしまったし)、 「ワン・ノート・サンバ」などが印象に残っている。
 話題に出てきたジョアン・ジルベルト共々、そのうちCDを借りてきて聞き込んでみたい。


 昨夜は、NHKラジオで「画家たちの挑戦・オルセー美術館展」と題された神戸市立博物館主幹学芸員の岡 泰正氏の話も聴いた。ミレー、ゴーギャン、ゴッホなどの話題が満載だったのだが、これは絵画の話題をメモする時に改めて、ということにする。
 
 昨日、聴いた話で興味深かったのは、NHKラジオ夕刊という番組での「歌謡詩人・西条八十とその時代」と題された特集。
 といっても、話の内容は大半、忘れてしまった。まだ、夕方だったから、最初から半端にしか聞くことは叶わなかったのだが。

 西条八十のことは、名前だけは小生もかねがね聞いた事がある。ラジオでも折々特集される。
西条八十 - Wikipedia」を覗けば大概のことは書いてあるし、小生が付け加えるべきこともない。
 ラジオでは、彼が作詩した曲が幾つか流された。ああ、この曲も西条八十だったのかと改めて思い知らされる。
 架かった曲はというと、「戦後の民主化の息吹を伝え藤山一郎が躍動感溢れる歌声でヒットした『青い山脈』」などだったが、他にも有名な曲が目白押しで、「佐藤千夜子が歌ったモダン東京の戯画ともいうべき『東京行進曲』、(中略)、中国の異国情緒豊かな美しいメロディー、『蘇州夜曲』、古賀政男の故郷風景ともいえる『誰か故郷を想わざる』、『ゲイシャ・ワルツ』、村田英雄の男の演歌、船村メロディーの傑作、『王将』等無数のヒットを放った」のだった。

 以前、このブログで「金子みすゞ」を扱ったことがある。その際、「金子みすゞ - Wikipedia」からとして、「金子みすゞの詩は長らく忘れられていたが、岩波文庫『日本童謡集』の『大漁』を読んだ児童文学者の矢崎節夫らの努力で発掘され、1982年に出版されるや、瞬く間に有名になった。現在では小学校の国語教科書に採用されるまでになっている」なる一文を引用している。
 この点について、「西条八十 - Wikipedia」によると、「薄幸の童謡詩人金子みすゞを最初に見出した人でもある」と書いてある。

 ところで、小生、「映画化やドラマ化もされ有名になった森村誠一の『人間の証明』の中で、『ぼくの帽子』(『コドモノクニ』)が引用された」という記述でビビビと来た。

 この映画は、小生、珍しく何故か映画館(監督:佐藤純彌 主演:松田優作)で見ている。テレビでの再放送も見ている。
 森村誠一が書いた映画の原作である『人間の証明』(角川文庫)も読んでいる。
 ただ、映画に深く感動したか、というと、定かではない。
 映画の宣伝で耳に刻まれてしまった、西条八十の詩「母さん、僕のあの麦わら帽子」や、あるいはジョー山中の歌(の歌詞)のほうが、映画そのものよりも、今も印象に鮮やかな気がする。

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← 森村誠一著『人間の証明』(角川文庫)

西条八十「母さん、僕のあの麦わら帽子」の詩全文人間の証明」から、詩を転記させてもらうと(「『西条八十詩集』(弥生書房)より引用」とのこと):

母さん、僕のあの帽子、どうしたんでせうね?
ええ、夏、碓氷から霧積へゆくみちで、
谷底へ落としたあの麦わら帽子ですよ。

母さん、あれは好きな帽子でしたよ、
僕はあのときずいぶんくやしかった、
だけど、いきなり風が吹いてきたもんだから。

母さん、あのとき、向こうから若い薬売りが来ましたっけね、
紺の脚絆に手甲をした。
そして拾はうとして、ずいぶん骨折ってくれましたっけね。
けれど、とうとう駄目だった、
なにしろ深い谷で、それに草が
背たけぐらい伸びていたんですもの。

母さん、ほんとにあの帽子どうなったでせう?
そのとき傍らに咲いていた車百合の花は
もうとうに枯れちゃったでせうね、そして、
秋には、灰色の霧があの丘をこめ、
あの帽子の下で毎晩きりぎりすが啼いたかも知れませんよ。

母さん、そして、きっと今頃は、今夜あたりは、
あの谷間に、静かに雪がつもっているでせう、
昔、つやつや光った、あの伊太利麦の帽子と、
その裏に僕が書いた
Y.S という頭文字を
埋めるように、静かに、寂しく。


 映画の感想などは、この際、省く。
 小生、この詩を映画などで流行って幾度となく聴いていた当時、「夏、碓氷から霧積へゆくみちで、 谷底へ落としたあの麦わら帽子」と、「母さん、あのとき、向こうから若い薬売りが来ましたっけね、紺の脚絆に手甲をした。そして拾はうとして、ずいぶん骨折ってくれましたっけね」というくだりばかりが妙に気になっていた。
 あの頃、詩を詩として味わってはいなかったような気がする。
 
