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2006/10/13

アンゲルス・シレジウス…寄る人を刺すこともなき薔薇ありや

ウィトゲンシュタイン哲学宗教日記―1930‐1932/1936‐1937』(イルゼ・ゾマヴィラ編、鬼界 彰夫訳、講談社)をバッハのヴァイオリン協奏曲やエンヤのCDなど聴きながら読んでいたら、シレジウスという名の詩人に言及されていた。
 シレジウス……。聴いたことは、早々と堕ち零れたとはいえ、曲がりなりにも哲学徒だった小生、名前くらいは聞いたことがあるが、どんな人と聞かれても、答えに窮する(ほんの一瞬、学生時代の一時期聞き浸ったシベリウスと混同しかけた)。
 誰にも訊かれないうちに、彼に付いてネットで拾い集められる情報をメモしておきたい。
 アンゲルス・シレジウス(Angelus Silegius、1624-77)は、一般的には、ドイツ・バロック期の神秘主義的宗教詩人と冠せられる。

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← 或る日、山間(やまあい)の道にて。

 本書『ウィトゲンシュタイン哲学宗教日記』に拠ると、「シレジウスは神秘思想を摂取し、それは彼において汎神論的な色彩を帯びていた。彼は一貫した哲学体系を展開するのではなく、神と永遠に対する人の関係についての彼の思想を「知の断片」(W.フレミング)として表現した」という。
 また、同書に拠ると「ダニエル・チェプコの『箴言集』にならって大体は二行詩の形で書かれているが四行で対立的に構成されたアレキサンダー詩句の形で書かれているものもある」とか。

 ネットでは(小生が探した範囲内では)彼に付いてのまとまった記述は見出せなかった。
 残念ながら、以下に示すような名言の類いが(多くは、『シレジウス瞑想詩集』よりの)引用の形で掲げられているだけである。
 小生は、アフォリズムは嫌いではないが、名言・格言(集)の類いは好きではない。簡潔な表現の中に的確な指針や深い知恵が示されているとは思うのだが、読んでみても、だから何。それがどうしたの。現実は言葉とは違うでしょ、などと反発してしまう。小生は、そんなひねくれた根性の持ち主なのである。

 そうはいっても、ヴィトゲンシュタインの周辺事態となると気になる。
 以下、ネットで見出されたシレジウスの名言の数々を順不同で列挙する。


神に向かって叫んではいけない。
水源は汝自身の中にある。    
(典拠は、 『致知 2004.1』か。「名言サイト 【一千人の言葉集】」より転記。)

太陽は宇宙を動かす
太陽は星々を踊らす
あなたは自身の心を動かさない限り
宇宙の仲間に加われない
(「佐藤公俊のホームページ」の中の「間奏曲」より。)

足ることを知っている者はすべてを持っているのだ。欲深く多くを求める者は、どんなに多くのものを得ても、まだ足りないと思うのである
(「五十歳からの生き方 UBブックレビュー 株式会社ユート・ブレーン」より。)

人よ、本質的なものとなれ。なぜなら世界が滅びるとき偶然は滅び、本質的なものだけが生き続けるからだ。
(「words7」より:ホームページ

キリストが千度ベツレヘムにお生まれになっても、あなたの心の中にお生まれにならなかったら、あなたの魂は捨てられたままです
(「教会のこよみ(その1) 主の降誕(クリスマス)(12月25日)」より。)

薔薇はなぜという理由なしに咲いている。薔薇はただ咲くべく咲いている。 薔薇は自分自身を気にしない、ひとが見ているかどうかも問題にしない。
(「Today's Proverb 今日の格言 シレジウス」など、多くのサイトで引用されている。)

永遠の言葉が語っていることをあなたの中で聴こうと思うならば、 まずあなたは完全に聴くことをやめなければならない。
(「キース・ジャレットの即興演奏における創造の秘密」より。)

