いじめ事件…虐めるか見て見ぬふりが良識か
いじめによる(と思われる)児童生徒の自殺がこのところマスコミを賑わす。
いじめ…なんだかガキの頃のことが思い出されて、身につまされる。
小生自身のことは、いずれ書く機会があるかもしれない。
隠遁の術(?)でサバイバルを図ったっけ…。
今は辛い当人たちも、とにかく生き延びて欲しいと思う。
日本の社会は狭くとも世界は広いのだ。
風に吹かれて流されるのではなく、ふところに風を入れてみて欲しい。
そうはいっても、大人になってもいじめからは自由になれないのが悲しい。
以下、採り上げる事件は、必ずしも直近のニュースではないが(この自殺報道が連日伝えられるという事実がまた悲しいが)、北朝鮮の核問題報道と前後するようにして伝えられワイドショーでも話題の俎上に上っていたものである:
自殺小6、いじめ記した遺書 「みんなに冷たくされた」
2006年10月2日(月)23:25
北海道滝川市の市立小学校で昨年9月、自分の教室で首をつり、意識不明のまま今年1月に死亡した6年生の女子児童(当時12)が、「みんなに冷たくされているような気がした」「キモイと言われた」などと書いた遺書を残していたことが分かった。同市教委は2日、記者会見して「児童の心のサインをつかめなかったことはおわび申し上げるが、現時点ではいじめの事実を確認できていない」と話した。
女児は昨年9月9日、教壇そばの天井にある「スクリーン台」に自転車の荷台のひもをかけ、首をつった。教卓に「死んだら読んでください」と書いた紙を上に、7通の遺書を残していた。
学校への手紙には「3年生のころからです。私の周りにだけ人がいないんです。5年生になって人から『キモイ』と言われてとてもつらくなりました」。6年生全員にあてた手紙には「私がいなくなってほっとしたでしょう」「みんなは私のことがきらいでしたか?」などと書かれていた。
これまでの市教委の調査で、自殺の10日前にあった修学旅行の部屋割りを決める際、女児がどのグループに入るかをめぐり3度にわたって話し合いがもたれたことや、昨年7月上旬の席替えで、男子児童が「女児の隣になった子がかわいそう」と発言し、女児が担任に訴えていたことなどが分かった。いずれも担任が指導して、学校は「解決し、仲直りした」との認識をもっていたという。
だが、自殺直前には同級生の一人に、「首つり自殺する 学校? 自転車ゴムひも たぶん9月中」などと、ほのめかす手紙を渡していたという。
この日、遺書の内容が一部で報道されたことを受けて会見した安西輝恭・市教育長は、「ささいな言葉や行為であっても無視することはできないが、一方でその受け取り方は人によってさまざま。いじめを裏付ける決定的な事実は出てきていない」と述べた。今後、市教委として改めて経緯などについて調査するという。
女児の母(37)は「いじめに気づいてやれれば、転校するなどの選択肢もあった。せめてトラブルに気づいた先生から、連絡の一本さえあれば」と話している。
(「自殺小6、いじめ記した遺書 「みんなに冷たくされた」(朝日新聞) - goo ニュース)」より)
この時点では、滝川市教育委員会は、生徒の自殺といじめに因果関係は認めていないが、後日、認め遺族に謝罪している:
市長が遺族に謝罪 女児「死にたい」と話す
2006年10月5日(木)22:04
北海道滝川市の小学校教室で昨年9月、6年生の女児=当時(12)=が自殺した問題で、田村弘市長らが5日夜、女児宅を訪問し遺族に「いじめの把握と対応に不十分さがあった。子どもの苦しみ、家族の気持ちをないがしろにして申し訳ありません」と謝罪した。「いじめの事実を確認できない」としてきた滝川市教育委員会が同日、自殺の原因について「遺書を踏まえ、いじめと判断する」と初めて認めたのを受け、弔問した。
また、自殺した女児が同級生に「死にたい」と話したり、交換日記に「自殺したい」と書いていたことが関係者の話で分かった。学校で「キモイ」「臭い」などと言われ日常的に仲間外れにされていたという。
友人によると、女児は4年生のころから、多いときには1日おきに「死ねるなら死にたい」と暗い表情で話した。女児と遊んでいると「遊ばない方がいいよ」と別の児童に言われたこともあった。女児は図書室で1人で過ごすことが多かったという。
(「市長が遺族に謝罪 女児「死にたい」と話す(共同通信) - goo ニュース」より)
すぐに気がつくことがいろいろある。
その中の一つだけ挙げておくと、関係者の隠蔽体質と保身に汲々とする姿勢である。
「北海道滝川市の市立小学校で昨年9月、自分の教室で首をつり、意識不明のまま今年1月に死亡した6年生の女子児童(当時12)が…」とあるのが、今頃になって何故、問題化したのか。
報道によると、滝川市教育委員会(や学校側)は、事実関係を調査していて、などと当初は話していたようだが、どうやら容易に想像が付くように隠蔽工作が為されていたようだ。
要はなかったことにしようというわけであろう。
残された児童や学校側、そして市教委が傷つくことなく、表面的にでも平穏無事に過ごせるようにという教育的配慮が働いたものなのか。
が、こうしたことは、いじめで自殺した生徒、そして遺族らに対し、最終的で決定的な<いじめ>を為していることになるとは、まるで思いもしないようだ。自分たちさえ無事なら、それでいいってことなのだろう。
あるいは大人の知恵?