 抜き書きした部分が気になったのは、実に散文的な理由があってのことである。
 小生は、82年の4月に250ccのバイクを駆ったのを皮切りに、東京でのオートバイライフを始めた。
 郷里である富山への帰省にも、正月以外は(但し、3回か4回はバイクで!)、オートバイを使う。その際、後年は段々面倒になり高速道路ばかりを利用するようになったが、最初のうちは、可能な限り一般道を使った。
 東京の自宅(当時は高輪)から関越道を利用して高崎へ。そこで高速道路を降りて一般道へ。
 高崎から碓氷峠を越えて飛騨高山へ抜け、そこから一気に北上し富山へ向うのが例年のルートだった。
 碓氷峠は、日光のイロハ坂が延々と続くような道で、対抗する車と擦れ違うのも怖い場所が多いし、崖も多い。
 ほとんどが峠道のようなものだった。

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→ 『西条八十詩集』(ハルキ文庫)

 それだけに「夏、碓氷から霧積へゆくみちで、 谷底へ落とした……」のくだりは身につまされるようなものがあるわけである。
 というより、碓氷峠を通りかかるたびに、映画の場面、否、詩のこのくだりが妙に思い浮かんでならなかった、思い出されてならなかった、というべきか。

 ほんの少しハンドルを、ほんの少しアクセルワークを、ほんの少し気を抜くと深い谷底へ真っ逆様である。
 そうでなくとも、森の曲がりくねった道の向こうから不意に車がやってくる。

 では、「向こうから若い薬売りが来ましたっけね」というくだりが気になるのはなぜ。何も、碓氷峠近辺で薬売りに出会ったというわけではない。
 小生の時代(80年代の前半から半ば)には、薬売りの方は、仮に擦れ違っても、それと分かる格好をしているはずもなく、気付くことはまずないだろう。

 では、なぜ。
 そう、薬売り(売薬さん)といえば富山、富山といえば薬売りで、小生の親戚にも売薬さんがいたはずである。
 その両方が詩の中に織り込まれていることもあって西条八十の詩が印象的。

 あまりに散文的で情けないような気がする。
 
 ところで碓氷峠は有名だが、「碓氷から霧積へゆくみち」の「霧積」は、少なくとも小生は当時も今も、ピンと来ない。
 ネット検索してみると、「日本鑑定の温泉日記へようこそ 温泉作家簾田彰夫  温泉日記29 霧積温泉 きりづみ館 平成13年10月7日更新」が浮上してきた。
 温泉の画像も載っているし、地図も載っていて参考になる。

 さらには、「日々 2005年09月02日(金)  霧積む里」が見つかった。一層、詳しい記述が得られる。
「まだ軽井沢が避暑地として脚光を浴びる以前、この霧積の里が避暑地として賑わっていた」として、以下、小生にはちょっと驚きの記述が続く:

勝海舟は皮膚病の湯治のためにこの地を訪れ永く滞在した。
伊藤博文ほか45人の政治家が明治憲法の草案を練り上げるために逗留し、与謝野晶子は籠でこの地を訪ねている。

「政界人や文人などの別荘が建ち並び避暑地として賑わったそんな歴史を秘めた霧積もやがて開け行く交通の発達によりいつしか秘湯の里へと変わっていく」というのだが。
 載っている写真がまた、明治を思い起こさせるようで、素晴らしい。

 森村誠一は学生の頃、霧積辺りへ旅行したことがあるらしいが、西条八十は碓氷峠から霧積に続く道を歩いたことがあるのだろうか。詩は虚構とは違うから、あるいは実際に歩いたことがある…それだけじゃなく、母さんに貰った帽子を谷底へ落としたことがあったのだろうか。
 それとも、そんな光景を目にしたことがある?

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コメント

噂をすれば影なのか、本文中で触れているジョアン・ジルベルト。なんと、当の本人が来日していて、昨日6日、国際フォーラムでコンサートがあったとか。
もち、「フェリシダーヂ」も歌った。
ちなみに、秀島史香さんが聴きに行ったとか:
http://www.interq.or.jp/tokyo/fmbird/cgi/sunbbs_fumika/
これの「Date: 2006-11-06 (Mon) 神の手」参照。

これまた噂をすれば、じゃないけれど、これも本文中で触れている映画『人間の証明』に出演していた松田優作は、昨日6日が命日。
「1949年9月21日 - 1989年11月6日」
小生は知らなかったのだけど、6日夜のラジオで彼のことが話題に出てきて知った。
夕べの話題では、遺作となった「ブラック・レイン」(監督:リドリー・スコット)での松田優作のことが特に褒められていて印象的だった。
彼の活躍があって日本人の俳優が評価された面があるとか。やがて渡辺謙らのハリウッド進出につながったとも。
その「ブラック・レイン」だけれど、松田優作は完成した映画を観ることなく亡くなったのだとか。

投稿: やいっち | 2006/11/07 08:42

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