財産の乏しい人は何より自由である。だから正に心貧しい人ほど自由な人はないのだ。
この世にまったく所有欲をもたない者は、たとえ自分の家を失ってもその損失を悩むことはない。
人よ、けちけちと自分の財産だけを守ろうとすると、あなたはもはや真の平安の中に住まなくなるだろう。
守銭奴は愚かな者だ。彼は滅びゆくものを集めようとしている。施しを好む者は賢明な人間だ。彼は滅びぬものを得ようとしている。
賢者は賢いから金が入ると寄金箱に入れてしまう。ところが守銭奴はその金を心の中にしまい込もうとするから心の休まる時がないのだ。
富はあなたの心の中になければならない。心の中にもたなければ、たとえ全世界を所有したとしても、それはあなたの重荷になるだけだ。
(以上は、「考えるための書評集 ステイタスの不安を解消するために」より。)

(最も自由な境地とは、中心点におのれを置くことであるが、それは時空や物の種々の束縛ではなくて、むしろさまざまな諸存在に親しむことで、そのことで神に好かれ、美しくなることだ)
(「glocal ethos「自由」とは」より。)

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→ ジャック・デリダ著『名を救う―否定神学をめぐる複数の声』( 小林 康夫/西山 雄二 訳、ポイエーシス叢書53、未来社)

シレジウス瞑想詩集  全二冊』(植田 重雄/加藤 智見 訳、岩波文庫)
ジャック・デリダ著『名を救う―否定神学をめぐる複数の声』( 小林 康夫/西山 雄二 訳、ポイエーシス叢書53、未来社)
 本書は、「ドイツ・バロック期の神秘主義的宗教詩人アンゲルス・シレジウスの代表作『ケルビムのごとき旅人』の否定神学的な美しく難解な詩句を引用しライプニッツやハイデガーの言説を踏まえそこに秘められた論法の根源性と複数性を明るみに出す。デリダ的論理の根幹に触れる臨場感あふれる言説のパフォーマンス」といった本で、「引用に使われる詩人シレジウスの詩の、なんと世界の示唆に富んだこと。 そしてそれを辿り、言語の彼方に虹をかけようとするデリダの静かで激しい情熱」だという(「Anna's cinematheque by DUOBLOG 名を救う  否定神学をめぐる複数の声」より)。
 どちらも小生は未読だが、近いうちに読んでみようと思う。

 以下に示すのは、小生の「エッセイ祈り の 部 屋」に収めた雑文集の中からの抜粋群である。
 既に書いてから数年を経たものが多い(ほとんどがサンバと出会う前の文章だ)。今の小生が綴ると、少しは違う肌合が滲み出る…かもしれない。
 いずれにしても、シレジウスとの違いが歴然!

 人は死ぬと塵と風になるだけなのだろうか。魂とか情念の類いも消え果るのだろうか。もしかしたら塵となって風に舞うだけ、というのもある種の信仰、ある種の思い込みに過ぎないのではないか。死んでも死に切れなかったら。最後の最後の時になって、その末期の時が永遠に続いたとしたら。時間とは、気の持ち方で長さがいかように変容する。死の苦しみの床では、死の時がもしかしたら永遠に続かないと、一体誰が保証できよう。アキレスとカメの話のように、死の一歩手前に至ったなら、残りの一歩の半分は這ってでも進めるとしても、その残りの半歩も、やはり進まないと死に至らない。で、また、半分の半分くらいは何とか進むとしても、結局は同じことの繰り返しとなる。
 永遠とは、死に至る迷妄のことかもしれない。最後の届かない一歩のことかもしれない。だからこそ、天頂の月は自分には遥かに高く遠いのだろう。