確かに、いじめと生徒の自殺とは、自然科学で言うような因果関係などありはしないのかもしれない。
ここで思い出すのは、「中野富士見中学いじめ自殺事件」である。
「1986年(昭和61年)2月1日、岩手県盛岡市の国鉄(現・JR)盛岡駅に隣接するデパート「フェザン」の地下1階男子トイレで、東京都中野区立中野富士見中学校2年の鹿川裕史(しかがわひろふみ)君(13歳)が自殺した」事件で、詳しくはリンク先を覗いてほしいが、ここで注目するのは裁判での<エピソード>である。
虐めのエスカレートする様子は、以下のように伝えられている:
前年の1985年(昭和60年)5・6月、中学2年に進級して間もない頃、クラスの中にツッパリグループが自然にできると、鹿川君は「使い走り」をさせられるようになっていた。
10月上旬、「ふざけ」が急速にエスカレートしていく。顔にマジックでヒゲを描かれ、廊下で躍らされる。服にマヨネーズをかけられる・・・・・・。
度が過ぎるときは、級友が止めに入ったが、当の本人はさして苦にもしていない様子であった。「家に帰るのが怖い」ともらし始めたのもその頃で、「いじめ」に遭っていることを告げると、厳格な父親(当時42歳)は、鹿川君を叱る一方、抗議のため、いじめた子どもの家庭に乗り込むこともあった。
11月14・15日、クラスメイトや教師までも加わった「葬式ごっこ」が行われた。黒板の前におかれた鹿川君の机の上には、飴玉や夏ミカンが並べられ、花や線香も添えられていた。鹿川君の写真の横には「追悼」色紙がおかれ、そこには級友の寄せ書きや「やすらかに」といった担任を含む4人もの教師のメッセージや署名もあった。
1986年(昭和61年)1月8日、この日は始業式の日だったが、10人ほどのグループに、ひざ蹴りやパンチなどの暴行を加えられた鹿川君は、その後、欠席を繰り返すようになっていた。登校した日は、校庭で歌を歌わせられたり、下駄箱の靴を便器の中に投げ込まれたりした。
1月30日、最後の登校日となった。その夜、鹿川君は家でごはんを食べ、コタツにくるまりながらテレビを見ていた。別に変わった様子もなかったという。
2月1日朝、鹿川君はいつも通り、自宅を出る。母親(当時39歳)が、鹿川君の姿を見たのはこれが最後だった。
鹿川君の両親は、東京都と中野区、リーダー格の2人の両親を相手に、総額2200万円の損害賠償請求を東京地裁に起こした。
9月、東京家裁は、リーダー格の2人に保護監察処分を言い渡した。
1991年(平成3年)3月27日、東京地裁の判決が出た。それによると、「『葬式ごっこ』はいじめではなく、むしろひとつのエピソードとみるべきもので、自殺と直結させて考えるべきではない。鹿川君の心理的・精神的反応を予見することは不可能だった」として、自殺については学校側や加害者側の責任を認めなかった。だが、自殺直前に加えられた暴行による、精神的苦痛に対する慰謝料は認めて、中野区など被告側に、弁護士費用100万円を合わせ、総額400万円の支払を命じた。
原告側はこの判決を不服として控訴した。
1994年(平成6年)5月20日、東京高裁は、「いじめはなかったとした1審判決を変更し、自殺の前年から『葬式ごっこ』を初めとするいじめは続いており、学校側にはいじめを防止できなかった責任がある」として、被告4人に対して、総額1150万円の支払を命じた。
しかし、ここでも、自殺の「予見可能性」はなかったとの判断で、いじめによる自殺については加害生徒側や学校側の賠償責任はないとした。
(「中野富士見中学いじめ自殺事件」より)
「『葬式ごっこ』はいじめではなく、むしろひとつのエピソードとみるべきもので、自殺と直結させて考えるべきではない。鹿川君の心理的・精神的反応を予見することは不可能だった」なんてのは、あまりといえばあまりの判決文ではなかろうか。
さすがに、東京高裁は『葬式ごっこ』も含め、いじめであると認定したが、それでも、「自殺の「予見可能性」はなかったとの判断で、いじめによる自殺については加害生徒側や学校側の賠償責任はないとした」のだった。
これでは、死んだものは、虐めに耐えられずではなく、ただ惨めに意味もなくこの世から消滅していっただけになる。
因果関係!
暴力で直接、死に至らしめないかぎり、因果関係は認められないということか。
これでは、やったもの勝ちということになるのではないのか。せいぜい、保護観察処分止まり。
いじめが蔓延る原因については、各関係機関は上記の記事では、以下のような見解を示していた:
「1986年(昭和61年)3月、法務省人権擁護局によると、いじめた側は、(1)力が弱い、動作が遅い、(2)なまいき、良い子ぶる、(3)仲間にはいらない、(4)肉体的欠陥、(5)人より優れている、(6)転校生・・・を理由に「いじめ」を行っている、という調査結果を発表した」
「臨時教育審議会では「いじめ」について、「『相違』を許容しない学校の体質、受験ストレスに加え、乳幼児期の親子相互作用の不安定、しつけや自己抑制力の不足、過保護、過干渉、放任家庭、面白いことを価値ありとする風潮など、さまざまな要因が複合している」というものだった」
「社会福祉法人「いのちの電話」の斎藤友紀雄事務局長は、「『いじめ』は世界中で起きていますが、日本の場合、その一番大きな原因は、異質なものを認めないという精神文化に根ざしていると思います。偏差値教育や核家族化によって孤独を強いられた子どもたちは、必死に自分の居場所を求めるのですが、性格や能力が集団と調和しない子は、集団から排除されてしまう。つまり、村意識が働いて、村八分にされてしまうのです」と語る」
日本は極端な排他社会になってしまっているのではないか。何年か前、イタリアの極右政党の党首が日本の排他性(他国の民族を拒絶する仕組みと傾向)を羨んでいたことが、ちょっと話題になったことがある。
隣の誰もが自分と同じでないと許せない。
一方、自分の個性と独自性は主張したい。
その結果、せいぜいファッションと化粧の徹底した差別化傾向が顕著になる。ファッション雑誌は花盛りだし、化粧や美容や健康に費やす努力と経費はバカにならない。
けれど、それでみんな個性的になったかというと、街中をちょっと歩いてみれば、あるいは観察してみれば分かるが、化粧法の何と似通っていることか。ファッションも微細な部分での差別化に血眼になっているだけで、基本的な傾向はまるで同じである。
そう、ある一定の範囲の枠組みからは決して離れない、食み出さないというのが金科玉条になっているのだ。決して他人と、世間と外れていてはいけない。等質性を徹底して確保し死守した上で、あるギリギリの狭い範囲内で極めて僅かな違いを<主張>している。
それは自己主張では最早、ない!