 神も仏も信じない。それは生煮えの世界なのだ。現に燃えている、我が家が、我が身が燃え盛っているというのに、いつの日かの恩寵などお笑い種ではないか。
 闇の世界に放り出されて生きてきた以上、闇の中で目を凝らして生きる余地を捜し、真昼のさなかに夢を見る。その人の目は、この世の誰彼を見詰めている。けれど、その人の目は、誰彼を刺し貫いて、彼方の闇を凝視している。何故なら自分がこの世に生きていないことを知っているからだ。
 そして心底からの願いはただ一つ、自分を救って欲しかったというありえなかった夢だということを知っているからだ。そうした夢が叶うのは虚の世界でしかありえないのだ。だから、この世を見詰めつつ、その実、白昼夢を見るのである。
 願うのは生きられなかった己のエゴの解放。そうであるなら、つまり叶うことがありえなかったのなら、せめて、心の脳髄の奥の炸裂。沸騰する脳味噌。
 何か、まあるい形への憧れ。透明な、優しい、一つの宝石。傷つくことのない夢。
 そうした宝石をきっと、誰でもが、遅かれ早かれ探し始めるのに違いない。そう、ちょっと、ほんの少し、探し始めるのが早かったのだ。もっと、たっぷり生きて殻でよかったのに。でも、一旦、初めてしまったなら、やり通すしかない。真昼であっても闇、闇夜であっても同様の白い闇の世界の小道を、何処か深い山の奥から渓流の勢いに押し出されたヒスイの原石を求めて、終わりのない旅を続けるのだ。

 神も仏も要らない。あるのは、この際限のない孤独と背中合わせの宇宙があればいい。自分が愚かしくてちっぽけな存在なのだとしたら、そして実際にそうなのだろうけれど、その胸を締め付けられる孤独感と宇宙は理解不能だという断念と畏怖の念こそが、宇宙の無限を確信させてくれる。
 森の奥の人跡未踏の地にも雨が降る。誰も見たことのない雨。流されなかった涙のような雨滴。誰の肩にも触れることのない雨の雫。雨滴の一粒一粒に宇宙が見える。誰も見ていなくても、透明な雫には宇宙が映っている。数千年の時を超えて生き延びてきた木々の森。その木の肌に、いつか耳を押し当ててみたい。
 きっと、遠い昔に忘れ去った、それとも、生れ落ちた瞬間に迷子になり、誰一人、道を導いてくれる人のいない世界に迷い続けていた自分の心に、遠い懐かしい無音の響きを直接に与えてくれるに違いないと思う。
 その響きはちっぽけな心を揺るがす。心が震える。生きるのが怖いほどに震えて止まない。大地が揺れる。世界が揺れる。不安に押し潰される。世界が洪水となって一切を押し流す。
 その後には、何が残るのだろうか。それとも、残るものなど、ない?
 何も残らなくても構わないのかもしれない。 きっと、森の中に音無き木霊が鳴り続けるように、自分が震えつづけて生きた、その名残が、何もないはずの世界に<何か>として揺れ響き震えつづけるに違いない。 それだけで、きっと、十分に有り難きことなのだ。

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コメント

ウィトゲンシュタイン哲学宗教日記、は出版されたばかりでしょう、弥一さん購入されたのかな。
ウィトゲンシュタインが「語りえぬもの」倫理や宗教に大きな関心を持っていたけれども後期の言語ゲーム論ではまったくふれなくなりましたね。
「語りえぬもの」といえば「語りえぬもの」について、「神秘」といえば「神秘」についての言語ゲームができてしまう。
ウィトゲンシュタインは宗教者だったと思うけどそれについては沈黙せざるを得なかったのかな。

投稿: oki | 2006/10/14 12:40

哲学宗教日記は、ブログでも書いているけど、借り出した本。
本は、当面、買いません。

ウィトゲンシュタインは宗教・倫理・芸術などに晩年に至るまで、一貫して関心を持っていたと思います。
若い頃は、語りえぬものについては沈黙すべしとしていたのが、そもそも、語りえぬ・語りえないという語り口自体が俎上に上っているのだと思います。

投稿: やいっち | 2006/10/14 16:29

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