カラーナンバーの下のほうの小さな桁での違いを、そう、百桁もある識別番号の最後の一桁か二桁の違いに汲々としているに過ぎない。間違っても、大分類で他から食み出し、未知の世界へ一歩を踏み出す、そんな意気などあるはずもない。
そのような群れる心性というのは、容易に想像が付くように学校教育の十数年の中で育まれたものなのである。
というより、学校教育というある種、刑務所にも似た外観を呈しつつあるような、閉鎖機構の中で徹底して、他とは違わない。価値観において学校を社会をそしてひいては政治を揺るがすような独自性を持たない、あるいは個性の萌芽があったなら徹底して削ぎ落としていく、そうすることで日本という仲間の輪と和に適合するように箍が嵌められていくわけである。
特に学校における虐めというのは、そうした閉鎖機構の中の見せしめ現象という側面を持つと思われる。
いじめに加担するか、せめて見て見ぬ振りをする訓練の場なのではないか。
いじめのターゲットはある意味で、極めて不人情な表現をするなら、人身御供なのではないか。
等質な社会、平和な社会、腹の中で何を考えようと、行動の上では一定の規範を決して食み出さないという、本能的なまでの習性を身に叩き込まれた人間たちだけの社会を形成するには、<敵>が<犠牲>が<ターゲット>が、つまりは、食み出したならこうなってしまうという<見本>が作られる。
ほら見ろ、仲間の輪から外れると、お前も、ああなるぞ。いいのか。
いじめをする日常性がエスカレートすると、一体、どうなるか。
いじめているということにもやがて不感症になる。自分がいじめの対象にならないように動くには、どのように振舞えばいいのか、本能にまで行動パターンが組み込まれてしまう。
キモイと呼ばれる相手が何ゆえキモイのか明確な形で説明などできない。キモイからキモイのである。
犠牲者は、人身御供はこれからも作られていくのだろう。多くは耐え忍ぶだけなのだろう。耐え切れず自殺するのは、ほんの一部で、大概は心に傷を負いつつも、生き延びていくのかもしれない。
大多数のいじめ加担派は、世間と世論を形成する。常識を持ち、良識のあることを自覚する。
上で、「学校教育というある種、刑務所にも似た外観を呈しつつある」云々と書いている。
つい昨日もニュースで学校に酒に酔った男が学校に闖入し、体育の教師に取り押さえられたとあった。
小学校も中学校も、侵入事件などに神経をぴりぴりさせている。で、学校は、ガードマンを雇い、あるいは敷地を分厚いコンクリートの壁で、あるいは鉄柵で取り囲み、外部からの遮断を図る。
なるほど、児童生徒を預けている保護者としてみれば、安心だ!
が、そうした学校を、ちょっと外から眺めてみるとどうだろう。
なんだか、刑務所か拘置所に似ていないか。まるで敷地の中には、外部の世間の人が垣間見たり、コンタクトを持ったりしてはいけない、とんでもない連中が閉じ込められているみたいではないか。
閉鎖された空間になればなるほど、息が詰まる。四囲を壁に囲まれ安心ではあるが、逆に言うと、外部の目が届かないという意味でもある。
内部は、というと、いじめがあっても、ないと考えるのが常識の世界なのだ。見ても見ないふりをしないと生き延びることはできない。間違っても、いじめがあると認識してはいけない。
そのときは、気付いたあなた、告発を図ったあなたがいじめのターゲットになり、自殺に至らないとしても落ち零れ、あるいは食み出して、負け組どころか、日陰の身に真っ逆様である。
塀の中の窒息しそうな面々。
いじめはあってはならないから、だから、現にありません、が建前の閉鎖空間。
学校の外部からの防御が強まる。そして塀の分厚さや高さに比例して、外からは窺い知れない異次元空間になっていく。虐めのターゲットにされたものには、善意で設けられたコンクリート壁と鉄柵とで、まるで逃げ場所のない空間。
出口なし?
処方箋はない?
とにもかくにも、一般社会もだが、学校もサバイバルの時代になったのだと、つくづくと感じるのである。
[「Yahoo!ニュース - 時事通信 - 他生徒にも「豚」「偽善者」=不適切発言の元担任-中2男子自殺問題・福岡」によると:
福岡県筑前町の町立三輪中学校2年の男子生徒(13)がいじめられたとのメモを残し、自殺した問題で、男子生徒のいじめの引き金になった言動をしたとされる元担任の男性教諭が、ほかの生徒に対しても、「豚」「偽善者」などと不適切な発言をしていたことが16日、分かった。
合谷智校長によると、この教諭は男子生徒が中学1年の時の担任で、ほかの生徒にもイチゴの品種に例えて、「あまおう」「とよのか」「お前は出荷できないイチゴ」などとランク付けをしていた。女子生徒には「君は太っているから豚だ」と言って、漢字を書いたりした。
(時事通信)
だって。ああ、これでまた教育基本法の<改正>論議が高まるんだろうな。
しかも、「Yahoo!ニュース - 読売新聞 - 福岡・中2自殺、校長が担任の言動との因果関係撤回」によると:
福岡県筑前町の町立三輪中2年の男子生徒(13)がいじめを苦に自殺した事件で、1年生の時の担任だった男性教諭(47)の言動と生徒の自殺との因果関係を16日の記者会見で否定した合谷(ごうや)智校長は、16日午前2時前、生徒の両親宅を訪ね、「時間が経過しており、自殺と結びついているとは考えていない」との見方を直接、伝えた。両親は納得せず、「教諭のいじめは最近まで続いており、因果関係は明らかだ」と反発している。
合谷校長は、男性教諭が生徒の母親からの相談内容を暴露、これが生徒間のいじめに発展し、男子生徒の自殺に結びついたことについて「教諭の言動が自殺につながったと認識している」(15日)と直接の因果関係をいったん認めていたが、16日の記者会見では一転して否定した。
(読売新聞)
だって。
直接の因果関係なんて、証明しようがないのは確かだろう。そんな悲惨な現実を耐え忍び生き延びた人も多いのだろうし。両親は納得しないのは無論だろう。誰かに責任を問いたいだろうし。教諭だけじゃなく、他の生徒も悪乗りしたのは事実でもあろう。
悪乗りした生徒は、知らんふりだろうか。そういう生徒が将来、成功するかもしれない。何かの不都合・不祥事を起こしても責任を他人に転嫁したり、素知らぬ顔で切り抜ける<成功体験>を得てしまったのだし。 (06/10/16 追記)]
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コメント
さらにひどいいじめによる自殺が、また起こっちゃったね。
「死にたい」「死ねば!」
いじめたほうは、「冗談だと思ってた」んだとさ!
大人たちはこれだけいろんなニュースに接してて、何も教えんのかいな!
投稿: 志治美世子 | 2006/10/15 16:42
虐める側が凱歌をあげる時代になりつつあると感じています。暴力を振るっても、逃げ切りシラを通したほうが勝ちになる。過去の悲しい歴史も、見てみぬふりをして上辺だけ他国に配慮したような言動で誤魔化す。こっそり、靖国へ参拝して岸信介を英雄視する…。
虐める側は、徒党を組む。で、弱い立場のものを各個撃破する。ネットでも生真面目なサイトほど狙い撃ちされる。孤立しているサイトほど閉鎖に追い込まれる。
虐める側は右翼に、あるいはタカ派に、暴力団になって、思い通りに動く、動かす。
虐める側は勝ち組の中心に巣食っていく。テレビで活躍するマスコミ陣の情けないこと。政府に都合のいいことしか言わないようになっている。テレビのマスコミは政府の太鼓持ちなのか。
虐め問題って、根も奥も深いと痛感する。
和を以て尊しとなす国では、違いは悪であり、異物なのだと、子供の頃から学校で叩き込まれるんだね。
違いがあってこそ、世界は楽しいとは思えないし、思ってはいけない、それが日本の社会なのだろう、そうは思いたくないけれど。
先生にしても、国旗・国歌に拝跪(はいき)し、教育委員会に平伏す先生でないとなれない時代になっている。東京都がその典型。子どもより、上(つまり校長や教育委員会、そして国)をばかり見る。
子どもに向き合うような先生では困るのだろう。子どもは軍隊式に、命令と<常識>に従う素直な、国家の政治や方針に疑いを持たない子どもであるべきなのだろうね。
教育基本法が<改正>されたら、もっとこの傾向が強まるのは必至。
怖い時代に入りつつあると認識している。
投稿: やいっち | 2006/10/15 20:04
イジメってホントに陰湿で想像以上のつらさとひどさを味わいます。当の本人は。
投稿: fmxw | 2011/02/02 22:19
fmxwさん
名前からしてスパムコメント?
「イジメってホントに陰湿で想像以上のつらさとひどさを味わいます。当の本人は」の「本人」って、いじめられている人? 苛めている側のこと?
少なくとも苛められる側は、苛められたこと、仲間外れにされたことなど、心の傷となって、ずっと残りますね。
なんとかサバイバルして大人になれば、その分、人に優しくなれるかもしれない…。
中には、自分が子供の頃にされたことを、大人になって、別の形、別の相手に仕打ちする人もいるんでしょうが。
人間って、ホント、難しい、厄介な存在です。
投稿: やいっち | 2011/02/05 11:14